原理運動の素顔
何をする集団なのか その不気味さの実態を衝く (1975年)
山口 浩 (やまぐち・ひろし)
著1937年東京生まれ。立教大学卒業後,コピーライター,シナリオライターを経て雑誌媒体に入る。以後一貫してフリーランスのルポ・ライターを続け,主として海外取材が多い。特にカジノに精通し,世界カジノのレポートやカジノギャンブル小説などをものして,この面での第一人者。 今回も韓国は五カ所のカジノのオーナーとも,昵懇の間柄で,月に一度は行くが,その韓国で遭遇した題材だった。硬軟ともに氏の筆になると独特の味合いに料理されて出来上るが,そのジャーナリストとしての眼はしたたかである。
著書多数。
原理運動って何だろう
一九七五年二月八日、韓国のソウルで行なわれた千八百組の合同結婚式のもようは、新聞やその他の報道機関によってかなり大々的に取り上げられたので、読者の方々にはまだ記憶に新しいことと思う。そしてこの〝合同結婚式〟を通じて、原理運動ということばを初めて耳にした方も多いにちがいない。
私はこの運動の実態を取材しているうちに、平和な家庭を破壊してしまう原理運動の恐ろしさをまざまざと見せつけられた。
では一体、原理運動とは何なのか? 私はこの疑問を根本にすえて、その運動理論や教祖・文鮮明とはどんな人なのか、また原理運動を支える資金源は何か、などの問題を解明してゆきたい。
1章 原理運動とは何か
2章 教典・原理講論を紹介してみる
3章 勝共運動とは何か
4章 韓国宗教界の実態
5章 教祖・文鮮明の素顔
6章 文鮮明の虚像と実像
あとがきにかえて
1-3頁
はしがき
私の人生に於いてのキリスト教との関わり合いは、四歳の時から始まる。といえば昭和十六年のことだが。今日のように有名幼稚園に入園するのに徹夜して順番を待つ。といった教育ママがいなかった故か、その頃の幼稚園は、専ら先生たちが勧誘して歩いたものらしい。そして、公園で遊んでいた私にも、というより母に、だが、声がかけられ、私は早生まれなものだから、四歳で幼稚園へ行かされた。そして、その幼稚園を教会が経営していた。昔の町名でいえば牛込区柳町の教会の幼稚園である。
クリスマスは愉しかった。私の父が寄付をした大きなツリーに懸る星や雪は、本物のように見えたし。鈴の音と共に入って来たサンタクロースもまた、子ども心には銀嶺の果てから、橇を駆ってやって来た本物に見えた。パイプオルガンのクリスマスソングが今でも耳に遺っている。高校時代になって、再びキリスト教と出会った。たまたま入った学校が立教セントポールといった。勉学とスポーツと遊びの青き日々の、チャペルは舞台の書き割りに過ぎなかったが、私にとってキリスト教は絶えずロマンチックな位置に在って、それは気まぐれに聞く煎香のようなものだった。
いま、不惑に近づいた歳となり、人間にとっての宗教の重みを識るようにもなった。だがやはりキリスト教というと、そんなムードっぽさといった印象が拭い去れないのだったが、今年(昭和五十年)一月おわりに、韓国のソウルで、一人の婦人の話を聞いてから、そんなムードっぽさが壊れ微塵になった。
彼女の息子さんが統一教に入って発狂したというのだ。発狂する程強力なパワーがキリスト教にあったことに戸惑いを覚えた私は、日本に帰って、原理運動被害者父母の会の人たちに出会い、また戸惑った。
今回のレポートは、私の裡にあるキリスト教のロマンチックな部分をぶち壊わすことからスタートした。そしてこのキリスト教でも異端とされている世界キリスト教統一神霊協会を知るために。その本家である韓国を主に取材のターゲットとした。
すでに多くの先輩諸兄が、原理運動に取り組みレポートをものしている。取り組んでから六ヵ月で本にした私には拙速の識 (そし) りを免れないが、少しでも早く世間の人たちに伝えたいと希 (ねが) ったのは。まだ寒風が舗道を吹き抜けるソウルの街で、何人かの名もない人たちの取材をおえて宿舎へ帰る道すがらであった。
なお、タイトルは、通常いわれている原理運動を素直に載せたが、この原理というネーミングは、教祖文鮮明が説き明かした教理「原理講論」に依るものらしい。
また、世界キリスト教統一神霊協会を略して統一教というが、韓国のジャーナリスト、金景来氏の説では、「分断された朝鮮半島を統一しようという意識があるから、文教祖がこの名前を付けたのだ」という。
たしかに朝鮮半島には新興宗教がアピールしうる精神風土が存在する。この思想的分断を解消して、大きな傘のうちに両国を入り込ませるような第三のイデオロギーを、民衆は待ちのぞんでいるから、われこそは救世主だと名乗る者が出て来るのだ、という金氏の説を十分に参考にしたい。
だが、統一教はこうした民衆の声援を背に受けて拾頭し、世界的発展を遂げたのだろうか。民衆救済の宗教として一九五四年五月一日、教祖文鮮明は立教宣言し、民衆と共に十九年間、歩んで来ただろうか。読者諸兄には、この〝Q〟(クエスチョン) をまず頭に刻み込んでから読み進めて戴きたい。
著者
― もくじ ―
はしがき
1章
原理運動とは何か
どのような運動か、宗教なのか ……………………………………… 10
・キリスト教の一派とは誰も思わなかった 10
・原理運動にはわからないことが多すぎる 14
・宗教としての世界キリスト教統一神霊協会 17
・アメリカではなぜ統一教がモテるのか 19
「被害者父母の会」の怒り …………………………………………… 24
・なぜ「全国原理運動被害者父母の会」が出来たのか
・わが子を返して欲しい!
・「全国原理運動被害者父母の会」会員の被害実態の記録――
・一家団らんの平和を奪った教会がにくい!
・検事になったら統一教を叩く――婚約者をとられそうになったHさんの決意
・「親は子達に家庭の暖かさを時間をかけて教えろ」
・行方不明になっている信者も多い
・「原理運動賛成父母の会」も出来たというが…
美名にかくれた営利集団 …………………………………………… 47
・私は統一教の熱心な信者だった――民団杉並支部団長、金奎會氏の証言
・「統一教は青少年の未来を灰色にし、家庭まで崩壊する」
・私もまた統一教の最高幹部の一人だった――離教したK・K氏の証言
・美名の下での街頭募金で私財をうるおす幹部
2章
教典・原理講論を紹介してみる
既成キリスト教と何処がちがうか ………………………………… 62
・文の「現実的な解釈」は間違っている
・①「堕落論」そのちがい――
・② 特異な堕落論「イブはサタンと性交した」
・③ アダムとイブは何故イチジクの葉で前を隠したか?
・④「聖書観」そのちがい――
・⑤「救世主観」そのちがい――
入教するとどのようなことをやらされるのか ……………………… 75
・六時起床、七時に朝拝と原理の説教。主食はパンの耳
・洗脳に耐えられない人間は廃人同様にされる
・朝鮮人参茶のセールスは雲水の托鉢と思えばよい
・教会の献金のために身も心もすりへらしてセールスする青年
・奉仕の名目で入った収入は一休どこへ行くのだろう
3章
勝共運動とは何か
統一教と勝共との結びつき ……………………………………… 94
・「救国世界大会」の意図するところは
・日本の政治家・財界人を動かす文の政治力
・勝共連合に賛助・寄付する日本の企業
4章
韓国宗教界の実態
なぜ統一教が生まれたのか ……………………………………… 106
・国民二人に一人は信仰を持っている
・韓国でのキリスト教の歴史は迫害の歴史だった
・統一協会はキリスト教のどの派に属すのか
・教祖さまはなぜ財産家になれるのか
5章
教祖・文鮮明の素顔
統一協会の歴史と教祖・文鮮明の生い立ち …………………… 118
・億万のサタンと闘った文鮮明の血と汗と涙の道とは 118
・「希望の日」フェスティバルのパンフレットに書かれた文鮮明とは 123
・文は十六歳の時、神の啓示を受けたというが…… 126
・統一協会ではなぜか文教祖の歴史を隠したがる 129
・文の隠された秘密―― 十六歳啓示説はウソだった?! 132
・文は本当に早稲田大学を卒業しているのか 135
・文は本当に反共のカドで逮捕されたのか 139
・文は混淫派の代表洛だったという説は本当か 141
・文の「原理講論」は金百文の原論の盗作ではないのか 146
文鮮明はキリストの生まれ変わりか …………………………… 150
・怪し気な按擦祈禱で私財をこやした文の先輩・朴泰善 150
・高収益をもたらす宗教商法は朴泰善から学んだ 154
・ついに明るみに出された〝血分け〟の秘事 156
・彼は「混淫罪」のかどで逮捕されたことがある 161
・おどろくべき混淫派の教理 164
・文鮮明は血分けの教祖的存在だった 166
・いかなる理由で文は逮捕されたか 168
・神サマもカミサンのコントロールは下手だった 171
・牧師夫人はなぜ夫の捨ててまで文のもとに走ったか 175
6章
文鮮明の虚像と実像
傷だらけの教祖さま ………………………………………………… 180
・藁ぶき小屋から出発した世界キリスト教統一神霊協会
・優秀な大学生が続々と統一教に入教したわけは
・なぜ文教祖には黒い噂がつきまとうのか
・裁判では無罪となったが、火のない所に煙は立たない
・文教祖に青春を俸げたある婦人の告白
文鮮明を支える資金源 ……………………………………………… 195
・ブロマイドを売って財を成した統一協会
・十三会社・団体を傘下に収めた大財閥
・あのリトルエンジェルスも文鮮明が始めたもの
・私腹をこやすため密輸に利用されたリトルエンジェルス
・離教者が語る初期の統一教の実態
・「原理は盗作である」という説をさぐると…
統一教はどこへ行く……………………………………………… 220
・千八百組でなく、実は千七百九十九組の合同結婚式だった
・統一教追放を叫ぶ二百五十万の既成キリスト教派
・合同結婚式と希望の日フェスティバル、どちらも統一教のパブリシティだ
・果して統一協会は母国で市民権を得られるだろうか
あとがきにかえて
10頁
1章
原理運動とは何か
どのような運動か、宗教なのか
キリスト教の一派とは誰も思わなかった
人の記憶は定かではないが、眼に映った出来ごとを、脳裡の何処かが覚えている――そんなことってよくあるものだ。
脳裡の何処かが、東京・渋谷のハチ公前あたりで、黒板を立てて、その黒板に神と人、父と子、とか、神と悪魔などの二元論を書き、竹のムチを持って、客がいないのにもかかわらず、声を張りあげているひたすらマジメ人間といった感じの若者を覚えていた。
また、〝共産党は間違っている〟と大書したトラックの上から、まだ若い女子学生が、つっかえながらもマイクで演説しているシーンもまた、私の脳裡のフィルムパックに収まっていた。
マルキシズムを説くなら分るが、あんなに若く、しかもこれまた白いブラウスに紺サージのタイトスカートといったいでたちの、マジメ一方の、白いブラウスの胸のふくらみの小ささから見ても、いまだ未通の乙女といった感じの女性が、脂ぎった田舎政治家のいいそうな内容を喋べっている不思議さと、この団体を裏で支えているのは右翼団体なのかしら、といった審 (いぶか) しさこそあれ、記憶はそこで途切れてしまっていた。
そういった記憶の切れ端しを、老いたる母の運針のような着実さで、繋いで行ったのが、あの一九七五年(昭和五十年)二月八日、韓国ソウル、奨忠体育館で行なわれた世界キリスト教統一神霊協会の千八百組合同結婚式であり、これに参加するため韓国へ行こうとする日本の信者たちを阻止する彼らの父母たちの動きで、これが新聞などに報道されると、この原理運動はより明確に、私たちの前に露わになり、完全に記憶の切れ端しが形をなして来たのだった。
勿論、この運動は日本統一教会の設立が一九五九年(昭和三十四年)十月二日だから、十年以上も前から行なっていたのである。
だが、良きにつけ悪しきにつけ、社会問題となり、報道機関を通じて人口に膾炙 (かいしや) されたのはやはり今年に入っての、あの千八百組合同結婚式前後からではなかろうか。
原理運動という言葉を聞くと、何か哲学とでもいった難しい論理を展開させて行く運動だろうと、誰もが思うにちがいないし、だけど、これがまさかキリスト教の一派であって、キリスト教を説くのだとは思わなかった。伝道形式といえば、救世軍の社会鍋のような慈善運動を介在させる場合もあり、時には郊外の小駅で、駅から十分程度の距離にあるキリスト教会の信者サンたちが、伝道週間なのだろうか、マイクなしで声をはりあげて讃美歌を歌ったりするのに遭遇することはあった。
