第四章   犠牲にされた女たち

第四章
犠牲にされた女たち


▲ 文鮮明 を囲むマリア (人妻) たち 左二人目から:

不明、姜玉実*[ 姜賢実 ]、林英信 [ 朴貞淑 ]文鮮明
玉相賢* [ 玉世賢 ]、辛貞順*[ 李得三 ]、李順哲*[ 金順哲]

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大功労者、玉相賢の末路

前項まで私は、当時の克明な日記やメモをもとに記述してきた。警察などの執拗な追及を避けて生き延びた何冊もの日記は、今となれば貴重な記録である。

獄中から再臨メシアだと信じ、「先生」と呼んで盲従してきた、私の愚かな足跡や心情を全部記述し、告白してきた。文中に登場する「文鮮明先生」の行動は、全部事実である。

愚直な軍人だった私は、「先生」との約束を守って、北に父母も妻も、五人の子どもも残して南下し、「先生」の忠実な分身として努力してきた。ところが「先生」のほうが、ある日突然、帰るべき家も家族もない分身を、裏切ったのである。

私はあまりにも知りすぎた男、だったのかもしれない。

人里はなれた山奥の鉱山に、社長の肩書を付けて追いやられた私は、何年間も無給のまま働いた。そして、私と入れ替わるかのように登場して、統一教会の中でしだいに勢力を伸ばして行く、軍事政権の何やらキナ臭い匂いを横目で見ていた。

文鮮明先生は、いつの間にか私の心の中で、もう命がけで守る価値もない、ただの文鮮明になり下がっていた。

前項までは、さすがにもう「先生」とは書けなかったので、「文さん」と記述してきたが、この項からはすべて「文龍明」「文鮮明」と記述する。

 

髪の毛を編み込んだ靴下 127

今から思えば、最初に文鮮明と関わりのある女性として印象に残ったのが、玉相賢*だった。興南特別労務者収容所 にいるときに、彼女についての話を、一緒に服役中だった文龍明(当時)からよく聞いた。

その当時は、平壌から興南までの切符を手に入れるだけでたいへんだった。旅行証明書を持っている人に限って発売するのだが、それでも玉相賢は切符を買うために夜半じゅう並んで、文龍明に面会するために苦労して手に入れていたようだ。

そして、文龍明に差し入れするために、ミスカルを心をこめて作り、冬になると下着を毛糸で編み綿を入れて、収容所までの遠い道を面会に通って来た。夏にはミスカルとアメを作って—―ときには、アメをものすごくやわらかく作ってミスカルとまぜてーー持ってきたり、麻で作った服を川意してきた。栄養のために肝油を召し上がって下さいと、お金まで置いていったそうだ。

私はその話を聞いたとき、とても不思議に思った。自分と血もつながっていない人に、そんなに一所懸命、世話をすることができるのか—―私には納得できなかった。私の事情と比較してみると、私には母親がいるし、妻もいるが、三か月か四か月に一回面会に来るのがせいぜいなのに、彼女はたびたび面会に来て、いつもいろいろ用意して持ってくるので、私は驚くしかなかった。

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▲ 今は哀れな玉相賢* [ 玉世賢 ]

私と文龍明は、監獄の中でお互いにどんなことでも相談し、隠すことは何もなかった。ある日、彼が言った。

「玉相賢が自分の髪の毛を切って、毛糸と一緒に編んだ靴下を持ってきてくれた」昔の言葉に、

「本当の恩恵を受けた人のために、自分の髪の毛を切り、それでワラジを作って恩にこたえた」とあるが、そんな人が実際にいるのかと、頭が下がる思いだった。その女性はなぜこんなに一所懸命なのだろう、とずっと思っていたが、それに関しては、文龍明に聞くことはなかった。彼女が持ってくるミスカルなどを分けてもらって、ただありがたく食べていた。

・二五動乱(朝鮮戦争)が始まり、UN軍の北への進撃で、文龍明は十月十四日(一九五〇年=昭和二五年)、出獄して自由の身になった。同じ囚人だった文正彬と一緒に歩いて、十日間かけて平壌に到着した。

その後、私は初めて玉相賢の家で彼女に会った。誠実で人のよさそうな、ハキハキした人だった。玉相賢の自宅は、そうとうな金持ちのようで、大きな庭があり、家が何軒も建っていた。娘の萬貞愛、萬貞順姉妹と一緒に住んでいて、文の信者だった金元弼が「サタンの家には帰れない」と言って居候していた。玉相賢が片づけてくれた部屋に、文龍明、私、文正彬、金元弼の四人が寝泊まりした。

ここで五日間ほど過ごした頃、ソウルへ避難していた家族が全員帰ってきた。翌日は日曜日で、朝食を終えると、玉相賢と夫の萬夏変が聖書を持ってあいさつに来た。そして、「今日は特別の日曜日なので、一緒に礼拝をあげましょう」

と言った。賛美歌を歌って祈り、萬夏変が聖書を朗読し説教した。彼は平壌の将台現教会の長老だった。


❖ 写真の追加

▲ 玉相賢* [ 玉世賢 ]文鮮明金元弼

 

主人、禹長老の嘆き 129

その日の午後、萬長老が私に話があると言うので、彼の部屋へ行った。

「自分は平壌ゴム連盟の理事長なので、あなたの義理の兄にあたる正昌ゴムの崔来鳳さんをよく知っている。お互いに親しい間柄だよ」

話というのは、妻と文龍明の関係のことだった。

「自分は教会の長老で、妻の玉相賢も勧師として熱心に教会のことをしていた。ところが、南の方から来たという青年が変な説教をしてから、妻が何週間かこの集会に通い出した。それまでは円満な夫婦で、何の問題もなく仲よく暮らしてきたが、突然、妻が自分と一緒に寝ることを拒否してきた。子どもたちは大きくなっているし、キリスト教の長老の家で、こういう変なことを表に出してもめることもできないので、最初は、長い期間かけて説得しようと努力したが、どうしても聞いてくれない」

という話だった。そのうえ、

「生活のやりくりが上手だった妻が、チャンスさえあればお金をへそくり、文龍明のために持ち出すようになった。経済的余裕もあることだし、少しくらいはいいだろうと最初は思っていた。何よりも早く夫婦が前と同じように仲よく暮らしたかったので、それを期待して一所懸命祈ったが、ムダだった。するとある日、その青年をはじめ、自分の妻まで、全員が警察に拘束されることになった」

萬長老は平壌市内でよく顔も知られている。メンツもあるので、警察に行って拘束の理由を調べたら、亭主も子どももいる金鍾和 という人妻とその青年が、「小羊の儀式」だと言って結婚式の準備をしているので、近所の人が変に思って警察に通告し、拘束されることになった、ということがわかった。萬長老は自分の顔があるので表には出られず、甥に頼んで警察と連絡を取り、妻の玉相賢を釈放させるようにした。