また、バックに不気味なものを感じさせながら、トラックの上で演説をする白いブラウスの処女が、実は右翼団体のヒロインではなく、聖なるクリスチャンであったとは、どうしてもあのトラックの横の俗称フンドシの墨黒々の文字〝共産党は間違っている〟と、アーメンとが結びつかない感じなのである。
記憶の切れ端しはこうして繋り、シネフィルムのようなコマになったが、このコマがさらに繋っていくのが、この一、二年足繁くわが家を、そしてあなたの家を訪問して来る〝朝鮮人参茶のセールスマン〟であり、 〝リトルエンジェルスの切符売り〟である。
朝鮮人参茶が、韓国特産の青磁(または白磁=勿論まがいものではあるが)の壺になったり、純粋蜂蜜になったりする。
まだある。あなたの脳裡の何処かが、次のシーンを覚えておいでではなかろうか。
駅前で花束を持って、若い男が、あるいは女が立っている。近づくとツッと花束を目の前に。
そういえば私は、はじめて中央線荻窪駅前で花束を突きつけられ、咄嗟にこれは、盛大な結婚式でもあって、この時に飾られた花を、もったいないから花束にして、祝福のおすそ分けをするのかな、と思ったものだった。近来にない心暖まる話だ。花嫁はさぞ美しかろうと思いながら花束を受け取り「いいの?」と尋ねると、相手は青白い顔をした青年だったが、黙って頷くので、スタスタと歩いてバスのステップに足をかけたら、後から上衣を掴まれた。
振り向くと祝福の贈り主だ。恐しい顔をして手を出した。
「お金を払って下さいッ!」
あれは、夕立ちの後の赤トンボのように、一時期コツ然と駅前やら街頭に姿を現わしたものだったから、あなたの記憶にも残っているだろう。
まだある、のだ。これも街頭や駅前での募金運動である。
「ベトナムの可哀相な子らに献金を!」
「交通事故で親を失くした遺児に愛の手を!」
手づくりの募金箱を持って行むこうした活動家もまた、若い男か女であった。私は彼らを見て、卒直に思ったものだった。「彼らがお金をそっくり関係筋へ渡すだろうか、ちょっと昼メシ代を、なんてことを考えないだろうか、こうしたことは政府がやるべきことではないだろうか〟
第一、不思議なことに、所属団体も何も明記していないのだ。しかし、この募金活動が、世界キリスト教統一なんとやら教会だか協会がやっていることが判れば、あの社会鍋と同じ系列の慈善活動だとして、心ある人は大いに協力することを惜しまなかったであろうに、おかしな教会である。ひたすら名を伏せて、足長おじさんのように隠れた善行を続けていたのであるから。
14頁
原理運動にはわからないことが多すぎる
ところが、街行く人々も、私同様の不審を抱いた。続々と新聞の投書欄にこうした声が載り(花売りに対しても同様の投書があった)、新聞社も調査に乗り出した。
いくつかのこのような記憶の断片が実は、今日のような大きな問題になろうとは、直接関わりのない者(私も含む)は想像もしていなかった。
〝街頭寺小屋(即ち黒板を立てて原理解説)〟
〝共産党は間違っている(即ち立派な組織体になっていて勝共連合という)〟
〝朝鮮人参茶のセールス〟
〝韓国の壺売り〟
〝蜂蜜売り〟
〝花売り〟
〝街頭募金のいろいろ〟
これらが、日本に本部設立となった昭和三十四年からずっと縦糸となり、全てが 〝原理運動〟の名において成されつつ、次第に大きな集団になって来たことも後になってこそ判明される。
だが、如何ようにいおうとも、この原理運動は、統一教会(日本の場合は教会、韓国では協会)というキリスト教の一派が興している宗教団体の布教活動にはちがいない。
すでに記憶の切れ端しとはいえない、ごく最近のことであるが、活発化して来た『全国原理運動被害者父母の会』についてもまた、数々の報道が行なわれている。
この被害者父母の「被害者」とは、ダレのことを指すのか、また、この原理運動が宗教団体の、キリスト教の一団体の布教活動であるならば、宗教本来の目的である〝人間を幸福にする〟という大前提を今さら引用せずとも、被害者が出る、という現象は、キリストの名においても、おかしなことではなかろうか。
私はあとがきにも触れたように、決して統一教に対する恨みつらみなどはない。だが、一ジャーナリストとして、取材対象の照準に原理運動をおいてみると、あまりにも、何故か?どうしてか?が多い。
何人かの先輩ジャーナリストたちのように、数年がかりでこの問題に取り組んだわけではないが、徹底取材をモットーとするため、本家の韓国において、おのれの可能な限りの取材をした。すでに先輩諸氏が、韓国内のことで文献資料で書かれたことも、私はこの足で歩き、この眼で見て来た。故にこの本の比重が韓国内のレポートに重くなった所以である。統一教に対する恨みつらみはないが、あくまで、〝何故か?どうしてか?〟と、卒直な疑問を前面に押し出して、これを引き金にした。
だから、〝被害者〟というのは、父母たちのほうで勝手に付けたものであって、本人にとっては、犯罪用語であるこんな物騒なネーミングをされたのでは迷惑であるし、事実、本人は幸福の絶頂にいるのであって、これは身内とて越権行為ではないのか、とも疑ってみて、公平を期し、入教してそこで生活をしていた有者にも取材して、これも掲載する。
また統一教は、キリスト教を名乗っているが、別派のキリスト教徒たちは、この宗教をどのように見ているのかも知りたい。キリスト教徒にとって、その教科書ともいうべき聖書は、絶対なものである筈だが、統一教では、聖書をどのように解釈しているのか。
これは、別派のキリスト教の牧師さんに、読み比べてもらった。読み比べる、というのは、この世界キリスト教統一神霊協会の教祖、文鮮明が著わしたとされている
『原理講論』に、聖書の解釈が成されているので、この解釈と、既成キリスト教会との解釈を読み比べてもらったわけである。
以上の如くで、何故か?どうしてか?を引き金として、原理運動の素顔を解明して行く。なお、前に述べた〝花売り〟やその他については、後で詳しく触れることもあるが、それは故意に重複させることになる。
17頁
宗教としての世界キリスト教統一神霊協会
このことも、後で詳しく述べることになるが、いわば、序章として、予備知識程度にダイジェストしようと思うのが、宗教としてのこの教団についてである。
韓国に於いてキリスト教は盛んである。その中で、新興宗教といわれるキリスト教団が五十二派もあり、統一教もこの五十二派の内に数えられる。新興宗教の一派に過ぎないこの派が、何ゆえに世界へ伸展する宗教団体になったか、主因を摘出するためには、その歴史に触れる作業を行なうのがよい。
一口にいえばこの派は、代々続いて来たものを、文鮮明が受け継いだのではない。その修行中には受け継いだ教えなどもあったが、あくまで彼自身が立教した宗教なので、統一教は文鮮明の宗教だといえる。
文鮮明は、一九二〇年一月六日(陰暦)に比較的裕福な農家の次男として北朝鮮で生まれた。彼が十歳から十五歳の間ごろに、一家がキリスト教の長老教という宗派に入教する。彼は中学時代を韓国のソウルで寄宿生活をし、さらに日本へもやって来て、三年間を主に東京の戸塚で生活する。早稲田大学に留学した説もあるが、これは根拠がない。
第二次世界大戦終結の前年に韓国へ帰る。韓国解放(つまり日本の敗戦)後十カ月すぎて平壌へ行く。ここで警察に逮捕され、五年の刑で刑務所へ。服役中に朝鮮動乱が勃発し、国連軍が攻めて来て助け出される。平壌から韓国をずっと南下して釜山へ来る。釜山で落ちつき、このころから立教の具体的な動きを見せる。弟子も集まって来た。やがて大邱へ、さらに首都ソウルへ上がって行く。
刑務所から解放されてから四年目の一九五四年五月、文鮮明はソウルで世界キリスト教統一神霊協会を設立する。
このころの統一教に、名門校梨花女子大生や、その他の大学生たちが続々と入教して、大学側が問題視し、退学処分などにする。だがこの時期は、一挙に信者が倍増する。
間もなく文はソウルでも逮捕される。罪名は『不法監禁嫌疑』つまり女性問題である。これは無罪となる。
やがて文は二十四歳も年下の当時十八歳の女子高校生と再婚する。
なお、財政面としては、女優のブロマイドを大量販売して儲け、独占企業として空気銃の製造販売で財をなし、こうしてさまざまな企業に手を出して行く。
現在、日本で売られている朝鮮人参茶とは、韓国内の統一教の企業で製造し、それを統一教が経営する商事会社で、日本へ輸出し、統一教会が経営する日本の商事会社がこれを受けて、そしてそれを卸し、卸した品物を統一教信者たちがセールスして歩く……。
だが、これとても教会の財政のタメ、全員が一致協力して悪いことはなかろう、と思うがどうだろう。
やがて文鮮明は、母国を離れて家族と共にアメリカへ渡る。七一年のこと。ニューヨーク郊外の三万坪の広大な土地に、部屋数が十二もある大邸宅に住み、子どもらには、ニューヨークフィルの団員にピアノやバイオリンの個人レッスンを受けさせる豪華な暮らしをしているという。
19頁
アメリカではなぜ統一教がモテるのか
アメリカをはじめ、ヨーロッパ各国には、統一教の宣教師が渡って行き、布教活動を行ない、日本でも行なったあの『希望の日フェスティバル』を各国で開催する。
そもそもアメリカをはじめ、ヨーロッパ各国でも見られることは、キリスト教が退潮ムードにあるという動かしがたい事実である。日曜学校は社交場化し、全てに例外はあるが、牧師が堕落し、ザンゲに来ても信頼に足る牧師がいない。
また、キリスト教に対する疑問を持つインテリ層も少なくない。コペルニクスなどの地動説に対し、キリスト教会は天動説を説えたり、処女懐胎やキリスト復活など、どのように解明しようとも、科学の発達によってこれらの話は、現実に起り得ないことだと疑問を抱く人が多い。特にアメリカに於けるキリスト教は、その傾向が著しい。そのくせ文明社会の爛熟し切った中には、人が需 (もと) める生きがいや心のよりどころがない。病めるアメリカの病めるアメリカ人は、何か心の渇きをいやしてくれるものを欲している。
そとに統一教が上陸して来た。なじみ深いキリスト教だが、説くところは懶惰 (らいだ) ではない、倦怠でもない。統一教の牧師は、人々に向い、情熱を叩きつけるように叫ぶ。
「あなたの心の中に住むサタンを追い出しなさい。いまや世界はサタンで充満している。われわれはサタンを打ち破り、神の国としようではないか」
この情熱、この気迫。
〝何かある!〟
人々は驚き、そして感動する。
〝同じキリスト教でも、こうも違うのか〟
倦怠から充実への移行――。
結構なことではないか、何故、統一教の教理が悪いのか、何故、既成キリスト教の牧師たちは 〝統一教は間違っている!〟と叫ぶのだろうか。
これも是非、解明していかねばなるまい。詳しく解明する前に、この宗教に反対する人たちは、たちどころに理由を挙げて答える、その反対理由のポイントを紹介しよう。
既成キリスト教の牧師は、「キリスト教信者にとって、聖書は絶対なものです。その聖書を自分たちのいいように解釈することは許すまじき行為です」という。
文鮮明がソウルで旗上げをした初期に、各大学から教授や学生が続々と入教した中に、延世大学教授の朴商来氏がいた。この朴氏に会見したくだりは後述するが、この朴氏が半年ほどしてこの宗教から離れる。その理由は次の如くだった。
「文さんたちは、キリストの十字架は失敗だというのです。十字架の位置が稀薄な宗教はもうキリスト教とはいえません」
私ごとになるが、私は高校、大学ともに東京の立教学院で学び、週一回の礼拝にも出席した。
キリスト教系の学校だったから、高校時代、チャプレンの講義する聖書の時間も持った。殆ど居眠りしていた劣等生ではあった。大学一年の倫理の時間に、教授が「キリスト教とは何を信じる宗教か?」と質問した。分り切ったようでいて、言葉で答えられない。まして大学では各地方やキリスト教に関係ない高校からの進学生たちが殆どである。
八人ばかり指されてから私のところへ来た。私は付属高校から上った者の名誉のためにも解答をせねばならなかった。私はおっかなびっくり、自信なげに、「イエス・キリストを信じる宗教です」と答えた。
クリスチャンの教授は大きく頷いて、「その通り」といった。私はホッとした。
ことほどさように、キリスト教系の学校に通っていても、クリスチャンでなければこのような頼りなさである。だが、それ以来、イエス・キリストが遺した宗教を深く学ぼうという意欲が出て来たのは確かで、チャペルなどに通ったものだった。
イエス・キリストを信じる宗教に入っている者が、〝キリストの十字架は失敗だった〟と説くのはまさしく問題である。このあたりも『原理講論』の中で追及してみたい。
統一教に反対するのは既成キリスト教の牧師だけではない。『全国原理運動被害者父母の会』の後藤富五郎会長はいう。
「宗教に入ったら幸福にならないまでも、平穏な生活を送れなくてはいけません。それがどうですか、みんな廃人同様になってしまうのです。食事もろくに与えず、まちがった教理を教え込む、頭がバカになってどうにでもなれってな気持になり入教してしまうんです。信者になった若い青年たちは青春を楽しんでいますか、彼らの顔を見てください、まるで喜びなんかない、生ける屍みたいだ。愛するわが子を廃人同様にされた親がこうして集まっただけでも七百人はいる。全国くまなく集めたら大変な数になりますよ、これはどういう意味ですか、いかにこの宗教が猛害かが分るでしょう」
では、被害者たちの訴えを次項で詳しく紹介する。
23頁
5章 教祖・文鮮明の素顔
118頁
億万のサタンと闘った文鮮明の血と汗と涙の道とは
「――この神理は、あくまでも神の啓示をもって、われわれの前に現われなければならないのである。しかるに神は、既にこの地上に、このような人生と宇宙の根本問題を解決されるために、一人の方を遣わし給うたのである。その御方こそ、即ち、文鮮明先生である。
先生は、幾十星霜を、有史以来誰一人として想像にも及ばなかった蒼茫たる無形世界をさ迷い歩きつつ、神のみが記憶し給う血と汗と涙にまみれた苦難の道を歩まれた。人間として歩まなければならない最大の試練の道をすべて歩まなければ、人類を救いうる最終的な真理を探し出すことはできないという原理を知っておられたので、先生は単身、霊界と肉界の両界にわたる億万のサタンと闘い、勝利されたのである。そうして、イエスをはじめ、楽園の多くの聖賢たちと自由に接触し、密かに神と霊交なさることによって、天倫の秘密を明らかにされたのである」
じっくり読んでみると、大変なことが書かれている。文鮮明は〝神のみが記憶し給う血と汗と涙にまみれた苦難の道を歩まれた〟という。統一教の聖書、ともいうべき『原理講論』から、教祖文鮮明について書かれている序論を引用したら、そのように述べてあった。
私も韓国に於いて取材した成果により、文鮮明の血と汗と涙の道を辿ってみるわけだが、はたして、私のルポする文の道が、そのようなものになるか、甚だ心もとない。
その前に、因みにもう二、三、統一教側の公式資料を引用してみる。いかなる点で私の取材したものと異なるか、照合してみる必要があるからだ。
まず第一は、昭和五十年二月十三、十四、十五の三日間、東京の日本武道館で行なわれた、統一教会主催、いや、主催は「インターナショナル・ワン・ワールド・クルセード、希望の日フェスティバル実行委員会」というハイカラな名前になっている。
そのプログラムに記述してある文鮮明のプロフィールを、まず紹介する。
ところが、である。このプログラムにもまた、『現代の預言者・Reverend Sun Myung Moonのプロフィール』
となっていて、文鮮明の名は何処にも見当らないのである。千八百組の合同結婚式の直後だったので、統一教の批判は高まっていたが、にもかかわらず、この大々的な〝希望の日〟キャンペーンを敢行したのは何故か。
それは統一教側の明らかな〝読みちがい〟だと私は見る。つまり、合同結婚式で話題を撒いておいて、次に希望の日のフェスティバルで、一挙に日本を、わが息子、わが娘を席捲しようと企てたのだ。
ところが、結婚式へ行かせまいとする父母の会の人たちが、羽田空港で出発するのを阻止したりして大きな社会問題になり、マスコミがこれを取り上げた。
マスコミの取り上げかたが、父母の会に同情的であったために、祝福されるべき合同結婚式は、冷やかな報道か、茶化したものかになってしまった。それでつまずいてしまったが、「希望の日」キャンペーンは、やらねばならない。
ところが統一教側も、もしものことを考えて、テは打った。そのテが、文鮮明の名を一字も出さない、という作戦なのである。
二月初旬、東京の街角は、時ならぬビラの洪水で、メインストリートが彩どられた。現代の預言者、レバレンド・サン・ミョン・ムーンの名と、額が抜けあがって、やや好色そうな眼つきと、精力的な粗い頰の皮膚を持つ中年男の顔写真のポスターが、さながら、選挙ポスターのようにベタベタと貼られたので、街行く人は一体何者だろう、そして何があるのだろうと、訝しげにそれを見やった。
主要駅ごとに若い男女が、乗降客に同じくこの「希望の日」フェスティバルの案内ビラを配って、参加を請うている姿がやたらと目立った。
だが、彼らも、レバレンド・サン・ミョン・ムーンが、文鮮明その人であるとは一言もいわなかった。
つまり、二月八日の韓国合同結婚式と、その五日後の十三日に行なわれるこの「希望の日」フェスティバルとの関連性を、日本国内の意外な結婚式に対する批判を見るや、スッパリと断ち切ってしまったわけである。だから、日本の人たちは、まさかこの選挙もどきのポスターの主が、かの結婚式の司祭だとは思わなかった。
この辺が実に巧みだった。父母の会の人たちは、後になって、このサン・ミョン・ムーンなる人が文鮮明であると知って、地団駄踏んで口惜しがった。
「文鮮明だったのなら、羽田へ降りる時にデモをやって阻止したのに」という。統一教側も、このあたりを用心して、文鮮明の名を伏せたのだろう。
たしかに彼らの歴史を見れば、三年前の一九七二年四月、ワン・ワールド・クルセード(IOWC)とやらを結成している。
『一九七二年二月二十八日(片方には四月となっている=筆者註)にRev. Sun Myung Moon の提唱により、米国で始まった宗教理念による精神復興運動』だそうである。
『現代の民主主義とキリスト教国家のチャンピオンとしてのアメリカは、神を信じる信仰により、豊かさと繁栄を約束された国であります。しかし、現在のアメリカは人種問題に揺ぎ、麻薬と精神病と無神論は青年たちに蔓延し、その倫理的頽廃は目をおおうばかりです。
こうした国家的危機を救わんがため、〝アメリカよ神に帰れ〟〝建国精神に帰れ〟のスローガンのもとに、世界二十一カ国の青年たちが結集して、〝為に存在する〟の根本精神にもとづいて、精神復興運動を展開しているのがこのワン・ワールド・クルセードです』
おかしいではないか、アメリカのために一生懸命にこのように尽しているRev. S.M. Moonという人は実は韓国人である。この韓国人が何故にアメリカの再建のタメにがんばり、しかもそのキャンペーンに日本までやって来なければならないか。実に卒直な疑問が湧いて来よう。
肝心の母国を、おのが宗教で幸せに満ちた国にしてのアメリカ布教なら話が分るが、韓国で散々に儲けて、その金でアメリカ建て直しを計るなんて、よく朴大統領がなんともいわないものである。大切な外貨を持ち出しているのに、だ。
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「希望の日」フェスティバルのパンフレットに書かれた文鮮明とは
さて、話をもとにもどして、この「希望の日」フェスティバルで、マスコミ関係者に配ったパンフレットの、サン・ミョン・ムーン氏のプロフィールを紹介してみよう。
現代の預言者 Rev. Sun Myung Moon プロフィール
▶ Rev. Moon は一九二〇年一月六日(陰暦)現在朝鮮民主主義人民共和国にある平安北道定州郡徳彦面に生まれた。
▶ 一九三六年四月十七日、十六歳の復活祭(イースター)の時、イエス様が、顕れ(天の啓示)、神のみ旨(願い)を完成しなければならない使命があると啓示され、以後宗教家として、生涯を神に献げることを決意しました。
▶ 以来一九四五年、韓国が日本から解放されるまで、真理の探求に全てを献げ、内省的な静かな時を過ごしました。この時、宗教精神や霊的感覚が涵養されたようです。
▶ 一九四六年六月六日、神の啓示に従い使命を果たすため、朝鮮民主主義人民共和国に行き、宣教を始めました。〝信仰は神の創造目的を中心としなければならない〟という教えです。やがて数多くの熱心なクリスチャンが集いメンバーが多くなり影響を与え始めた頃、キリスト教の他派の牧師、長老に告訴され、共産政権に捕えられ、投獄されました。獄中では厳しい拷問にあっています。
理由は Rev. Moon が影響力をもっていたことと、共産主義に従わなかったことです。
▶ 牢獄で二年八カ月重労働(収容所)に服し、一九五〇年十月十四日連合軍に解放され南へひきあげました。熱心な弟子が十数人、後を慕って行動を共にしています。一九五一年一月二十七日釜山に着き、波止場で労働して生計をたて新しい神のみ旨を宣べ伝えました。
▶ 二、三年の間に釜山、大邱に教会が誕生し、一九五四年五月一日ソウルで世界基督教統一神霊
協会が創立されました。多くの人々が教会に集い、教会が増えると共に青年を対象とする成和学生会、成和青年会も結成され、月刊「成和」誌が創刊されました。
▶ 一九五七年八月十五日、統一教会の教理が「原理解説」として出版、後一九六六年にはより詳細な「原理講論」が発刊されました。
▶ この時機、熱心な弟子は米国へ日本へ、神の言葉をもって伝道に出かけ米国教会、一九五九年には日本教会が創立し世界に Rev. Moon の教えが広がって行きました。
▶ 一九六〇年四月十一日以後今日まで何度か合同結婚式が行なわれています。この結婚式は「祝福」と呼ばれ、神への献身を誓った男女が信仰と愛情において結ばれることを意味し、又、その家族同士が兄弟として、一つの家族となって行き、将来は全人類が、神の家族になって行くことを象徴しています。今日まで三組、三六組、七二組、一二四組、四三〇組、七七七組の祝福がありました。
▶ 一九六五年、十カ月以上をかけて世界四十カ国を訪問しました。それは世界の教会員の激励と指導のためでした。一九六九年と一九七二年にも世界巡回をおこなっています。
▶ 一九七一年韓国での仕事をおいてアメリカへ渡り、七大都市で第一回〝希望の日〟講演旅行をはじめました。それは殊にクリスチャンへのメッセージであり、世界で重要な位置を占めている米国に対し、その使命を説き〝アメリカよ神に帰れ〟〝為に存在する〟という教えを通し、米国全体に新しい力を呼び起こすためでした。
▶ 更に一九七三年アメリカ二十一都市で第二回〝希望の日〟講演旅行を行ない、一九七四年には三十二都市の〝希望の日〟講演旅行を行ない、同九月十八日、マディソン・スクエア・ガーデンで四万人を集め、その後、さらに八大都市の講演を終え講演旅行をしめくくりました。〔 マディソン・スクエア・ガーデンの最大収容人数は22,000人です。〕
現在米国では、多数のアメリカ人が教会に集い、その教会は日々拡大されています。
▶ 一九七三年起こったウォーターゲート事件時に、米国が混乱してゆく様を憂い「許せ愛せ団結せよ」の声明をニューヨークタイムズ、ワシントンポストはじめ、米二十一紙に発表、聖書を引用しながら、罪の許しを説きました。
同時に米国が建国精神に帰り、キリスト教国として、民主主義諸国のため、よきリーダーシップをとってゆくことを訴えました。一九七四年には、ニクソン大統領と会見し直接激励をしました。
▶ 一九七四年日本帝国ホテルで希望の日晩餐会にて日本初講演、各界の指導層の人々に〝為に存在する〟という理念について講演し、参加者の強力な支持を得ました。
▶ 一九七五年一月、希望の日の世界的キャンペーンのため、その担当者であるワン・ワールド・クルセード一行三百六十名が米国を出発しました。日本で三百名のワン・ワールド・クルセードと合流し、世界七カ国で希望の日フェスティバルを開催し、〝為に存在する〟〝人類よ神に帰れ〟という Rev. Moon の教えを世界の人々へアッピールします。
現在四十カ国の教会と会員とに対し、Rev. Moon は各地を巡回しながら、教会員の指導に休む間もなく働いています。
以上であるが、なんのことはない、文鮮明のプロフィールとはいえ、殆どが、統一教のアメリカ進出の記録にしか過ぎず、いかに血と汗と涙を流して苦難の道を歩んだかが、書かれていない。
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文は十六歳の時、神の啓示を受けたというが……
文鮮明は、北鮮の平安北道定川郡徳彦面上思里二二二一に生まれた。一九二〇年一月六日の午後一時のことである。父親は文慶裕といい、比較的恵まれた農家で、村は十数軒しか家がないような辺ぴなところだ。文龍寿という兄、三人の姉、三人の妹の八人きょうだいの次男坊で五番目というわけだ。
さて、彼の生まれた時のことが、書かれている資料がある。日本の統一教会発行の月刊誌『新天地』に昭和四十九年八月号から十二回に亘って連載されている『文鮮明先生の半生ー血と汗と涙』という伝記。著者は統一思想研究所所長、野村健二氏。東大の大学院まで出た人だから、最高にインテリ、いわば統一教会側の頭脳ともいうべき人。