その青年が文龍明で、自分は彼が監獄にいるから安心していた。妻があんなに遠い興南収容所まで面会に通っているので、最初は止めたこともあったが、結局は聞かないので、ほっとくしかなかった、ということだった。

「朴さんも、キリストを信じるクリスチャンなのだから、文龍明のような男と一緒にいると、いずれ罰が当たるのはもちろん、この世の中で生きていくのもたいへんなことになるだろう。文龍明のような人とは一緒にいないほうがいい」

 

文鮮明に身も心も財産も   131

玉相賢は、六・二五動乱で南へ避難して釜山へ入り、改名した文鮮明にカゲのようについて回りながら、食えなかった文鮮明の、生活基盤を築いた。

今も思い出すのは、ソウルの興仁洞に教会が引っ越したあとのことだ。ブロマイド製作が成功して経済的な状況もかなりよくなっていたが、食口たちは全員がヤモメ暮らしだったので、玉相賢が先頭になって洗濯をしていた。そして、食口たちそれぞれの名前を書いた紙の箱を揃えておいて、その中に洗濯した洋服や下着などを入れた。各自が、自分のものを自分の箱から出して着替えていたが、その箱が何と二十四個にもなっていた。そのときの玉相賢の苦労は、筆舌につくし難いものだったと思う。

ずっとあとの話だが、文鮮明と訣別してから私は、釜山へ行って住宅建設の事業をやっていた。ある日、権昌貞という博士が訪ねてきた。自分も家を一軒買いたいが、買えるだろうかという。私はその申請を受け入れ、彼は申し込み金を払って帰った。その後、玉相賢が訪ねてきて、自分の二番目の息子が今、仕事がないので建設現場で使ってもらえないかと言う。社員は必要でなかったが、玉相賢の頼みだったので、断わることができなかった。次の日からその息子を雇って、一年あまり、一緒に働いたことがある。

住宅をほとんど建て終わった頃、牧師になった萬長老が訪ねてきた。久しぶりに会って話しているうちに、萬牧師が言うには、

「家内の玉相賢とは、いくら話してもムダだったので、離婚した。自分は神学を勉強し、牧師になって、今は小さい教会で勤めている」

玉相賢と別れたあと、教会の執事と再婚したそうだ。また、権昌貞博士は自分の婿さんで、権博士が申し込んだ住宅は自分の家になるから、ちょっと見せてほしいということだった。私はその家に案内して、現場でそうとう長時間話した。

文鮮明には奥さんの崔先吉がいたが、文鮮明の女関係で怒って、あまり身の回りの面倒をみなくなった。だから最初の頃、文鮮明についてのすべての世話は、玉相賢がやっていた。釜山の水晶洞の家に引っ越すまでに、四回も引っ越しをしなければならなかった。その理由は、本妻の崔先吉が、文鮮明の所へ集まってくる婦人の食口たちに嫉妬し、家にあるすべての家財道具を処分し、やってくる人を全部追い払ってしまうので、仕方なく他の所に引っ越したのである。

新しい家に移ると、文鮮明夫人はまた何とかして捜そうと努力する。考えた末に彼女は、いい方法をみつけた。玉相賢の親戚の家の女中にお金を出し、もし玉相賢が訪ねてきたら、尾行してその家を教えてほしい、と買収したのだ。それが成功して、新しい家を捜し出しては、繰り返し大騒ぎをした。ついには、食口全員と一緒に警察に連行されたことがある。

そのとき夫人は、二度と大騒ぎはしないということで釈放された。今後は、教会にいっさい干渉しないという約束だったが、そのあと水晶洞の家でも、崔夫人はまた同じことをやった。家財道具はもちろん、家まで売っ払ってしまい、文鮮明はソウルに逃げ出した。今度は、ソウルの清進洞の小さな家に拠点を移したが、どうしてわかったのか、この家にも崔夫人が訪ねてきて、また同じく、家財道具はもちろん、文鮮明のすべてをメチャクチャにした。文鮮明が原理原本も放り投げて逃げ出したのは、このときのことだ。

そのとき、文鮮明のカゲのようについて回っていた玉相賢は、文鮮明がいなくなってとても心配していた。私が一人で文鮮明の所へ行こうとするので、夜の土砂降りのなかで私の袖にすがり、「一緒に行きたい」と泣いたが、私は断わってしまった。今考えると、本当に申しわけなかったと思う。そのときは、ソウルで文鮮明に逮捕状が出ており、玉相賢を連れて行って、途中で警察に尋問でも受けたらたいへんなので、できなかったのである。

玉相賢はしばらくの間、大邱の教会で暮らしながら、文鮮明を待っていた。私が劉孝元を釜山からソウルへ連れて来て、北鶴洞に部屋を借りたとき、大邱にいた玉相賢をソウルへ呼んだ。そのときからまた彼女は、文鮮明と食口たちの生活をいっさい、世話することになった。

・四事件で、文鮮明が警察に拘束されたときの玉相賢の悲しみようは、本当に見ていられないくらいだった。毎日、断食して祈ったり、心から悲しんで泣いている姿は、横で見ている私たちも、頭が下がるようだった。

そのあと、青坡洞に引っ越ししてからも、ずっと教会のヤリクリを担当していたが、私がしばらく教会を離れて、また戻ったときには、もう玉相賢は教会から追い出されて、いなかった。

ある日、劉孝敏から玉相賢の話を聞いた。それは、玉相賢が劉孝敏のところへ来て、「お金を貸してほしい」と頼まれたということだった。その次は玉相賢の娘である萬貞愛さんが来て、さらに「お金を百七十万ウォン貸してほしい」と頼まれたそうだ。お金を貸したが返してもらえなかったということと、玉相賢はその後、何回もお金を貸してほしい、と言ってきたが、それ以上は貸すことができなくて、断わったという。

 

退院しても行く所がない   135

玉相賢は一九四六年十一月六日、四十八歳のときに平壌で文鮮明に出会った。文鮮明はそのとき二十七歳で、二十一歳年上だった。

北へ行った文鮮明の復帰原理を信じて肉体関係をもった。一番最初のマリアである。その当時から文鮮明に従い、約四十年間、身も心も財産も捧げて世話をしてきた。十年で自然も変わるというのに、自然が四回も変わる年月だった。そんな長い期間、文鮮明の横について面倒を見た人だった。一瞬も文鮮明と離れては生きていけないような玉相賢だった。

しかし、今の玉相賢の事情を聞いてみると、教会が老人の食口を全部追い出すことにしたため、彼女も三十数年間通っていた教会から追い出されてしまった。教会から追い出されるとき、たった一千万ウォンの金をもらっただけという話だった。そんな金で何ができるんだろう。商売の資金にもならない額だ。娘夫婦に住宅資金の一部として貸したらしいが、遠い所からは教会にも通えないので、死ぬまで教会に通うために教会の近所に小さな部屋を一つ借りて、そちらに住んでいるということで、本当になさけなく、心苦しい話だった。