この野村サンの筆になる、文先生誕生のくだりを引用してみよう。
「――先生の御生誕については三百年前から啓示が下りていたともいわれ、その御誕生の三年前から家のまわりの樹に、金鳥やおしどりなどが飛来して啼くなど、さまざまの前兆があったと伝えられる。すでに誕生される十年前から先生のお顔を日々霊示されていたという霊能者もあり、先生がお母様の胎中におられる時、その親戚の者、何人かが、夢の中で天から黄龍が光に乗って来てその胎中に宿るのを見たという。そうしたいきさつによってか、先生は龍明と名づけられ、長じて、サタンとの九年間にわたる血みどろの戦いの末、天の秘密を解く鍵をつかみ取った時、天から現在の『鮮明』という名を授けられたといわれる(後略)」
信じる、ということは恐ろしいものである。まさに現代の奇蹟ともいうべき、金いろの鳥やおしどりが飛んで来たり、何人かが龍が光に乗って胎中に入る夢を見ただのと、東大の大学院を卒業したインテリが、堂々と書くのだからたまげる。この現代の奇蹟の一大物語はこれからも引用させてもらう。
文が十五歳の頃、一家が長老教系のキリスト教に入信する。
このあたりのいきさつがこれまたすごい。また早速、野村サンの筆になる迫真の物語を引用することになってしまった。
「文先生の三番目の叔父の家で、牛の急死についですぐ数日後、馬が死ぬ。さらに、一晩に豚が七匹も井戸に飛び込んで死ぬ。立てておいたキネが倒れて犬の背骨を折る。煙突が倒れて、生活必需品の醤油のツボが割れる。
叔母が赤ん坊を寝かしてちょっと用足しに出たすきに、飼犬がはいって赤ちゃんの耳をかみ取って食べてしまう。そういう中で叔父は博打で財産をなくす。こういう信じられないようなことが失つぎ早やに起き、一家はこれはまさしくサタン(悪魔)のわざだと恐れ、その家から引越したが、間もなく家は潰れてしまった。
文少年の十五歳の頃、わざわいはさらに文少年自体の家にやって来た。二番目の姉さんが発狂し、上を下への大騒ぎをしている時、兄さんまでが精神異常となった。ふだんは大人しい性格なのに、ばか力を出し、自分に従わぬ者は殺してしまうとどなって、屋上に飛びあがったり、飛び降りたり、・・・・・仕方なく手錠をはめたら、監視の目を盗んで手錠のまま逃げ出し、はては怪力で手錠をこわしてしまうという始末。文家の人々はこれはただごとではないと悟り、勧められてキリスト教に入教した。気の狂った兄さんを教会へ連れていくと、人が変わったように大人しくなり、教会へ熱心に通うようになってやがて全快した(後略)」
その翌年に、問題の神の啓示が与えられることになる。文鮮明が十六歳の復活祭の朝、まだ夜の明け染めぬ頃、深々と神に祈っていると、やがて東の空が白み始め、黄金のまばゆい光に包まれてイエス様の巨大な幻が、彼の前に現われた。
「二千年前にわたしの始めた使命が、まだ果たされていない。それを成し遂げるためにあなたは選ばれたのです」
そのようにイエス様が文鮮明に、ハブライ語なまりの韓国語でいったというのだ。この、イエス様がハブライ語なまりの韓国語でしゃべったということを、アメリカでのテレビのインタビューで臆面もなく、はっきりと文は答えている。しかしこの十六歳のイエスの啓示説は、実は後からこじつけたものではないかという第一の疑問にぶつかってしまう。それを次で説き明かそう。
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統一協会ではなぜか文教祖の経歴を隠したがる
韓国の統一教の本部と接触したが、日本のジャーナリストを迎えたのは、文化部長の柳光烈氏だった。柳氏が広報担当のスポークスマンであった。〔 彼は一九五四年十二月にソウルで統一教会に入信し、二〇〇一年に亡くなった。〕
柳氏にはまず電話で、統一教について取材にやって来たことを述べ、会見を申し込んだ。
第一回会見の場所に、朝鮮ホテルのロビーを柳氏は指定した。以後、会うのは朝鮮ホテルのロビーで、四度目にしてようやく本部へ連れて行ってくれた。なかなか用心深い。
用心深いはずだ。その頃、韓国のインテリ雑誌『新東亜』三月号に、統一教をルポした記事が出ていて、それが揶揄に罵倒を混じえたものであった。『統一教の正体』がタイトルだが、これを書いた李柱赫氏は朝鮮日報の宗教担当の記者である。
李氏にも会い話を聞いたが、この時、「これを書くまでは柳スポークスマンとは親しく付き合っていたんですが、以後、彼は私を敵視しちゃってますよ」と笑っていた。李氏にも取材協力を要請したのだが、次に会う日時を決めたら、その日すっぽかされ、ついに宿舎のホテルへ連絡もなかった。つまり、〝協力出来ない〟ことを態度で示したわけなのだろう。
李氏の手のひらを返すような内容のレポートに柳氏が頭に来て、以来、ジャーナリストを信用しなくなったとしても不思議はない。
ところが柳氏もまた、統一教本部職員になる前は、地方紙の記者だったし、自らを〝詩人〟だといっていた。
この柳スポークスマンから貰った資料の中に『統一教会史試草=文化部編史課』というザラ紙にタイプしたものがある。
これによると、一九三八年、彼が十八歳のころ、ソウルへ出て来て、中学校(旧制)に入り、黒石洞に下宿し、信仰生活を主とし、日曜学校にも通った、と抽象的な表現で、四一年日本へ発つまでのことが述べられているが、丁度この時代の彼を知っている証人を紹介しよう。
統一協会側は、何故かひた隠しにしているが、文鮮明は一九三六年から三九年まで、私立京城商工実務学校(現中央大学)に在学していたのだ。これは事実である。ひた隠しにするはずである。丁度この時期に文鮮明は、十六歳、神の啓示を受けたのだから。
この私立京城商工実務学校は、ソウルの漢江のほとりにあり、土居山洋氏(現九州電気学校校長代理)が設立した日本人経営の学校だった。日本占領時の当時としては珍しく、韓国人にも実務教育を、と、電気、建築、商業などを主体とし、全国から韓国人の子弟を集めた。
はじめはホンのバラック小舎の校舎だったが、学校の周辺に下宿屋なども出来て、しだいに学校らしくなって来た。
設立者土居山洋氏がクリスチャンで、その博愛精神から、当時激しかった韓国人蔑視や虐待を排除し、彼らに実務教育をと努力したので、子弟は全国から続々と集まって来た。校舎もそうした先生や生徒たちの手づくりで大きくなって行く。
この学校に赴任し、日本語と英語を教えた園部治夫氏(現明治学院大学教授)の、文鮮明の印象は次のようなものである。
「当時は文龍明といってました。日本名を付けなければならなかった時代でしたから、彼は江本といってました。うちの誰か先生が付けてやったのでしょう。江本龍明は、活達で教室でも人をリードしていくいい生徒でした。勉強も出来たほうです。彼は三九年(昭和十五年)卒の第三期卒業生です」
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文の隠された秘密 - 十六歳啓示説はウソだった?!
京城商工実務学校の卒業写真・後列左から5人目が文 (下の写真は拡大図)
ソウルで取材を続けていたある日、この学校の名前をチラッと聞き込んだ。ツテを頼って、ようやくにして江本龍明と同級生だった人に会えた。そして借用して来たのが、卒業記念写真である。坊主頭こそしているが、十八歳の江本龍明は、現在の文鮮明とまったく変わりがない。本人であることは一目瞭然である。
現在は中央大学になっているが、こうした手づくりの学校で教育を受けた卒業生たちは、なんとかして土居先生、園部先生を韓国へ招待したいと奔走した。さらに卒業生たちは、現在の中央大学に対し、自分たち旧京城商工実務学校時代の者たちも、初期の卒業生としてその居住権を認めるよう交渉して、現在の学校長から許可を得た。
やがて、在日の卒業生の努力などによって、土居先生、園部先生の居所も分り、五年程前から二人の先生は韓国へ招待され、卒業生たち数百人が集まり、熱烈な歓迎をした。その中には陸軍の将校もいれば会社の社長もいる。彼らの案内で、土居先生たちは、いまはもうあの手づくりの小さな校舎ではなく、立派な大学になっているかつての学校へも訪問し、記念の植樹をした。
このような熱烈歓迎の教え子たちの中に、当然いるべきはずの江本龍明がいないのだ。そして、五年間に数度の先生たちの渡韓に、その都度の歓迎会にただの一度も彼は出席せず、憤慨した同窓生たちは彼を同窓名簿からオミットしたのである。
園部氏は昨年、文鮮明の所へ手紙を出した。
〝貴君は江本龍明君ではないかネ、最近、君は世の中を騒がしているらしいが止めたまえ、久しぶりに会って話でもしようではないか〟といった意味のものだが、ついに返事は来なかった。
十六歳で神の啓示を受けた江本龍明は、『統一教会史』にもある如く、さぞや京城商工時代に、信仰生活を過ごしていた、と思いきや、土居先生も園部先生も、〝それは気がつかなかった〟と述べている。
クリスチャンである両先生は、日曜学校へ通われたが、そこでもついぞ、イガグリ坊主頭の教え子江本龍明に会った記憶がない、という。
写真提供者の同級生は、さらにハッキリと、文鮮明が信仰者でなかったことを断言している。むしろその同級生は、両先生からキリスト教の影響を受けて、現在の彼になったのではないか、という。神ならず、恩師の啓示によって億万長者になったのだから、人生とは分らないものである。
一九三九年、京城商工を卒業してから、四一年に日本へ渡るまでの間が不明である。
「以来、一九四五年韓国が日本から解放されるまで、真理の探求に全てを献げ、内省的な静かな時を過しました。この時、宗教精神や霊的感覚が涵養されたようです」とは、Rev. Moonのプロフィールだが、そんなナマやさしいことをいっていたのでは、血と汗と涙にまみれた苦難の道は歩めまい。
事実、一九四一年四月から一九四三年九月または十月まで、日本へ行き、抗日地下運動をやっている。つまり、日本に対して刃向ったわけだ。
韓国における日本軍の横暴は、眼に余るものがあったろうし、若き日の文鮮明が、これに抵抗し、人民のために戦おうとしたことは真実かもしれない。だから、三九年から四一年までの間、彼がソウル周辺で、働きながら抗日運動をやったとして、なんの不思議もないのだ。それでなくては、日本行きが、まったく突然のこととなってしまう。
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文は本当に早稲田大学を卒業しているのか
一九四一年、文鮮明は日本へやって来た。それも、密入国してしばらく大阪で土方などして働き、東京へやって来たのだ、とか、東京は早稲田大学電気工学科卒業とかいわれているが、これはいつのまにそうなったのか分らない。
当初、早稲田大学を卒業といっていたのが、マスコミが騒いで、毎日新聞社が早稲田大学の卒業名簿を調べて、何処にも文の名が出ていないことを報じたりしたので、この経歴をあわててひっ込めたものと思われる。
『統一教会史 試草』にも、この項について、
「一九四一年、先生は京城で中学教育を終えてから、日本の東京へ留学しました。
専攻は中学時代に学んだ電気学で、先生の学校教育は一貫して理工系で通しました。
先生の四年間の海外留学ではそういった意味では重大な意味をもたらすものでありました。
学業面ではいうまでもなく、民族的な側面では敵陣(日本のこと=筆者注)の心臓部へ入って行くようなもので、摂理的使命分野で見ると、観念的な分野を備えるとともに、サタンの世界に対して、出陣の第一歩を歩み出す能力を体得しました。必要でかつ重要な経験など、訓練をもってこの時機はとても貴重なのであります。
東京では韓国人学生二、三名と早稲田大学に近い所の新宿区戸塚二丁目に下宿生活をしました。
学業と併行してこの期間にやるべきことは非常に多かった。この間の真の友人として、建築家の厳徳紋がいました。
この間、たえまなく熱中したことは、信仰生活でありました。
いつでも机の上には各国版の政経雑誌がおいてあった。本の中は色鉛筆で全部書き込まれている。
また、聖教会仲間とも慎重に交際していました。特に主要な話題は原理研究にあった。
他の何よりもこれが優先した。先生にとってこの原理追求が何よりも重要であった」
と述べてあるだけだ。しかも、
「早稲田大学近所ノ新宿区戸塚町二丁目ニ住ンデ下宿生活ヲシテイタ」
とだけあって、早稲田大学に入ったとは書かれていない。大阪の中学に入り、上京して夜間の早稲田実業高等学校に在学した、という説もあるがこれまた不明である。
戸塚二丁目に住んで何をやっていたか。
「数名の韓国人留学生たちと、抗日地下運動をやっていた」、(『統一教会史』より)のだそうだ。つまり、時の権力、日本帝国に対してのレジスタンス運動である。