もし私が社会で活躍しており、ビジネスでもやっているんだったら、何よりも住める家の一軒くらいは用意してあげたいし、毎月、少なくとも生活費ぐらいのお金は仕送りしてあげたかった。九十何歳にもなる大功労者が、人から借金をして歩く。涙が出るほどかわいそうな話ではないだろうか。

一九八五年八月十六日、文鮮明は「一勝日」を宣言した。過去のすべての罪を全部許し、サタンを服従させ、その後はサタンの世の中から、神の世の中に復帰させ、すべての祝福が統一協会の食口たちにもたらされる、と本部教会の宋永錫牧師が説教をしていた。私はそういう話よりは、まず玉相賢のような人に、家の一軒でも与えて生活に困らないようにするのが、何よりも先に解決しなければならないことだと思った。

かつて興南の獄中で、文鮮明から原理や「円和園理想」の話を聞かされたとき、私は胸躍らせて、

 「それはいつごろできるのですか?」

と聞いた。そのとき文鮮明が、

「七年後には、その時期が来る」

と答えたのを、昨日のことのように覚えている。

あれからもう四十数年が過ぎた。確かに文鮮明自身は巨利を儲けたかもしれないが、夢の話は実現していない。

一九九三年五月頃だった。劉孝敏から私に連絡があり、玉相賢が今、仁川のセブランス病院に入院中なので、見舞いに行こうという。私と劉孝敏は、仁川加佐洞にあるセブランス病院に行って、玉相賢を見舞ってきた。今年で九十六歳になるという。

もう病気は治って大丈夫なので、病院からも退院しなさいと言われているが、退院しても行くところがなくて病院に残っているのだった。それで、劉孝敏がお金を出して、アパートを借りて退院させようとしたが、この話を聞いた統一協会側が、あわてて部屋を借りて退院させてしまった。

文鮮明を一生支えてきた玉相賢の老後が、こんなに悲惨になっているのを見ると、本当に悲しかった。しかし、この玉相賢だけではなく、こうして犠牲になった人は、まだ何百人もいる。

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▲ 病院に入院中の玉相賢* [ 玉世賢 ] を見舞う著者(19935月)


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朴奉植と呉明春 [ 呉永春 ]

夫婦で文鮮明に献身 

 私が文鮮明と一緒に、釜山の影島に辛聖黙、劉信姫夫婦の家を訪ねて行ったのは、一九五三年の十二月二十四日だった。新しく入信した人は、劉孝元、劉孝敏、劉孝永、辛聖黙夫婦、金寛成、崔執事など。繊維工場を経営していた崔執事は、三か月後には教会に出て来なくなった。宋道旭、朴奉植夫婦が入ったのもこの頃だった。もともと信仰のあつかった人たちで、翌年の春、宋夫妻はソウルに上がって教会の専従者になった。

 宋執事はあまり教育は受けていなかったが、しっかりした身体をしている大きな男で、竹を割ったような性格の持ち主だった。満州で朝鮮独立運動に参加するなど、いろんなことをしてきた人だった。「解放」後、帰国して釜山で朴奉植と結婚した。円満な夫婦生活で、娘が一人生まれた。三人が生活していくために、宋道旭は、家庭訪問で虫よけの薬を販売したり、薬をまいたりしていた。妻の朴奉植は、釜山の市場で商売していた。原理の話を聞いてからは、今までの商売を止めてしまい、夫婦で文鮮明に服従することになった。

 夫婦の家は小さなアバラ屋で、二階に部屋が一つ空いており、金元弼がそこで隠遁生活していた。私はそこに、ときどき金元弼を訪ねていった。

 ソウルから釜山へは汽車に乗るので、窓ガラスのないボロボロの汽車がトンネルを通るときは、石炭の煙が入ってきて、洋服がその煙でまっ黒になる。あるときなど、私の着ていたスプリング・コートはベージュ色だったが、黒い色に変わってしまった。朴奉植は夜半に、その黒くなったコートを洗濯して乾かし、朝ソウルに帰るときには新品同様にバリッと着られるようにしてくれた。四十年を過ぎた今でも、忘れられない。

 宋長老夫婦の娘さんは、とても性格が活発だった。文鮮明が、その彼女を気に入り、彼女にガヤグム(伽耶琴――韓国の伝統楽器)を与えて、

習わした。そして、教会での会合とか、親睦のための食口たちの集まりで、彼女は琴をひき、歌を歌ったりした。その後、一人の青年と熱烈な恋愛中ということだった。私たちも皆、祝福しなければならないだろうと思っていたが、二人は結局、結婚までは行かなかったようだ。

 その当時、最初は私が秘書役で文鮮明と一緒に回っていたが、劉孝敏が入信してからは、彼が秘書役になっていた。その後文鮮明は、その秘書役を劉孝敏から宋道旭に代え、また宋執事は長老に昇進した。

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▲ 宋道旭

 

夫、宋道旭の不倫   140

 ソウルへ上がった朴奉植は、慶南居昌をはじめ各地で、統一協会の原理を伝道する巡回伝道師として活動していた。ちょうどその頃、夫の宋長老に大問題が起きることになった。

 その頃、捿鎭鉱山にいた私は、仕事で群山に行った。金某に事情を説明して、月明洞にあった金某の家に、約一週間、泊めてもらうことにした。この家は、群山の教会としても使われていて、金某の奥さんとは、前から知っている間柄だった。

 五日目になる日、外で用事をすませて金某の家に帰ると、今まで何ともなかった奥さんが精神的にちょっと異常な状態になっていて、「自分を復帰させてほしい」と私に抱きついてきた。私だけじゃなくて、男を見ると誰にでも「復帰させてほしい」と言い続けていた。原理の話に夢中になると、こういう状況になることはよくあった。ソウルでも釜山でも、私は、何回もこういう経験をしていたので、そんなに心配はしなかった。

 だからといって、そのまま放っておくわけにはいかなかったので、鉱山に帰着するとすぐに、ソウルの劉孝元協会長に連絡した。そして、宋長老が群山へ出向き、奥さんを連れてソウルへ帰つた。鷺梁津に教会で買っておいた家があったので、そこで奥さんの病気を治すことにした。宋長老一人では彼女の世話ができないので、呉明春*が一緒に泊まりながら、世話をすることになった。

 そのうちに、宋長老と呉明春はお互いに好きになってしまった。奥さんは回復したが、宋長老と呉執事は、お互いに別れることができない関係になっていて、結局は、文鮮明から祝福を受け、一緒になった。

 

卓越した人格者、朴奉植   141

 私は、朴奉植について書こうとしている。原理からこの問題を考えてみよう。宋道旭と朴奉植は、夫婦で文鮮明のところへ来て、食口になった。宋長老は文鮮明の秘書になり、朴執事はそれまでの商売を全部捨て、伝道に専念した。


▲ 朴
奉植

文鮮明が祝福するのなら、朴執事と宋長老が祝福を受けるのが、常識的にも原理的にもあたりまえの話だ。それなのに、呉執事と宋長老が祝

福を受けたということは、二人の同棲を認めたことになるではないか。これは、いろんな面で矛盾している。

 文鮮明が祝福したということで、何も文句は言えなかったが、どうしても、朴執事には納得いかない問題だった。呆然として肩を落した彼女の心情が察せられる。

 祝福を受けたあとしばらくしてから、宋長老は肝臓ガンになってとても苦しい生活を送り、手術を受けたが、開腹したときにはもうすでにかなり進んでおり、お腹を閉じることもできないまま、死んでしまった。

 そのとき、朴執事が臨終の横にいたと聞いて、私は彼女の人格を認めるしかなかった。宋長老が若い女と祝福を受け、勝手な生活をしていたのに、死の床の横にいたというのだから、賢女と言えばいいのか、烈女と言えばいいのかわからない。

 宋長老が亡くなったあとで、一緒に祝福を受けた呉執事も病気になり、「夢の中に宋長老が現われ、自分を苦しめている」とうなされていたそうだ。この病気になった呉執事を、朴執事がまた、何か月間も一緒に暮らしながら看病したという話を聞いて、ただただ頭が下がった。

 

大金を献じた呉明春 [ 呉永春 ]  142

 文鮮明は玉相賢らと一緒に、釜山で四回も家を引っ越したが、このときの費用は全部、呉明春執事が出してくれたのである。呉執事は、張利郁博士の奥さんや金安実*などに伝道し入信させた。李順哲*も辛貞順*も、辛貞順の娘の李聖花*、聖礼*や梁允信も伝道した。教会の初期にとても重要だった婦人幹部のほとんどは、呉執事が伝道した人である。

 その後、文鮮明が李順哲の復帰と称して、二人で一緒になっているときに、家を借りるお金もなかったのだが、呉執事が、新堂洞にいる自分の義理の姉にお金を渡して、文鮮明のための部屋を確保してくれた。

 七・四事件が発生して、文鮮明をはじめ幹部が拘束されたが、このときの世話役も呉執事が務めた。そのために自分の家を売り、その代金五百万ウォンを、そのまま文鮮明に注ぎ込むことになってしまった。文鮮明が拘束されたあと、渉外費を捻出するために、小さな食堂を元暁路に開き、辛貞順などと一緒に経営していた。そこから出た利益で、文鮮明や幹部たちの世話をしていた。

 文鮮明と私がお金が必要になると、必ず呉執事が用意してくれた。釜山の影島へ初めて行ったときもそうだった。その当時、文鮮明は一銭もなくて困っていたところ、呉執事が旅費を用意して持ってきてくれた。そのお金で釜山に行くことができて、劉三人兄弟が入信することになり、教会の基礎が固まるきっかけになった。

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❖ 写真の追加

▲ 1960年。左から洪順愛、韓鶴子、呉永春


 呉明春はその後、アメリカへ行き、医者になっていた息子のところで暮らしていた。八三年に韓国へ帰ってきたとき、呉明春は娘の張恵淑にあげようと熊の胆を一つ持ってきた。その当時で百五十万ウォン相当のものだった。

 私が高血圧で倒れたという話を聞き、劉孝敏を通して、娘の張恵淑の家に来るように言ってきた。訪ねていったら、その熊の胆を私に渡し、

 「娘にはまた機会があれば買ってあげられるから、とりあえず今は、これを飲んで元気になってください。朴先生は病気になっても必要な人なので、これを差しあげます」

と言った。さらに、文鮮明や教会と私の関係をよく知っている彼女は、

 「文先生は、朴先生をもっと大切にしなければいけないと思います。文先生は今ソウルにいるはずだから、二人が会えるように努力しましょう」

と約束してくれた。そのとき、昔、自宅を売って調達した五百万ウォンは、いまだに一銭も返してもらっていない、と言っていた。当時の五百万ウォンは、今の五千万ウォン以上になるはずだ。

 私は熊の胆をありがたくいただいた。それを飲んでから、一か月で健康な身体に戻った。呉明春はいろいろ努力してくれたが、もちろん文鮮明からは電話もなかった。

 このように最初の教会の食口たちは、一緒に苦労してきたこともあって、お互いに困っているときには助け合うことができた。しかし、一人だけいい格好をしている文鮮明は、原理の空論だけを前面にたて、人間の愛というものは一カケラもない状態になってしまった。

 

女中でもやって生きていく   145

 ところで、玉相賢のところでも触れたが、本部教会は身も心も文鮮明や教会に捧げつくして、金も家もない朴奉植を「出ていけ」と追い出した。その朴奉植は行く所もない状況におかれ、たいへんかわいそうだった。朴奉植は青平という所へ行き、山でテントを張って祈りながら生活していた。ところが、何日かたったあと、そのことを知った山の管理人が来て、また追い出されてしまったという。

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▲ 最近の呉明春* [ 呉永春 ](
1992年)

 朴奉植は仕方なくまた市内に下りて、食べていくためにゴマ油を売る商売を始めることにした。そしてまず、教会の幹部の家を訪ねた。元食口の朴奉植が頼めば、一軒に一本ずつくらいはゴマ油を買ってくれるだろうと思って、訪ねてみたのである。

 一番最初に協会長の夫人のところへ行って、ゴマ油を一本出し、上等なゴマ油だから市場で売っている値段で一本買ってほしいと頼んだ。するとその夫人は、統一協会の食口がゴマ油なんか売って、とてもはずかしいから止めてくれ、と言って、朴奉植を追い返してしまった。それからまた、元協会長の家を訪ねたが、前の家でやられたように、門前で断わられてしまったそうだ。朴奉植は、

 「統一協会の幹部たちには、愛というものが一カケラもない。本当に冷たい人たちだ」

とため息をついた。そして、協会長の夫人が二人とも断わったことから、他のところへ行ってもどうせムダだろうと、ゴマ油の商売をあきらめてしまった。

 「生きていくためには、統一協会などあてにしないで、女中でも何でもやっていくつもりだ」と、その朴奉植は淋しそうに語っていた。


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金鍾和の涙と怒り

「文鮮明を殺したい」

 平壌へ行った文鮮明は、未完成で怪しげな原理を説いて信者を集めていた。気の毒にも玉相賢はその頃からの犠牲者だが、もう一人書いておかなければいけない人がいる。

 それは、文鮮明が投獄される原因になった人妻、金鍾和のことだ。興南の監獄で一足さきに出所する私に、彼は、

 「平壌の景昌里にある金鍾和の家を訪れて、私が元気なことを伝え、そこで待っていてほしい」と言った。私は出所してすぐそこへ行ったが、捜し出せなかった人である。

 文鮮明の熱心な信者になり、主人と子どもがいるにもかかわらず、同じ部屋で文鮮明と同棲して、ついには「小羊の儀式」をあげる騒ぎとなって逮捕され、懲役一年の刑を受けている。