さらにこのころ彼は、モーレツに信仰生活を全うし、聖書を読み、色エンピツで傍線を引いて勉強し、勿論、教会にも出席し、誠心をもって神に祈り、クリスチャン仲間とも交際を持ったという。因みに、学友(どこの学校の友人だか、教会史に書かれていないが、学友と書いてある)として建築家、厳徳紋の名が挙げられている。
ところが、不思議なことに、また引用することになるが、野村健二サンの筆になる文鮮明の伝記では、
「日本本土に渡った文青年にとって、この一九三九年から一九四五年までの六年間は、イエス様から託された神の使命に向って公的にあゆみ出すためのすべての準備を整える重要な期間であった。(中略)当時、先生は、大学は東京帝大を望んでおられたようだが、すでに独立運動の指導者として知られていて、日本の官立大学への入学は許可されなかった。そのため、私立の中でも人に対して最も自由に門戸を開放していた早稲田大学の電気工学科に進まれたと伝えられる」(『新天地』十月号)
と書かれている。ここでは〝伝えられる〟と伝承の形式をとっているが、それから四ヵ月後の『新天地』二月号(昭和五十年)にはハッキリと、
「釜山に着いて間もなく、文青年は早大時代の級友、厳徳紋氏に道ばたで会われた。(中略)厳さんは大学時代、文青年ときわめて親しくし〝おれ〟〝お前〟の仲であった」
と、早稲田大学在学を明記している。しかも統一教会史には、どこの大学の学友とも書いてない学友、厳徳紋の名が、野村サンの文章では、ハッキリと早稲田大学の学友となっている。
毎日新聞社が調べ、ある取材記者が調べ、そしてまた私が早稲田大学学生部に問い合わせて、ついにその文龍明、江本龍明、文鮮明の名でもなかった。卒業生名簿に載っていなくとも、文鮮明は早大に在学していたとでもいうのか。
早大近辺の戸塚に住んでいたので、まさか学生に混じって講義だけ聴いたのではないだろうか、だが、くどいようだが、野村サンの伝記では、
「先生が大学を卒業された時、まだ戦争中で、学徒出陣のため卒業が六ヵ月短縮され、九月に大学を出ることとなった。関釜連絡船で帰ることとなり、何時に着くと国もとに電報を打ったが(後略)」
このように明らさまに、文が早大を卒業したといっている。
一体、韓国の本部で出している教会史には早稲田大学在学と一行も書いてないのに、統一教の頭脳である野村サンがこうまでハッキリと書いたのはどういうことなのか。
野村サンは、カッコよく文を早大卒にしたかったが、世間はそう甘くなかった、ということなのであろうか。
もう一度いう。文鮮明は早稲田大学の学生ではなかったのだ。
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文は本当に反共のカドで逮捕されたのか
かくしてまた、一九四三年十月、韓国へ帰った文鮮明は、祖国でも解放運動に身を投じたが、翌年十一月、京幾道警察に連行され、主に日本での地下運動について白状しろと、数限りない拷問に遭ったという。
〔 一九四三年十二月、文は崔先吉と婚約した。〕
解放運動をやったことは、あるいは事実かもしれないが、ある宗教家の若き日々の闘いにしては、あまりにも出来すぎているように思える。
この年、一九四五年八月十五日、日本の敗戦により、韓国は解放される。
彼の宗教活動が始まった。〔 彼は1945年10月、初めて金百文と出会った。〕
一九四六年一月、文鮮明は京幾道波州郡のイスラエル修道院へ入った。
ここの教主は金百文。文は当時二十六歳。柳スポークスマンによれば、金の弟子になったといっても、別格の〝客分〟として、「私同様、文さんを先生と呼びなさい」と金がいったという。
破格の扱いを受けていたそうだ。
ここに六カ月いて、四六年六月六日、文鮮明は北の平壌へ出かける。この時、文は師金百文と一緒に行った、という人(朴相來氏=後述)の証言もあるが、柳スポークスマンは一人旅だとそれを否定する。
平壌にやって来た文は、平壌の広海教会に所属する。
平壌時代の文鮮明の活動について、統一協会側は、ひたすら、信仰に励み、また原理も次第に明確な論理となり、整然とした体系づけがなされて来たので、信者も彼を慕い、続々と集まって来たとする。また、文鮮明が四六年六月六日に平壌に発ったのは、神の啓示とかである。
こうして、次第に信者が集まり、文の熱弁は平壌でも評判となり、その組織は大きくなった。
ところが、平壌ではソ連軍が進駐して来て共産政治を強制し、次第に共産社会になっていたので、初めは緩やかだった宗教活動に対する規制も厳しくなり、名声が高くなった文鮮明は、共産当局から腉まれるようになって、本格的に妨害をされた。
これに対し、文鮮明は、共産主義はまちがっている、と、これと真っ向から対立し、戦う姿勢を見せたので、ついに四六年八月十七日、大同保安署(警察)に文は逮捕されてしまった。思想犯として、反共のカドで逮捕された文は、またしても死に至るような拷問をされる。
抗日運動の闘士が、再び主義主張のタメに立ちあがり、反共のレジスタンスに命を賭ける、なんていかにもカッコいいが、はたして平壌時代の文鮮明の実像はその通りであったか。
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文は混淫派の代表洛だったという説は本当か
統一教が、キリスト教としては異端の新興宗教であると決議された重要資料、金景来著 『社会悪と邪教運動』に載っている、文鮮明の平壌時代のレポートによれば、反共闘士は平壌時代、
〝混淫派〟に属していた。
混淫派というのは一九二三年、キリスト教牧師、李竜道と黄国柱が、同じころ、われこそは救世主だと宣伝して信者を集めた。
この二人は〝血分け〟の教理を確立したが、これはそのころの社会にうけ入れられず、また統治国である日本の宗教弾圧が厳しかったせいもあり、彼らは信者を連れて郊外へ逃れ、地下に潜った。それが日本の敗戦以後、ふたたび平壌市内にもどり活動をはじめた。彼らの教会を広海教会という。
この李、黄の両人は、やがて分裂し、この広海教会をまかされた青年、それが文鮮明なのである。
彼らの〝血分け〟の教理を先きに説明しよう。
旧約聖書の創世記には、人類の始祖のイブが、蛇に誘惑されて禁断の木の実を食べる有名な話がある。
統一教およびこの〝混淫派〟の堕落論が実は、既成キリスト教と異なる大きな点である。
私も柳スポークスマンから、統一教の堕落論の講義を受けて来た。ソウル市内の日本料理屋の座敷で、昼食を食べながら、である。これはすでに会見四度目だったが、大分互いに腹の中を見せ合うようになり、この昼食後、初めて本部へ連れて行ってくれたのだ。
柳スポークスマンから直接聞いた堕落論を紹介しよう。
「神は万物を創り給うた。そして、人間の祖であるアダムとエバ(彼らはイブではなくてエバという)も。神は二人に霊的なものを与えた。神は二人をとても愛した。二人が出来る前に、霊的なものを持つ存在として、天使長ルーシェルがいた。ルーシェルは二人に激しい嫉妬を抱いた。彼らが出来るまでは神からの愛が自分にあったのが、自分から離れてアダムとエバに移ってしまった。
天使長ルーシェルはまた、この二人を愛していたが、愛が憎しみに変わってしまった。
天使長ルーシェルは、エバを誘惑した。エバと性交したのである。これが人類第一の誤ちだ。
天使長ルーシェルは、愛を憎しみに変えてしまうことにより、サタン(悪魔)となったのである。
エバはルーシェルに教えられた性交の甘き蜜(禁断の実)を、アダムに教えたのである。これが第二の誤ちである。
サタンの血が、第一の性交によりエバの身体に入り、さらに第二の性交によって、それ以後、人類にはサタンの血が流れてしまったのである。だからわれわれにはサタンの血が流れている。これが原罪である」
というものだ。
この汚れた血を清浄なものにする方法はないものだろうか。
ある。それは、神と同じく清浄な血を持つ再臨主の文鮮明や、教祖格の人たちに〝血分け〟をしてもらうことだ、というのが〝血分け〟の教理なのだ。柳氏は〝血分け〟の教理を否定した。
そして〝血分け〟の方法は、といえば、教祖に献血してもらうのではない。ヤクザの義兄弟の契りのように血をすすり合うのでもない。教祖サマにセックスをしてもらうことによって〝血分け〟を行なうのである。従って、教祖サマからの血分けは、女性しか出来ない。その女性から今度は男性が分けてもらう、というように、男→女→男と互いちがいに行なうのだ。
しかも、女性から男性が分けてもらう時は、女性が上になり、またがって行なう法、下世話にいえば、〝騎乗位〟で行なうんだそうな。有難い儀式だから、あくまでもおごそかに、決してみだりに、〝ああ、イイ″なんていってはいけないそうである(とは憶測である)。しかも、立会人がいる場合もあるというから、決して快楽だけが伴うものでもなさそうである。
文鮮明はたしかに、その人間的魅力というか、その持って生まれた天性のものが人を魅了するらしい。経歴をこうして見ていると、文はキリスト教の学校で学んだわけでもないし、教会の仕事に従事してその資格を得たわけでもない。彼は韓国の一部新聞が見出しに使ったような、牧師でもなければ博士でもない、ましてや、〝レバレンド〟(神父)でもなんでもない。
にもかかわらず、彼の許に信者が集まるのは、その人の持つ不思議な魅力といったものがあるからなのだろう。
柳スポークスマンは、偉大なる大先生に初めて会った印象を、次のように話してくれた。
「私が初めて大先生にお会いした時は、まだ私がソウル大学生のころです。すごい人がいるから来てみろ、と友人に誘われて行ったのですが、大先生はその時、人類の危機について話して下さいましたが、その説教はもうすごいもので、一番前に行かされたのですが、ツバはとんで来る、ハナ汁はとんで来る、涙までとんで来る、もうそれはみんな一緒クタで、熱心に説かれる、その迫力にまず圧倒されました。この人は本当に私たちのことを思ってくれているんだ、この人に従って行こう、私は直感的にそう思いました」
このような人だから、平壌に彼が出かけたのは二十六歳の若さにもかかわらず、人の上に立つようになったのだろう。
また、文は、李竜道より血分けを受けた朴某女史から血分けをしてもらった。この朴某女史といってもすでに五十歳を過ぎているが、富豪の一族で、教会内部でも勢力があった。
この女史から血分けされた文鮮明は、混淫派の中でも主流派になり、ついに代表格になるのである。
文鮮明はそれ以後も、乏しいわが教団のために、金持ちの夫人に近づくのを常套手段としている。こうして財力を増やし、また、有力者夫人から夫を紹介させて、社会的に地位のある連中に近づき、政治的にも発展させて行った。カネとコネの掴み方がうまかったし、そのためにオンナを使った、というわけである。
朴商来氏が、その当時の文を評して、「サギ師のような人でした。口がうまくて処世術が巧みでした」と証言している。
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文の「原理講論」は金百文の原論の盗作ではないのか
この混涇派の血分けの教理を確立した人はダレか、といえば、それは理論家の金百文である。
文鮮明が五ヵ月身を寄せていたイスラエル修道院の主宰者、金百文は、傑出した理論家で、李竜道と黄国柱のこのセックス宗教を、巧みに理論体系づけた。これは金百文が著わした『聖神神学』にもハッキリと記され、この理論が混淫派の綱領となっている。
また、後述するが、金百文の『聖神神学』こそ、統一教の聖なる書である『原理講論』のネタ本だといわれている。つまり、文鮮明が、師匠の理論を盗んだというわけだ。この問題については詳しく後述する。
柳スポークスマンは、平壌には文鮮明一人で行ったとするが、朴商来氏は、金百文と文鮮明二人で行ったとする。柳スポークスマンとこの件について話した時のもようを再現すると、こうなる。
筆者「平壌へ行ったのは文教祖一人でしたか?」
柳氏「ハイ、一人です」
筆者「何故、平壌に行かれたのですか?」
柳氏「それは神のお告げがあったからです」
筆者「私がある人から聞いたところでは、金百文さんと行ったというんですが……」
柳氏「いいえ、大先生おひとりです」
筆者「金百文さんはかねがね平壌での活発な伝道を知っていた、キリスト教の盛んな平壌へ行きたい、と思っていたところ、年齢も四つ年下の文さんがイスラエル修道院に入って来たので、いい相棒が出来た、として文さんを誘って二人で平壌へ旅立ったのが真相だそうですが……」
柳氏「そんなことありません、大先生はおひとりです」
激しく否定した。