 それにしても、原理の理論から言えば、六マリア(人妻)を復帰したあとにくる「小羊の儀式」(正式な結婚)は、相手が汚れのない処女でなければならないはずだ。どうして夫や子どものいる人妻を選んだのか、説明がつかない。しかも文鮮明には、ソウルに残してきた妻子もある。

 私がソウルでようやく捜しあてたとき、金鍾和は里門洞に住み、執事として既成の教会ヘー所懸命に通っていた。彼女の夫の鄭明先は、「コロンビア」という靴屋を経営していた。私が金鍾和を訪ねたとき、彼女はあのときのことを後悔しながら、語った。

 「サタンが私を誘惑して、私は死ぬまで懺悔しても許されない、罪を犯したのです」

 そのときは、名前を文龍明から文鮮明に変えたことを知らなくて、彼女は言った。

 「文龍明はとんでもない大サタンで、私はすっかり編されました。私のような罪人をたくさん作った悪い人です。朴先生も早く彼から離れ、サタンに従うことはやめないと、あとで必ず後悔するようになりますよ」

 そう言いながら、大粒の涙を流して泣いた。そして泣きながら、平壌時代のことを詳しく話してくれた。

 「私の夫は、私のとった行動を陰で恨んでいるだけで、どうして怒ってくれなかったのでしょうか。自分の妻とあの男が、毎日同じ部屋で一緒に寝て、復帰をするという名目でセックスしているのを、横で見ながらどうして何も言わなかったのでしょうか。でも、あとで彼が本当に私を愛していたと知って、そのとき私は、とても大きな罪を犯してしまった、と思いました」

 私は金鍾和執事に、もう一度聞いた。

「夫と子どもがいるのに、よその男と毎晩セックスをしたりして、その当時は良心の呵責を感じなかったのですか」

 「そのときは再臨メシアだと信じて、その男に狂っていましたから、その人とセックスするときには、良心の呵責などまるで感じなかったです。天国に上がっていくような心境でした」

 文龍明は今ソウルにいるが、もう一度会ってみる気はないか、と私は聞いてみた。彼女はキッと目を見開いて、

 「とても大きな罪を犯した私ですが、今はすべてのことを知ってしまいました。大サタンの文龍明は、私のような人妻や処女たちを言葉たくみに犯し、たくさんの人を罪のどん底に陥れています。どうしてまた、そんな人に会えるでしょうか」

と反問した。そして、

 「もし、私がその人に会うようなことがあれば、この世の中でもうこれ以上、私たちにしたような罪を、二度と彼が犯せないようにしてしまいたい。あの男を殺したいほど憎んでいるのです」

 彼女はそれこそ、火のように怒っていた。


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六マリアの悲劇 

六人の人妻を奪い取る

 私、朴正華は、一九五三年五月十五日、慶州での生活を終えて釜山水晶洞にできた教会で、文鮮明から直接、原理講義を聞いた。その内容は、興南収容所で、文鮮明が私に「円和園理想」について話した内容を、もっと具体的に説明したものだった。とくに注意しなければいけないのは、「六マリア」の部分だった。

 平壌の頃は別として、食口のなかで六マリアとして復帰を受けた人たちは、一番最初が辛貞順、それから呉明春、李順哲*、金安実、姜玉実*、鄭先玉の順だと、文鮮明は話した。

 その後しばらくしてから、この六マリアの顔ぶれが変わった。その理由は、姜玉実と鄭先玉には夫がいなかったからで、夫がいる人妻でなければ六マリアになれないということだ。文鮮明はこの二人の代わりに、劉信姫、林英信*を六マリアに選択した。六マリアになる資格があるのは人妻だけ、ということだった。

「形のない神様は、エバがエデンの園で成熟したら、形ある人間のアダムに臨在し、アダムとエバが結婚して、汚れていない子どもがこの世の中に生まれ、その子孫がこの世の中に繁殖することによって、この世の中を平和で罪のない社会にすることを目的としていた。ところが、天使長ルーシェルが神の目的を知って、エバを誘惑して奪い取ったため、この世の中はサタンのものになり、罪人ばかりになってしまった。だから、夫のいる人妻を奪い取ることによって、サタンに汚された血を浄める復帰摂理の儀式が成り立つことになる」

と文鮮明は説明した。

 文鮮明は私に、復帰する方法まで具体的に教えてくれた。その復帰の方法とは、 「今までのサタンの世の中では、セックスをするときに、男の人が上になり、女の人が下になっていたが、復帰をするときには、二回まで女の人が上になり、男の人が下になるのだ」

 「そして、蘇生、長成、完成と、三回にわたって復帰しなければならない」

ということだった。

 とくに私は、文鮮明のセックスによって復帰させられた女と最初にセックスして、復帰しなければならない、と言われた。そうすることで私が、文鮮明に一番信頼される弟子になる、ということだった。

 当時の六マリアたちがその後、どうなったのかを追ってみよう。

 

辛貞順* [ 李得三 ]   152

 資産家の李淳模の妻だった辛貞順は、私が一九五三年五月十五日に釜山の水晶洞教会に行ったときから、二人の息子を連れて、熱心に教会へ通っていた。同年十二月二十四日、文鮮明が直接、

原理講義をするために釜山影島の集会へ行ったとき、彼は私に、

 「正華、あなたは将来、辛貞順と理想的な相対(夫婦)になり、うちの教会の経済問題を解決しなさい」と話したことがある。

 ところで文鮮明は、この辛貞順の長女で処女の李聖花を、将来はエバになる人だと言って犯したが、金永姫*事件でその嘘がばれてしまった。また次女の聖礼も文鮮明から復帰を受け、子どもまで産むことになった。

 辛貞順は、六マリアになれたことで、文鮮明のそばで永遠に平和な生活ができると思っていた。

それで、釜山草梁洞にあった家を売り、文鮮明に捧げた。私が釜山で縄の商売を始めたとき、その資金を用意してくれたのも、やはり辛貞順だった。

 しかし、母親と娘二人の母子三人が、文鮮明とセックスをしてしまった事実は、辛貞順を苦しめることになった。そして、それが原因でか病気になり、数年後に死んでしまった。

 あの世に行った辛貞順は、今の文鮮明をどう見ているのだろうか。

 

李順哲* [金順哲]   153

 李順哲は、私が慶州の生活を清算して、釜山の水晶洞教会に行った頃、呉明春の伝道で入信することになり、文鮮明の復帰を受けてから、ずっと彼に従っていた。李順哲の夫は当時、管財管庁の役人だった。彼女は夫に内緒でたくさんの財産を文鮮明に献金した。文鮮明がたいへん熱をあげていた頃に、私たち三人で安養、釜山などを回ったことは、

すでに述べたとおりである。

 その後の李順哲について語ろう。ある日、盧東輝が私を訪ねてきて、朝一番の礼拝に行こうとさそった。

青坡洞教会へ礼拝に行くと、ちょうど文鮮明が来ていて、説教をしていた。そのとき、文鮮明が突然、

153頁


順哲*[ 金順哲](左)、文鮮明、辛貞順*[ 李得三 ](右)
[19931110日 初版第 2 刷発行]