しかし金百文が平壌に居住していなかったとしても、六カ月師事していれば、文はその骨子を充分に会得出来よう。ましてや、文鮮明の『原理講論』の前身である『原理解説』出版は一九五七年八月、金百文の『聖神神学』は一九五三年と、その年月の差の一事を以ってしても、文が金の理論を盗用したとする説が成り立つ。これについては後述するが、しかし、もし平壌に二人が行ったとして、平壊時代に殆ど金百文の存在が無に等しいのは、やはり行かなかったことの証拠になるのだが、これについて金百文を師と仰ぐ朴商来氏によると、「平壌のキリスト教は乱れておりまして、女性信者たちが金先生を誘惑しようとしたんです。金先生は断られましたが、文さんはそれに乗ったんです。金先生はストイックな方ですから、平壌ではもっぱら研究をして過ごされたようです」
となる。
もっとも、この混淫派は、キリスト教史をひもどくとヨーロッパにおいてすでに存在していた。紀元前七十年前にニュラ堂派、紀元後、一五〇年ごろモンタヌス派などが、セックスを通じて教義をひろめるといったことをやっていた。その教義が文鮮明たちの教義に似ているのだ。
この項に関する取材は、すでにかなり昔のことであるし、場所も平壌で行くことが不可能であるし、殊に”血分け”などは、秘事としていまさらこれを白日のもとにさらすことはまず不可能な作業である。
そこで、この時代のことを、韓国ジャーナリストが徹底的に調べた『原理運動の秘専』という書があるので、ここから引用して、当時の〝血分け〟の事実を次頁で究明してみたい。
この本の表紙には〝《原理運動》の実態を解剖する〟〝全国騒然たる問題の書=運動発生地・韓国からもたらされた唯一のルポ!〟と書かれている。
初版発行が昭和四十二年のことなので、文鮮明についてよりも、当時の新興宗教、特に後年、文がその財力を増やすなどについて、朴泰善をマネした、と韓国でいわれているが、その朴泰善のことが一番詳しい。そして、この『原理運動の秘事』こそは、文鮮明の宗教を異端と極めつける貴重な資料となった『社会悪と邪教運動』の日本訳なのである。
日本訳では著者名が明記されていない。しかし、筆者がソウルで会い、取材した金景来氏にまちがいはない。
150 頁
文鮮明はキリストの生まれ変わりか
怪し気な按擦祈禱で私財をこやした文の先輩・朴泰善
『原理運動の秘事』を読んでみると、キリスト教といっても、その形態は土着の原始宗教である祈禱、占いなどの巫女の存在を、新興宗教の教祖たちは受け継いでいる。また、そのほうが韓国の善男善女を入教させやすいようだ。また、キリスト教から出るのも、その信者の数が多いから入教を誘いやすいともいえる。何しろ教会と教会の間に街があるような程の国だ。キリスト教と土着宗教の結婚がこれら新興宗教の発展の因といえた。
六・二五動乱に前後して、韓国では、いわゆる〈按擦祈禱〉が流行した。このあたりから、このレポート(原理運動の秘事」)は書き進められて行く。
一九五三年の夏、辺桂丹勧士という婦人とその養子といわれる青年が出現した。庶民たちは彼女の前にひれ伏して投擦を乞い願った。
彼女はおよそ六カ月にわたって、韓国各地の著名な教会を訪れ、復興集会なる特別祈禱会を開いた。聖書にもとづく徹底した悔い改めの運動である。
聖書の講釈あるいは伝道のための講演をおりまぜながら、集会を続けていった。一週間の行事の大半は問題の〈按擦祈禱〉で埋め合わせた。あらゆる病気が当然治るものと信じて集まった群衆は、彼女を二〇世紀の女先見者とあがめたてた。
按擦を受けた患者のうち、何パーセントが治癒したかは確かな数を知る由もないが、按擦祈禱を一度行なえば、金、銀、宝石に絹やビロードの服までもが辺女史へ献じられた。
だがこの辺勧士は、一年たらずのうちに、人々の記憶から消えて行った。按擦祈禱を受けた患者たちが、一ヵ月、二カ月の後には、病をいっそう悪化させるか、または鎮痛剤のような按擦効力が消えてしまうと同時に、再発悪化するような事態がたびたび起こったためである。
辺女史の全盛時が過ぎると、今度は京幾道抱川の金尚熙長老と称する老人が出現した。やはりこれも按擦祈禱である。ところが、数週間後に、過失致死事件を起こしてしまった。法的な被疑者となった金長老は、新聞にデカデカと書き立てられた。
刑務所に入って、やがて出て来た彼は、あくまでも、「按擦祈禱の最中に神が召されたのであり、自分が殺したのではない」といい張った。彼は当時、新聞記者の金景来氏のところまで尋ねて来て、「死んだ人は天国へ行ったのだから、そのように書いてください」と頼み込んだのである。
その後も、永登浦のセマウル教会でも、按擦による過失致死事件が起きた。六十歳になる老婆が按擦術を習い、これを若い女性に使って、死に至らしめてしまった。
このほかにも、釜山、慶州、安東、麗水などで、これに似た不祥事件が相次いで発生した。
そうしてキリスト教内部ではもちろん、一般社会でも、按擦祈禱を〝巫女の祈り〟に連なるものとして排撃し、教会は重ねて病気を治療するのが、キリスト教の本質ではないと宣言した。
一九五七年以来、多くの人々の耳目を集めた元キリスト教長老(長老とはキリスト教における位階敬称で老人の意味ではない)の朴泰善も、後に〝混淫事件〟が明るみに出るまでは、このはやりの按擦祈禱の名手として、おもに京幾道方面を荒し回っていた。
朴泰善は、やがて他の按擦教祖よりも、自分の信者のほうが多いことに気がつくと、さらに金儲けを企んだ。
彼は自らを〝東方の義人〟であると名のり、国家であろうが民族であろうが、自分を通さなければ、だれも救いを受けることが出来ないのだと宣言した。彼は二〇世紀の審判者であると力説し、彼の血を受け入れる者だけに、天国への鍵を貸し与えようと宣言した。
そればかりか、彼は自分の身体が聖体であるといい、自分の身についているものはみな神聖で、自分のハンカチ一枚にも、人を殺したり生かしたりする能力がひそんでいると叫んだ。彼は自分が汲み上げる水は生命水となり、その水で作る餅やお菓子は、生命餅や生命菓子である、といった。
彼は巧みな演出者で、巧みに〝噂〟を街にばらまいた。それは、「せむしが腰を伸ばした」「いざりが歩いた」「盲が見えるようになった」「医者に見離された肺病患者が治った」など、まさに現代の奇蹟とでもいうべきものだった。
人々は現代の奇蹟を実際にわが眼で見んものと、その集会に押し寄せた。
一日に一万人に近い人々が集まったが、そのなかには、仏教徒よりもキリスト教の既成教会の信者のほうがはるかに多く、また、全体の三分の一は、病気を治して欲しいと願ってやって来た病人たちだった。
朴泰善は講演が終ると、病気を治してもらおうとタンカで運ばれて来た病人たちに、次々と彼独特の按擦を施した。ある人には頭を撲るようにしたかと思うと、ある若い女性の患者には、乳房や下腹部を無造作に撫でさすり、ある男性には首をギュッと押えるやり方で、按擦といえばさするという方法だが、これはもうなんといったらいいか、まったく乱暴きわまりない。
ところが不思議なことに、一人の男性は、ひきずっていた脚がシャンと力が入るようになり、奇晴だ、と大声で喜び叫び、感きわまって泣き出したのだ。群集はこれを見て愕き恐れ入った。
だが、レポーターの金景来氏は、按擦のために三人も変死体になって運ばれてゆくのを見てしまった。
群集はまるで魔術にかけられたように、朴教祖に酔い、支持者が続々と現われた。その中には政界の要人もまた多く、こうして朴は権力者との結びつきへ発展して行く。
無辜 (むこ) の群集は、彼のハンカチやはき古したくつ下、チリ紙までも、互いに奪い合った。
その中にはインテリも相当いたが、おもに婦女子の支持を得ていた。この講演旅行は、大田、釜山、大邱、光州、安東、木浦、馬山など、全国の主要都市を巡回しながら、ますます成況の度を深めて行った。
そしてその集会では、〝講壇に露がおりた〟〝鳩が朴長老の頭上を飛びまわった〟などの幻想的な現象を演出して、いっそう群衆に、「朴長老は二〇世紀の救世主で、イエス様よりも尊い使命を帯びて現われた審判主だ」と印象づけた。
154頁
高収益をもたらす宗教商法は朴泰善から学んだ
朴泰善は韓国キリスト教復興教会を組織し、各地方を巡回して行なった按擦集会で得た金品の管理を教会に任せた。この管理とは帳簿上の管理をさすもので、現金や金、銀、宝石などはことごとく朴の私財となり、またたく間に彼は新興成金になってしまったのである。ソウルだけでも一億以上の財をなしたという。
政治家たちがコネをもとめてやって、巡回の前に、朴を支持する演説をぶちまくった。また、著名な神学博士や権威ある長老教会の指導者たちも、自分たちの教会をうっちゃって、朴を支持して、朴のわらじ取りになってしまった。
彼ら既成教会のこうした牧師たちは主に、自分たちの教会が栄えていないし、上層部からも好遇を受けられずにいたので、朴泰善がキリスト教者たちをたやすく引き入れるのを見て、朴の勢力に便乗すれば、不遇ないまの地位から脱けられると考えたのである。
それがかえって朴の思う壺で、彼らが朴のもとに集まれば、彼らの教会に所属している者たちも、「うちの牧師先生が行かれるんだから」と、数百数千の迷える小羊たちが朴のもとに集まるようになるからである。
こうした朴の勢力を押さえるどころか、協力者まで続々と現われるキリスト教の既成教会の堕落が、彼のようなまやかし宗教を助長させたことは否めない。
だが、そう朴泰善のまやかしが長続きするわけがなかった。日の出の勢いの朴泰善は奢り高ぶり、その口からキリスト教の教理や信条とかけ離れた言葉が飛び出しているうちに、朴の人格に不審を抱いて朴から離れて行く人が多くなった。
こうした牧師たちの中には、どこへ行けば真の信仰生活が営めるか、として、朴の許にやって来たまじめなクリスチャンもまた多かったからである。
その他、金銭面でのトラブルもあった。朴泰善が集会の収入を、全部一人占めにしたのに不満を持って去った幹部クラスの信者もいたし、ある政界人は、自分よりも有力な政治家が、朴をダシに使っている姿を見て、眼が醒める思いで、朴の許から離れた。
だが、なんといっても朴泰善の欺瞞に満ちたやり方に、これは宗教家ではなくペテン師だ、と悟って離れて行った人々が多かったのである。
離脱する者たちを見て、朴泰善は、新企画を打ち出した。伝道館という団体をつくり、盲信の人たちをまとめて、信仰村をつくった。これが前述した、財産を全部献上しての生活共同体を確立した新興宗教のひとつの典型となったものである。
ここに入った信者たちは、毛布やしょう油生産に従事し、ある信者はそれをセールス販売と、勤労しながら信仰を深めていくわけだが、村の集会場で、彼らを引き留めておくために、朴はさまざまな仕掛けを施して、彼の宗教の神秘さを演出したことは前述した通りである。
156頁
ついに明るみに出された〝血分け〟の秘事
こうして朴泰善の宗教商法は安定して行くかに見えたが、これも神をも恐れぬ所業ゆえ、神サマが懲らしめたのであろうか。彼の過去が暴かれる時が来たのだ。
金景来氏は一九五〇年ころに、ある牧師から恐るべき事実を聞いた。だが、金氏はいくら自分が新聞記者であっても、その事実があまりにも公表するに忍びないものだったので、聞き流していたのである。
その牧師は、白英基牧師というキリスト教既成派に属していた人だった。このおくさんの張愛三女史が、李泰允牧師と、霊体を交換する名目で性関係をしたのだ。
張夫人は誘われてこの新興宗教に入ったのだが、良心の呵責に耐えかねて、一切を夫に告白した。
告白を聞いた夫の白牧師は苦しんだ。単なる浮気だったら一刀両断にしてしまえばいい。宗教がからんでいるだけに、激しい憎悪を覚えながらも複雑な思いなのだ。離婚をしてしまいたいが、牧師という体面を重んじるあまり、決断を下すことが出来ない。その憎悪は、霊体交換を強要している集団に向けられた。
〝いつの日かこの愕くべき事実を公開して、堕落した男女群像を悔い改めさせよう〟と決心した。丁度そのころに金景来氏と会った。彼は苦しさのあまり、金氏に打ち明けたわけである。
それから六年後の一九五七年二月、白牧師夫妻は、ソウルの街で、ある娘と出会った。
この娘は、丁得恩の娘だった。丁得恩は混淫派の中心人物で、八年前に男女信者を三角山と水色に集め、〝霊体の教理〟を解説した張本人だった。
娘はいった。
「母はまだ健在ですが、牛耳洞の谷間で信者二十数人を引き連れて引退生活を行なっています。母が人間以下の不潔な行為をするので、あの当時、いっそ誰かが母を告発してくれたらいいと思っていました」
娘と会う少し前、白牧師夫妻は、朴泰善を二度ほど訪問していた。