▲ 辛貞順*[ 李得三 ]姜玉実* [ 姜賢實 ]
順哲*[ 金順哲] (左から)
[1993
1121日 初版第 4 刷発行]


 「今、水沢里に銃砲工場を建築しているが、今晩じゅうに、その銃砲工場を完成させなさい」

と命令したのである。突然だったので、建築職人を集めるのがたいへんだった。幸いにも私は、千戸洞で住宅を建設する仕事をやっていたため、建築職人十八人をトラックに乗せて運び、夜通し作業をして、どうにかその工事を完了させた。

 作業が終わって帰ろうとしたとき、李順哲がいきなり訪ねてきて、自分が住んでいるところに来てくれと言った。彼女についていくと、「統一産業株式会社」の出口からそんなに遠くないところに、部屋を借りて暮らしていた。部屋の中には、使い古した布団とくちゃくちゃになった洋服など、わずかばかりの家財道具が置いてあった。あんなにハデな生活をしていた李順哲が、なぜこのように悲惨な生活をするようになったのだろう。

 私は李順哲に、どうしてこんなところに来て、こんな生活をしているのかと聞いた。すると彼女は、

 「文先生に会いたくて、教会の方へ訪ねていっても、会ってくれないのです。何回行っても会えなくて、仕方なく、統一産業には文先生が一日一回は必ず来るというので、ここに引っ越してきました。毎日、文先生が来る道で待っていて、遠いところから顔だけでもうかがいたいと思うのですが、文先生は車で来るので、私が立っているのを見ると、さっと車を他の方向にまわし、違う道を行ってしまうんです」

と話した。彼女はこの悲しい事情を、誰にも話せなかったのだろう。たまたま私が来ていると聞いて、私を訪ねてきたという。

 三時間も涙を流しながら話した李順哲は、文鮮明に財産も自分の身体もすべて捧げ、夫からも離婚されてしまった。子どもたちは夫についていき、淋しい生活をしながら、それでも文鮮明に会いたくて、ここで生活しているのだ。それなのに、文鮮明はどうして、こうも冷たく裏切ることができるのだろう。これが再臨メシアを自称する男のできることなのだろうか。私たちは手を取りあって涙を流した。

 この日から一か月後に、呉明春執事から連絡が来た。呉明春がたった一人で見守るなか、李順哲はその恨みの人生を終えて、この世の中から去っていったという。

 かつて文鮮明は夜も昼も、李順哲なしには生きていけないような様子だったのに、今となっては、李順哲が文鮮明に会いたくて、こんな生活まで送りながら文鮮明を待っていたのに、顔を合わせることもなくあの世に行ってしまったなんて……。あの世で李順哲は、文鮮明をどう恨んで見下ろしているだろうか。

 

呉明春* [ 呉永春 ]   155

 呉明春は、済州島の避難生活のなかでも、キリスト教関係の団体で礼拝をしていた信仰心のあつい人だった。釜山で文鮮明の原理を聞いて感激し、復帰を受けたあとは、文鮮明に困ったことがあると、この呉明春執事が全部解決してくれた。家を売り払った代金五百万ウォンをそっくり文鮮明に捧げて、夫とは離婚し、子どもたちは夫のところに行ってしまい、一人で文鮮明のために生きてきた。この呉明春執事の話は前に詳しく書いたので、ここではこのくらいにしておく。

 そのあと呉明春執事は、教会にいられなくなり、仕方なくアメリカにいる息子の所へ行って、しばらく暮らしていた。ところが、そちらにもいられなくなり、今はフィリピンにいる子どもを頼って行ったらしい。ソウルに住む娘にしても、文鮮明から祝福の結婚をしたが破れて離婚してしまった。今さら自分の家に来るのをそう喜ぶはずがない。

 劉孝敏と私が今年の春、呉明春を訪ねていくと、その娘さんから「出ていってくれ」と言われているということだった。今ごろは異国で、どんな老後を過ごしているのだろうか?

 劉孝敏と私は、何とかして、この人たちが将来、残りの人生を平安に送れるようにしてあげたかったので、お互いに努力することを約束した。

 

金安実*   156

 金安実は、私が釜山の水晶洞教会にいたときに、呉明春執事に伝道され入信してきた。文鮮明から原理を聞いて、復帰を受けたあとは、辛貞順と一緒に、劉孝元などを熱心に伝道した張本人である。

 金安実は張利郁の嫁で、彼女の夫は医者だったが、アメリカに行って博士過程を学んでいた。

金安実は夫の留学中、姑と息子たちと一緒に暮らしていたが、そのうち、熱心に教会へ通うようになった。金安実は、文鮮明を一番愛していた。

 そのあと、金安実の夫はアメリカから帰国して、ソウルの青涼里に病院を開業した。しばらくは夫と暮らしていたが、やっぱり、文鮮明を忘れられないらしくて、また、教会に戻ってきた。

 文鮮明から復帰を受けた当時の金安実は、三十歳くらいの美しい女性だった。文鮮明は、その若い安実がお気に入りで、私がソウルから釜山へ行くたびに必ず手紙を書き、私がそれを届ける役だった。今はもう、歳を重ねたこの人に、文鮮明は振り向きもしない。今さら夫のところへ戻ることもできないので、一人で部屋を借り、ピアノを教えながらやっと暮らしている状況だった。

 劉孝敏と私は、このように文鮮明と統一協会に裏切られた人たちのために、責任をもって、残りの人生が送れるように努力することを決心した。

 

劉信姫*   157

 劉信姫のことは前に書いたので、今の状況だけを書いておく。

 劉信姫は当時、子どもたちを孤児院に出してしまったが、今はその子どもたちも大きくなって、それぞれが自分の家庭をつくり生活している。だから劉信姫は、その子どもたちの家に行って一緒に暮らすことはできない。九老洞に部屋を二つ借りて、針仕事をしながらやっと生活していける状況だ。

 この人に関しても、劉孝敏と私は、助けてあげることを約束した。(第七章参照)

157頁


▲ 林英信* [ 朴貞淑 ]

 

林英信* [ 朴貞淑 ]   158

ソウルの北鶴洞教会で「世界基督教統一神霊協会」が創立された頃、劉孝敏が市内に用事があって行ったところ、ふとしたことから林英信と出会った。そして、劉孝敏が伝道して、林英信は入信することになった。教会に来て原理を聞いて、文鮮明から復帰を受けたあとは、前にも書いたように、日中は食口たちの食事を用意し、夜にはブロマイドの写真を洗う作業をやり、たいへんな苦労をした人である。

 これまた誰よりも文鮮明が非常に愛し、一瞬でも離れてはいられないような二人だったが、やがて文鮮明の財産狙いの作戦でか辛貞順の夫だった金持ちの李淳模と結婚して、男の子を一人出産したが、李淳模が亡くなり、また独りになった。

 それからしばらくして、ある芸能人と結婚したが、その人とも離婚してまた独りになり、自分の父親と同居していた。その後、すべての財産を李淳模の長男に譲ったが、その長男は継母であった林英信のめんどうを全然みてくれなかった。また自分が産んだ息子も、母親のめんどうをみようとしない。

 あんなに仲のよかった李淳模との結婚生活の頃、時間さえあれば密かに呼び出して会っていた文鮮明も、林英信にはまったく振り向かなくなった。今は部屋一つだけ借りて、孤独な生活をしている。

 私は劉孝敏と一緒に彼女に会ったが、その生活状況は、お米さえ買うお金がないというありさまだった。文鮮明は、復帰をする名目で、身体を奪い取ることはもちろん、財産まで全部まきあげてしまい、あげくの果てに捨ててしまうのである。

韓国・毎日新聞1976年6月28日記事
崔聖模씨別世
新東亜「그룹」會長
26일상오
◇ 故崔聖模씨
新東亞그룹 崔聖模회장이

지난26일 宿患으로 別世、親知및 財界重鎭등 弔客이참석한가운데 28일상오 京畿도楊州군瓦阜면月文리 선영에서 장례식이엄수됐다。
享年67세의 故人은 黄海道沙里院출신으로 지난55년釜山冷凍을 창업한이후 東亞綜合産業、新東亞火災、韓國메타놀、泰興産業、大成木材등을 설립해 新東亞그룹을 이뤘으며 統 一主體國民會議운영위원과 全経聯부회장을 歷任한 重鎮實業人이다。
유족으로는朴貞淑여사와 4男 4女가 있다。

「私の一族は統一教会の餌食にされた」 崔淳英


▲  文聖進朴貞淑


六マリアどころか六十マリア   159

文鮮明は韓鶴子と「小羊の儀式」を行ない、鶴子が真の母親だと言いふらしているが、この代表的な六マリア以外にも、文鮮明にもて遊ばれ、財産まで盗られた女性は何十人もいる。文鮮明に裏切られて捨てられ、今は六十~八十歳くらいになったおばあちゃんたちは、人生を狂わされ、恨みをかかえながら、悲惨な生活をしている。

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▲ マリア交代の姜玉実* [ 姜賢實 ]

❖ 写真の追加


▲ 姜賢實, 朴貞淑, 〇

 このような目にあまる行為は、人間の常識から見ても、宗教者の立場から見ても、絶対に許されざることであり、近い将来必ず、破綻をきたすことは必至だと私は思う。

 そして私は、文鮮明こそ本当の大サタンだと思う。なぜなら、彼が選んだ六マリアというのは皆、財産家の妻ばかりで、貧乏な人は一人もいなかったからである。その事実を考えると、

 「二千年前、イエスは、彼が出会った『姦通した女』『香油の女』など六人の女とセックスをしなかったから死んだ。六人の人妻を復帰するのは原理の根本である」

などと語った文鮮明の話は、実は聖書を悪用した都合のいい罠ではないかとさえ思う。

 事実、彼女たちは文鮮明の好色なセックスのとりこになって狂い、夫や子どもを捨てて文鮮明のもとへ走り、金や財産が確実に文鮮明の手もとに集まった。そして、吸い上げるだけ吸い上げたあとは、新たに金のある女を探し出し、六マリアの名前で誘ったのである。まさにそのとおり、

豊かだった彼女たちは一様にスッテンテンの裸同然となり、放り出された。そこには神の摂理も愛もない。文鮮明の色と金の欲の哀れな犠牲者の屍だけが残った。

 しかも年代ごとに新しいマリアを入れ換え、用済みのマリアはどんどん捨て去って、二度とかえりみないのだ。

 六マリアとは、恐るべき罠に落ちた女性たちの代名詞で、その裏に実は、何十人何百人という犠牲者の予備軍がいたのである。彼女たちの財産や資金がなければ、統一協会が発足し発展できなかったことは、当時を知る私が、一番の証人である。


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恋人を奪われ、殺されて

金源徳という男

 釜山の教会で、怒り狂った崔夫人から文鮮明を助け出した金源徳は、日本帝国主義の植民地時代に陸軍士官学校砲兵科を出ており、日本軍に服務中、砲兵少尉として「解放」を迎えた。その後、彼は北朝鮮人民軍に入隊し、砲兵司令官・武亭の片腕として務めていながら、北朝鮮の秘密を何回も南に流したりした。この事実が、司令官である武亭が軍事会議で中国に行っている間に暴露された。当初、死刑を宣告され、執行される日を待つだけだった。

 金源徳は明るい性格で、素直な人だったから、ただ死刑の執行を待っているくらいなら死んだ方がましだと決心し、獄中で自殺を図った。幸い、それは未遂に終わり、手錠をされたまま独房に入れられることになった。

 しばらくして帰国した武亭は、自分の片腕だった部下が、死刑を宣告され監獄に入っていることを知った。武亭は高級軍事機関に働きかけ、彼が身元保証するという条件で、金源徳の死刑は四年八か月の刑に減刑されたのである。減刑通告を受けた金源徳は、平壌刑務所から興南収容所へ移送された。

 危うく銃殺を免れた金源徳とは、私が興南収容所で総班長になったあと、文鮮明から紹介されて知り合った。それから三人は実の兄弟のように、文鮮明を中心にすべてのことを相談しながら、苦しい状況を克服してきた。また金源徳と私は、金が北の平南大同郡龍淵面の出身で、私が平南大同郡古平面の出身であり、お互いに近くの村の出身ということで、いっそう親近感を感じるようになった。

 金源徳は監獄から出たあと、南の方に避難し、警察の治安局外務係の警察官として勤めていた。そして、統一協会が困った状況に置かれたとき、彼が何回も問題を解決してくれたりした。釜山の水晶洞教会で、文鮮明が崔夫人から自由になれない状況にあったとき、金源徳が現われて文鮮明を連れ出したが、その間の事情を知っている崔先吉は、さすがに反対できなかったのである。

 

神秘的なロマンス   162

 ある日、金源徳は私にこんな話をした。それは、少しうらやましいような彼のラブ・ロマンスである。

 その何日か前、金源徳は釜山に用事があって、ソウル市内の龍山駅から夜行列車に乗った。彼は上等席に座っていた。ある品のよさそうな婦人が、何人かの警察官に囲まれながら、同じ汽車に乗ろうとしていた。彼女の服装や見送りに来ていた人たちを見ると、どこかの高級役人の夫人が旅行にたつように見えた。その婦人がたまたま、彼の向い側の席に座ることになった。