その頃、白牧師夫妻は、釜山で聖民育児院を経営していたが、経営不振で莫大な赤字を背負い込み、連日借金取りに追われていた。だから、白牧師のおくさんは、かつての混淫同士の朴泰善を訪ねて窮状を訴えたのである。
ところが二度目の訪問でようやく、寄付してくれそうな人を紹介しただけで、朴も朴夫人も自分たちが金を出そうといわないのだ。
白牧師は、丁女史の娘と会ったことで、決心した。今までは過去のことより、現在の育児院のためにと黙っていたのだが、丁女史も健在、朴にいたっては新興成金になっている。白牧師のおくさんは、姦淫を信仰とした丁得恩の手下である李泰允や林泰善夫妻の誘惑に負けて混淫派の仲間入りしたのだが、そんな彼らはいまでものうのうと暮らしている。
白牧師夫妻はついに混淫事件を世間に公開しようと決意を固めたのだった。
五七年三月二日、白牧師はソウル元暁路の伝道館へ出かけた。彼は伝道館の門に入ろうとしている信者たちに向って、大声で叫けんだ。
「朴泰善は東方の義人ではない。彼は姑と兄嫁を、それに元慶淑という女性信者と、霊体を交換するとかなんとかいって姦淫したのだ。朴泰善の妻も、朴永昌という男と混淫した。それにもかかわらず、東方の義人とか、生まれた時から罪のない身体であるといって、皆さんを欺いている。腹黒い彼の正体を今こそ正しく見極めなければならない。
彼が、按擦祈禱で病気を治すといっているが、癩病患者が治ったのを見た人がいるのか、生命水を飲めば死なないといっているが、そんなのはみなウソ八百だ。騙されないで早いうちにこの集団から脱退したほうがいい。
恥ずかしい話だが、私の妻も混淫派に属していた。今となってはそのような大罪を信徒の前にさらして悔い改めなければならない。霊体派の教主も生存している。皆さんは伝道館から離れるか、朴泰善を懺悔させて、純粋な信仰復興家にするかを直ちに決断しなければならない・・・・・・」信者ばかりでなく、道行く人も立ち止まって聞いている。
まさか教主が夫人の母や兄嫁と姦淫した、なんて、これは大変なことである。韓国は男女間のことは昔から大変に厳しい。ましてや、姑や兄嫁との姦淫など、犬畜生にも劣る破廉恥な行為だ。人々はあまりのことにショックをうけて、次の言葉を待った。
さらに白牧師が言葉を続けようとした時、門の中からバラバラと職員たちが出て来た。そして白牧師を取り囲んで暴行を加えはじめたのである。
白牧師は警察に訴えた。暴行されたことを訴えると共に、問題の混淫事件の全貌を洗いざらい警察に話をした。
ここに至って金景来氏が、精力的に取材し、それを五七年三月十八日付、二十九日付の新聞で詳しく報道し、その血分けの実態も明るみに出された。
これに黙っている朴泰善ではない。ただちにいくつかの新聞紙上に、この事実を否定した反駁文を載せた。勿論広告文でである。
さらに彼は、日ごろ支持している政界の人間にも働きかけて事態を収拾しようとした。
政界の人間や伝道館の大幹部たちは、白牧師夫妻と和解交渉をはじめた。「育児院に援助するから訴状を取り下げる声明書を出さないか?」というのである。
また、「クリスチャン同士でこのようなことを起こしては・・・・・たとえどのようなことがあろうとも、互いに相手をかばってこそ、同じ宗教を志すものではないか」といった心情論をいう仲介役の政界人もいた。
それに対して白牧師夫妻も、はじめは同調する気持ちになっていたが、朴側が大義名分を立てるためもあって、一方的に混淫を否定する声明書を発表したので、白牧師夫妻が硬化した。
こうして警察及び検察庁が多くの人間を召喚して調べた結果、混淫派の全貌が明るみに出されたのである。
161頁
彼は「混淫罪」のかどで逮捕されたことがある
それによると、朴泰善一派の混淫は、一九四七年五月、単身で北朝鮮の平壌から越境し、ソウルの三角山に住居を定めた丁得恩の布教ではじめられた。丁女史は、ただちに既成キリスト教の青年男女を誘い込み、混淫の教理を説き、三ヵ月の間に三十余名の信者を集めた。
この頃、水色という街に住んでおり、当時は朴も既成教会の長老クラスだった。だが、汚れた生命を持っていたのであろう。丁の教理に共感し、熱烈に丁を支持し、その教えを広めるために、自分の家を会場に提供したのだ。
丁はまず最初に、三人の男性に自分の尊い血を分け与えた。
三人の男性とは、金漢、方好童 (方好同)、李守完で、李は朝鮮動乱時に戦死する。一週間のうちにこの三人に血分けをした丁得恩は、すでにこの当時、五十歳を少し越えている筈である。
金と李は次の日から霊体布教をはじめた。李は、当時二十六歳の元慶淑に血分けした。この元が朴泰善に今度は血分けする。
金は閔恩順に血を分けた。閔は暫くして、これが主人にばれて夫婦別れをしている。閔はすぐに現職の牧師、李泰允と行ない、この李泰允が白牧師夫人の張愛三と関係したのだ。
また、朴泰善は、この尊い教理をまず家の者から、と考え、姑と兄嫁に伝えたのだった。もちろん肉体的にである。一方、朴泰善の妻は、元慶淑と同じに李守完から受け、朴永昌に伝えた。朴永昌によると朴泰善の妻との〝血分け〟は、はじめはうまくいかず、二回目にようやく完遂したという。
行なう方法は、といえば、まず教祖格の丁得恩女史立ち会いのもとに行ない、丁がお祈りを捧げているところで〝血分け〟の行為がなされる。男が女に伝える時は女が下になり、女が男に伝える時には女が上になることは前述した如くである。
誰に血分けをするかは、瞑想しているうちに、神がダレにせよ、と啓示してくれるのだそうな。判明した以外にも、無数の血分けがなされたことは丁女史が証言している。
こうして男↓女↓男とリレー式で血分けがなされるわけだが、では丁得恩に伝えたのはダレか。
前述した如く、この教義は、韓国に於いて一九二三年の平壌地方で起こった。
当時、キリスト教牧師であった李竜道と黄国柱の両名は、ほとんど同じ時期に、新しい聖霊を授けられたと触れ回って、善男善女をまどわした。
異常な能力を使い、預言をしたり病気を治してみせたり(大半は治らなかったが)して狂信者を率いたが、彼らがついに、血分けの教理を確立したのだ。但し、この頃はまだ、確とした理論はなく、後年これに理論武装をさせたのは金百文である。
当然の如く彼らの宗教は、世間から排斥されたし、日本統治下の宗教弾圧の厳しさに、人里離れたところや、捜査の届かない場所で布教していた。それが八・一五解放(終戦)になると、いち早く平壌へもどり、広海教会という看板を掲げて夜昼となく集会した。
李、黄の両名がここで分裂して引退後、ここに一人の青年が登場した。
ここから、筆者がソウルで会って取材した金景来氏の著書を忠実に紹介しながら、著者自身の言葉で文鮮明の過去に触れて行く。
「……つまり八・一五解放と前後した時期に、この集団に一人の青年が登場したが、それが文鮮明であった。文は、その当時、国内で一流に属する富豪朴某氏の姑と、いわゆる彼らのいう清潔な性交をすることによって、混淫派の上座につくようになった。ここで、彼らの元祖である李、黄と文鮮明の中間には、当然無名の混淫派十人余りが介在したとみるべきである。
一九四八年二月、北朝鮮の傀儡集団の警察は、文鮮明を混淫罪のかどで逮捕した。今もソウルに居住している金某女史の夫が告発したためであるが、当時、文は神の啓示を受けたとして、本妻がいたにもかかわらず、女性信徒金某女史と強制的な婚姻式ごとをやっていたところを警察に踏み込まれて逮捕されたのである。金某女史は懲役十ヵ月、文は五年六ヵ月の実刑を言い渡された……」
この項は、金景来氏が、金某女史に面談取材して書いたものである。
164頁
おどろくべき混淫派の教理
さて、丁得恩に血分けを行なった相手は、といえば、実は文鮮明だったのだ。
ここで、朴泰善の宗教に、長いページを割いた筆者の意図がお判りいただけたであろう。
このように混淫派の相愛図が判然となったし、朴が過去、このような派に属していることを隠して、新たな布教を始めて、成功をおさめたと同じように、文鮮明もまた、過去の所業をひた隠しにして、儲る宗教事業に精出しているわけである。
なお、この宗教にも資格があり、丁得恩は金百文と同じ資格の教示者だった。文鮮明は、といえば、政治力を発揮して、丁や金よりも上位についたのだから、かつてイスラエル修道院での金
百文-文鮮明の関係が逆転した。金にとって文は出藍の誉高い弟子となる。
朴泰善は、丁得恩から説教を受け、金百文から聖書の解釈法を学び、あの霊体の教理も体系立てて習得した。混淫派の教理を理論づけた金百文は、それを自著『聖神神学』にハッキリと記している。紹介してみよう。
「……ここから、イエス様の聖体問題に結果的にはその意義が関連する聖血問題が起こるが、それは、キリストの聖血が贖罪によってのみその価値的本意が全うされるのではなく、原罪を贖罪した人がイエス様の血統性を感じるようになることであり、つまり、霊体交換による血統的結縁のための聖血をいうのである」(『聖神神学』一〇二頁)
「……今、神に立ち帰る問題について考えると、ここでは自然的に人類堕落の根本問題が問題とならざるをえない。そこで、この問題を指摘してみると『アダム』の堕落内容というものは、つまりイブとの夫婦間の性交問題のほかに、イブと蛇との姦通問題から発生した罪をさすのであるから、聖なる神がキリスト教人を最後には聖化されるだろうということである。
救いのために人格を創りなおす問題は、今、上で論じた堕落の根本となった男女間の性交交際において肉体の情欲性を聖化すること、すなわち人間すべての本質問題である肉体的性欲を神の太初創成期の本性や本質で聖化することによって、神に立ち帰らせることであり、これがキリスト教人に対する最後の聖化問題であると同時に、聖なる神の歴史的大業となるものである。
このことはまた、とりもなおさず、キリスト教の窮極的末路で、しかも個人信仰の最高問題である聖化問題とつながるものであり、必然的にこの問題を宗教的な信仰運動の教理の条件に取り上げ、信仰の全幅を注ぐようになる時期が到来するだろうから、この性交を割礼や洪礼と同じような宗教的な儀式の問題として行なうようになろうというのが本論の主題なのである。
ところで、この問題をここで取り上げたが、これはキリスト教神学界にとっても最初の問題である……」(『聖神神学』一二八頁)
166頁
文鮮明は血分けの教祖的存在だった
ここで、今年(昭和五十年)三月に、著者金景来氏をインタビューした時の一問一答を紹介しよう。
――まず『社会悪と邪教運動』を書いた動機について聞かせて下さい。
金 : あの本を書いたのは一九五七年でした。朴泰善や文鮮明が、その三、四年前から拾頭して来て暗躍している、まちがったことは排斥すべきです。私自身も正統派のクリスチャンですから。
あの本は異端審判の主要資料になったし、自分としては満足してます。
――大変な苦労だったと思うが。
金 : ええ、私自身が彼らの教理を学びました。地方へも行きましたし、大変でした。あれはあくまでルポルタージュです。結論するのは宗教学者にまかせたい。
――売れましたか?
金 : ええ、本を出したらとたんに売れて、三カ月で売り切れてしまいました。それ以後、シリーズで書き続けるつもりでしたが、アメリカへ特派員で行ったり、いまの社(京郷新聞社)で、政治部長、外信部長、編集局長などやって来て忙しく、ついに書けずじまいでした。
――文鮮明のことがあまり書かれていないようだが……。
金 : あの当時は、警察へ捕まったりしていたけど、朴泰善のほうが規模が大きかったので、社会的に影響があったんです。
――文鮮明が血分けの教祖的存在だったとありますが、本当なんでしょうか?
金 : ええ本当です。これは統一協会としては極秘事項となり、これを明かすと大変だと必死に隠しています。みんなはそれを聞くとウソだという。まさかウソだ、というのを狙ったのが文です。
――『原理講論』には血分けのことは出ていないようだが……。
金 : 修正されたんですよ、原理のはじめにはあったのです、これを修正したんです。
――何故、文鮮明が、朴泰善をもはるかにしのぎ、今日のように発展したのでしょうか?
金 : 政治力、金儲け、全てに傑出していたのです。たしかに男としての文は大人物ですよ、若いおくさんに変え、財産もものすごい、男のユメです。(笑い)
私が局長をしていた頃、しきりに招待をしたいといって来ました。東京へ行きませんかと航空券から小づかいまでくれようとしました。
――統一協会の将来はどうでしょうか?
金 : 信者数としてこれ以上は増えないでしょう。それに正統的なキリスト教では、牧師が死んでもその教会はつぶれません。しかし文鮮明が死んだら、財産争いをしたりして滅亡しますよ。
――だがしかし、どうしてこの国には新興宗教が多いのでしょうか?