 水原駅を通り、大田駅を過ぎた。二人はお互いに何もしゃべらず、お互いの顔をときどき見るくらいで、そのまま釜山に向かっていた。

 しばらくすると、その婦人が、韓国の有名な詩の一句で、

 「山は昔の姿そのままだが、水は昔の水ではない。川は流れているものの、昔の水なんか残っているはずがない。人もこのように一回流れ過ぎると、二度と戻れない」

という内容の歌を、金源徳の横顔を見ながら、小さい声でつぶやいていた。その声はとても美しくて、この世の人ではなく、まるで仙女が歌っているように聞こえた。改めて婦人をじっくり見つめると、その姿は厳粛に見えるが、また情があふれるようでもあり、しばらくは、へたに声をかけることもできない状況だったという。

163頁


▲ 金源徳

 しかし、金源徳もいろんなことを経験してきた男だ。そのまま萎縮していてはいけないと思い、顔にはわりと自信もあったので、思い切って声をかけたという。

「失礼ですが、あなたを龍山駅で見かけましたが、釜山には旅行で行くのですか」

と聞いた。その婦人は、

「龍山駅の近くでアルミニウムの入れ物を作る工場を経営しています。釜山には用事があっていく途中です」

 それから釜山駅に到着するまで、まだ三時間あったが、時間が経つのも気づかないほど夢中で話し込んだという。夜行列車の中で知り合ったこの婦人と金源徳は、すっかり気が合って、その日、ある所で会うことを約束し、釜山駅で別れた。

 約束した場所で会った二人は、夕食を一緒にしたが、その婦人は彼に、まるで恋人に接するように振る舞った。彼女の仕草には、日本女性のように社交的な女らしさがあふれており、とても色気があった。彼女の振る舞いに陶酔した金源徳は、我を忘れていた。

 二人はそのあと映画を見に行き、映画が終わってから、どちらからともなく以心伝心で、あるホテルへ直行した。

 この日、二人が交わした愛は、とても言葉では説明できないものだったそうだ。

 金源徳は釜山で用事をすませたら、次の日の夜行列車でソウルに戻る予定だったが、その婦人と一緒にいると一週間があっという間に過ぎ、昨日、ソウルに戻ってきたということだった。

 

美しい婦人と御馳走   165

 そして今日、彼女の自宅へ行く約束をしているのだが、自分一人で行くのは照れ臭いので、「朴先生に一緒に行ってもらいたい」という。

 話を聞いていて、私も好奇心がわいてきたので、金源徳と一緒に、十二時に龍山市場に行った。

鉄道を越えたところに空き地があった。西の方にかつての森永製菓の敷地があり、その東南に平屋建ての家があった。日本人が住んでいた古い家で、そんなにきれいな家ではなかった。玄関に行くと、表札には「尹清淨心」と書いてあった。

 二人で玄関に入ると、二十歳くらいの女の子が二人出てきて、私たちを案内してくれた。最初の部屋には大きな仏壇があり、その中央には、純金かメッキかわからないが、黄金の仏像が置いてあった。左右の真鍮の蝋燭台には、昼間にもかかわらず火が点けられていた。次の部屋は十畳以上の畳の部屋になっていて、客間のようだった。そこで座って待っていると、しばらくして、女の人がていねいにお茶をすすめてくれた。

 この家の作りを見ていると、横にあったドアが開いて、香水のような匂いが漂ってきた。とてもいい香りで、初めての香りだった。中年の婦人が入ってきた。座りながら彼女は、顔を少しかたむけてほほえみ、それからあいさつした。

「金さん一人でいらっしゃい、と言ったのに、こんな汚いところに先生までいらっしゃって、本当に光栄に思います」

その声は澄んでいて、とてもきれいだった。四十代後半くらいに見えたが、とても品のある美しい女性だった。

 金源徳に紹介されて、何が何だかわからない状態であいさつした。何か心まで貫かれているような雰囲気だった。気持ちを落ち着かせ、その婦人を改めて見ると、髪は韓国式に一つにまとめて、後ろをカンザシで止め、昔の宮殿で使っていたような金色の飾りに赤いリボンを巻いていた。

紺色のチョゴリ(上着)に薄い水色のチマ(スカート)という姿で、まさに韓国の正式な服装である。それは初夜を迎えた新婦が、新郎を待っているような姿だった。

 婦人の案内で隣の部屋へ行くと、高級料理屋と同じような韓式料理の御膳が置いてあり、すばらしい御馳走がいっぱい並んでいた。銀製の酒器には黄色いお酒が入っていて、「一杯どうぞ」と銀製の杯で勧められた。もう最高の気分だった。

 中国の詩人・李白は、長江滝の下で酒を飲みながら、

「三千尺の高さから、まっすぐ落ちてくる水は、まるで天の川から落ちてくる水のようだ」

 という詩をよんだ。

 私もそんな気分で酒を飲み、御馳走をいただいた。

 

不思議な予知能力   167

 その婦人は金剛山(韓国にあるきれいな山)で十年間修業し、この世の中のことは何でも透視することができ、人の運命を占うことができるようになったという。顔を見て、その人の余命を判断することもできるし、国会議員選挙のときには、その人の当落を予言できるようになり、大学の入学試験のときには、その人が合格できるかどうかもわかるようになったという。そのおかげで、彼女が経営しているアルミニウムの器の製造工場は、彼女にとって本業ではなく副業になっているそうだ。

 彼女の真の目的は、かわいそうな孤児たち、とくに女の子の孤児たちを育て、大学教育まで受けさせて社会に出すことだ、と言っていた。今まで育てた女の子は全員、梨花女子大を卒業させ、現在、世話している孤児は十七人だそうだ。この話を聞いていると、頭が上がらなかった。

 国会議員選挙のときになると、この婦人の家には、人が波のようにやってくる。大学の入学試験のときも、やはり同じだということだった。

167頁


▲ 尹
清淨心

 私たちは御馳走をいただき、不思議なその婦人の話を聞いて、「また、いらっしゃいね」と送られてその家を出た。「金源徳さんを恋人にしたの」とほのめかしながら彼女は、「金さんに奥さんがいても、関係ない」とさりげなく言った。「自分が愛しているなら、それだけでいい。お互いに好きなら、何も問題はない」と彼女が話すのを聞いて、世の中の感覚からは、はるかに離れている人だと思った。

 それから、金源徳と私は、その家に勝手に出入りできるようになった。金源徳のおかげで、私はいつも御馳走になり、しばらくはいい生活を送れた。お互いに親しくなると、私は、仏壇に置いてある新鮮な果物を取って食べたりした。

 「再臨メシアのお父様と一緒なんだから、命のない仏壇の前に、こういう物を置いておく必要はないだろう」

などと言いながら、おいしく食べていた。あとでわかったことだが、婦人は私たちが言っていることに、いつも注意していたようだ。

 その後、その婦人、尹女史は、金女史という他の婦人を間に入れて土木建築の会社を設立し、金源徳を社長に座らせた。会社の名称は尹女史が命名した。「雲興公司」という名前で、雲のように発展するという意味だった。社長になった金源徳は、土木建築の経験がなかったので、経営はあまりうまくいかず、まもなく、この会社の看板を下ろすことになってしまった。その後もまた、いろんな事業で金源徳と