金 : それは、朝鮮半島において、新興宗教がアピールしうる精神的風土的条件がある、ということです。人類が開発したイデオロギーとしての共産主義と民主主義の最終的対決が、この半島だからです。思想的な分断は、ここしかないではありませんか。この半島において、両者が傘の中に入れるような第三のイデオロギーがもし生まれたら、まさにノーベル賞ものです。民主主義と共産主義以外のものか、これらを包含させるものを民衆は待ち望んでいるのですから、オレこそ救世主 (メシャ) だと名乗る者が出て来る条件があるわけです。文鮮明が何故、統一教と、〝統一〟の言葉を使ったのか、それは分断されたこの国を統一しようという意識があるからなのです。
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いかなる理由で文は逮捕されたか
一九四六年八月十七日、文鮮明が平壌の大同保安署(警察)に逮捕された。
新興宗教問題研究家、卓明煥氏(在韓国)によれば、逮捕理由は『社会秩序混乱容疑』だという。
卓氏は、あの当時、社会常識では考えられない乱交を行なったからだとする。
しかし、統一教では勿論、そんなことはいわない。統一教ではこういっている。
「……やがて数多くの熱心なクリスチャンが集い、メンバーが多くなり、影響を与え始めた頃、キリスト教の他派の牧師、長老に告訴され、共産政権に捕えられ、投獄されました。獄中では厳しい拷問にあっています。理由は Rev. Moon が影響力をもっていたことと、共産主義に従わなかったことです」(希望の日フェスティバル、パンフレットより)
卓氏の調査によれば、文鮮明は、この時は三カ月余の刑務所生活を過ごした後に出所。出所してからまた、宣教活動をしたのだが、本妻、崔さんがいるのに、女性信者金某女史と結婚式を挙げたので、一九四八年二月二十二日、重婚罪で再び文は逮捕された。重婚罪は罪が重い。五年の刑を課せられ、文は興南刑務所に服役した。
この卓氏説以外にも、重婚罪ではなくて、混淫罪で逮捕されたのだ、という説がある。
それは前に公開した『社会悪と邪教運動』(日本訳=原理運動の秘事)である。その当時に取材したものだし、筆者の金景来氏は、後に編集局長にまでのしあがった実力のある新聞記者だっただけに、その真ぴょう性は強い。
同書によれば、「文鮮明は神の啓示を受けたと称して、女性信者金某女史(卓氏の調査した人物と同一であろう)と『強制的な婚姻式ごと』(即ち霊体交換である)をやっていたところを、警察に踏み込まれて逮捕されたのである。これはその金某女史の夫が警察に告発したためであった。そして社会秩序侵害罪(姦通罪)で、金某女史は懲役十カ月、文は五年十カ月の実刑を言渡されて興南刑務所に投獄された」というのである。
野村健二サンの説はどうか。
文伝記には次のように述べられている。
「……一度その場に足を踏み込むと、そこに自分が長年求め続けていたものがあることに気づき、家庭にあまり関心がなくなって来る。また、深夜まで祈ったり歌ったりで騒がしい。そのため他の教会の長老や牧師、あるいは家庭などから再び数々の投書が警察に舞い込むようになって来た。それが約八十通ばかりになったとき、一九四八年二月二十二日、警察は『社会秩序攪乱 』という罪名のもとに文青年再逮捕に踏み切った。四月七日に公判があり、五年の刑が課せられ、五月二十日に平壌から約四百キロ離れた興南の特別労務者収容所(つまり刑務所のこと=筆者註)で重労働に服されるようになった(後略)」
ということだが、五年の刑を課せられるといえば、かなり重い罪を犯したことになる。日本の刑法と当時の北鮮では当然異なってくるだろうが、常識で考えると、信者たちが歌ったり騒いだりしたくらいで、その教祖が五年もの刑に処せられるだろうか。重婚罪、または混淫罪のほうが五年に価いすると思うのは、われわれの無知による考えなのか。
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神サマもカミサンのコントロールは下手だった
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重婚罪が出て来たので、文鮮明の結婚について述べよう。
戸籍上の妻として一番目に崔さんがいる。結婚年月日は不明。日本への留学時代には独身で、野村サンのレポートによれば、日本でも大変にモテていたが、彼はガンとして色香に迷わなかったそうだ。そのモテたるや次のようになる。
「文青年の男らしさに心を奪われ、自分の指を切って血書で思慕の情を告白して来た女性など、ロマンスの逸話も多い。しかしそのつど文青年は、『自分にはなにものにも代えることのできない重大な目的があるのだから』とさとして、一顧も与えられなかった」
資料に、崔さんの名が出て来るのは、後の平壌時代である。ソウルで知り合い、平壌へ連れて行ったのか、平壌で知り合って結婚したのかのどちらかであろう。
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▲ 崔先吉は文鮮明の最初の妻でした。彼女は、文鮮明が2人の信者と血分けの儀式を行っているのを目撃しました。彼女は自宅に帰り、文鮮明がそこに保管していた野球のバットを持って教会に戻りました。そして、それを使い教会の建物を傷つけ、世界基督教統一神霊協会 (統一教会) と書かれた看板を破壊しました。
崔夫人はこの後、文が平壌から釜山へ逃がれた後も、後を追って釜山へ行く。釜山、大邱時代に、文が住居を転々としたのは、崔夫人から逃れようとしたからだと証言する牧師もいる。
ソウルへ出てからも、この夫婦は不仲で、不仲の証拠に、この夫婦間では一人の子しか成していない。一人の子は現在、統一教のために働いている。現夫人との間では、すでに五人も子どもがいるのだから、一人っ子では、いかにも夫婦同衾が少なかったことが判る。
ある正統派の牧師はまた、文が崔夫人と別れたがったのは、自分の教理に従ったまでで、統一教に入教していない(崔夫人は反対していたという)夫婦は、夫婦ではない。だから信者の中から文は妻を選びたかったのだ。実際にその説は、後日、当時高校生の現夫人と結婚して証明された。『新東亜』二月号の李柱赫氏のレポート「統一教の正体」によると、文鮮明がソウルで裁判を受け、無罪で釈放された日、大勢の信者たちの前で、崔夫人を皮のスリッパでひっぱたいて追い出した。
これを、柳スポークスマンに問い糾してみると、柳氏は言下に否定した。
「それはまったく出鱈目です。むしろ事実は逆なんです。大先生が自室にいらっしゃる時、崔さんがやって来て、いきなりスリッパで大先生の頬を撲ったのです。この時、大先生は少しも騒がず、むしろほほえみさえ浮かべられ、さあ、もっとぶちなさい、とおっしゃったのです」
イエス・キリスト曰ク、〝汝、右の頰をぶたれたら左の頰を出せ〟云々と。まさに文大先生のその言たるや、いまキリスト、再臨のイエスどんぴしゃりである。
ついでに柳氏は、崔夫人について、「それはとても怖い女性でした。まるで鬼のように怖くて気の強い女性でした」と眉を顰めた。
悪妻は百年の不作。とはいえ、そんな女房を貰った亭主も悪い訳だ。お得意の神の啓示が、この時なされなかったから、悪い女房を貰ってしまったのか。
一家繁栄、一家だんらんを説かねばならぬ教祖自身が妻と不仲で別居状態では、いかなる説法をしても効き目がなかろうと思うのは筆者一人だろうか。
崔夫人はやがて病死するが 〔二〇〇八年十一月〕、柳氏の前述の〝崔さんがやって来て〟という言葉を待つまでもなく、文は釜山、大邱、ソウル時代と、崔夫人とは別居状態にあり、殆どの信者が、文を独身だと思っていたようである。
興南の刑務所の待遇はひどかったらしい。とにかく、文鮮明はここで服役している。
ところが、一九五〇年六月二十五日、いわゆる六・二五動乱が起こった。
この日未明、日曜日だったので、韓国の将兵たちはそれぞれ自宅へ帰っていた。その手薄の三八度線全域を、北鮮軍が一斉に進撃して来たのである。これがいわゆる朝鮮動乱だ。
開戦後、たったの四日にして首都ソウルは占領され、さらに数日にして釜山近くまで席捲されてしまったのである。
国連安全保障理事会では、アメリカが提出した北鮮軍撤退要求を決議、賛成9、反対0(棄権1=ソ連)で可決して、アメリカを中心とする国連加盟十六カ国が直ちに参戦した。
九月十五日、かの有名なマッカーサー元帥仁川逆上陸作戦が成功、ようやくにしてソウルを奪回、この年十月、逆に三八度線を国連軍は突破した。
こうして逆に北鮮の工業地帯などがB29の大編隊に爆撃される。やがて国連軍が進軍して来て、刑務所の囚人たちも解放された。
平壌から文鮮明は釜山へやって来るのだが、野村サンのレポートでは、平壌から四十日かけて彼を慕う信者たちと、死の行進に近い苦行をして歩いて釜山へ行く、とあるが、何故首都のソウルに落ち着かないで、ソウルから飛行機でも約一時間かかる釜山へ行ったのかは不明だ。それよりも、国連軍の難民救済用のボートで、海路を一挙釜山へ到着したとする卓氏説のほうが自然のような気がする。
何しろこうして刑務所生活をして、刑期の途中で平壌から釜山へ逃れ、いよいよ文鮮明の宗教の開花が見られるのである。
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牧師夫人はなぜ夫を捨ててまで文のもとに走ったか
平壌から釜山へやって来た文鮮明に二人の弟子が従いて来た。一人は金元弼という。
文は釜山でバッタリと厳徳紋氏と再会し、この人の厄介になり、釜山港で沖仲士をやりはじめた。金元弼は、先生にそんな労役をやらせてはいけない、と、画才を生かして米軍兵士相手に絵を書いたりして、文の伝道生活を支えるお金を儲けた。
この時代に文は、現在の『原理講論』の骨子となる『原理原本』を書いたという。
釜山には五一年一月から、五四年一月までの丸三年滞在している。
この間の生活は大変に苦しく、幾度となく家を追われ、学友厳さん夫婦と子ども二人、厳さんの姉さん、弟子の金元弼などと一緒に転々とする。集団生活をやったり、バラック小舎で文一人住み、原理を書き続けたりという生活が、一説には後を追って来た本妻の崔さんから逃れるために転々とした、といわれる因となる。
それにしても、妻とは一緒に釜山へやって来なかったようである。妻を捨てて自分だけ戦火を逃れてやって来たものか、そのへんは定かではない。
この時代、思索に思索を重ねるために、文一人が勉強する掘立て小舎を建てたのが、現在でも釜山に遺っているという。この小舎を風一洞(ヴォンネコル)小屋というが、まさにルンペン小舎である。
この小舎の近くに畳一畳ほどの大きさの岩があり、ここで文は血涙をふりしぼって、「人がこのようなみじめな姿でうめきもだえているのは、これまで人類に『まことの父母』がいなかったからです。どうか天の父よ!この地上に『まことの父母』を来たらせ給え!いかなる辛いことがあってもかまいません。ただこの命一つを残して、失われた『まことの父母』をどうか再び取りもどさせてください」
と、日々祈ったという。現在、世界にいる統一教の信者たちが、韓国へ行き釜山へ行くと、必ず訪れる「涙石」が、この岩なんだそうな。
この文の祈りに出て来る「まことの父母」とは、後年、彼を「宇宙の父」、現夫人を「宇宙の母」と信者たちにいわせることで、我こそがそのご本物 (ほんぶつ) であると、悟ったのであろう。
この時代、文の片腕ともなる初代の協会長、劉孝元をはじめ、大幹部クラスの李燿翰、姜賢実(女性)、李鳳雲などが入教している。特に劉孝元は京城大学(現ソウル大学)医学部出身の秀才で、カリエスで脚部不随だったが、後年、文の知恵袋として活躍し、一説では、『原理講論』はこの人が書いたといわれている。
一九五三年一月、文鮮明は劉孝元らと大邱へ居を移す。大邱は、ソウルと釜山を一直線で結ぶと、約三分の一ほど釜山寄りの慶尚北道に属する地方都市だ。
ここへ居を移した文鮮明の宗教は、たちまちにしてその土地の善男善女を信者にして行った。
その中には、正統派に属する南山教会の牧師の夫人までもが入っていて、夫人は夫を捨てて、文に夢中になった。こうなると文の宗教は、キリスト教を名乗っているので、正統派のキリスト教会も捨てておけない。
当時、大邱の三徳教会の伝道師をしていた張聖勲氏が特命を受けて、文の信者になりすまして潜入をした。そして、文たちの所業を暴き、警察と新聞社に訴え、新聞にでかでかと出たため、大邱には四ヵ月ほどしかいられず、この後、文一行はいよいよソウルへ向けて出発する。
なお、当時、文鮮明究明の急先蜂となった張聖勲氏は、現在、慶尚北道の永川第一教会の牧師をしている。張牧師に当時のことについて、インタビューをしたので、それを再録してみよう。なお、張氏は日本語が大変にじょうずだったので、通訳をまじえず直接のインタビューである。
―― 統一教について張牧師のお考えを聞かせて下さい。
「自分の持つ宗教とは相い容れることのできない宗教ですし、統一教は文鮮明が個人で作り出した宗教ですよ。その文の言いなりになって婦人たちは、自分の夫をかえりみず、またわが子の教育すらおろそかにし、狂的に集まっていったんです、恐ろしいことです。何しろ家を出てしまうんですから、そして夫にみつからないようにしながら文の許に走ったんですよ」
―― 何故、そんなに魅力があったのでしょうか?
「魅力ではなく魔力ですネ、婦人が統一教に入ったら最後、狂信的になってしまうんです。男性にしてもそうです。自分の家の財産を全部持ち出し、文に寄付しないと気がすまない状態になってゆくんです。文はそのような婦人たちを集めて、教理のほかに家庭料理の作り方まで指導しています。〝ほかの宗教でこんなに親切な教祖がどこにいるか〟なんていってましたよ。当時の文はいまのように肥っていないで、痩せていましたし、演説の説得力はすごみさえ感じるほどでしたから、婦人たちが夢中になって不思議ではないと思えますが……」
―― 女性関係について何かお聞きになっていますか?
「李サイセキとか李ヨウカンとかいう名の女性との関係は聞きましたし、そのほかにもとかく噂の多い男でした。文鮮明自身から聞いたのですが、それらの女性はサタンが与えた女性だったから、全部捨てた、というのです。また、〝それらの女性を捨てる意味は、アダムとイブの間に生まれた子でないと妻としての資格がないからだ〟というのです。
〝現在の夫婦は離婚して、統一教に入教し、アダムとイブが決めた相手と結婚せよ、自分もそうしているのだから〟。また以上のことは 〝私自身がいっているのではなく、そのような夢を見てそう信じるようになったのだ〟ともいいました。〝これまでの女性はサタンが会わせたのだ〟そうです。つまり、このアダムとイブの意味は、後の自分たち夫婦を指すんでしょう。そこで私は文鮮明の女性関係を、ある新聞記者に話し、それが記事となって大騒ぎになったのです」
東京近郊の宮崎台研修センターの統一教会員が書いた「血分け問題」です。(本人の講義ノートによる)
Moon and his “meeting with Jesus” – Yamaguchi Hiroshi (1975)




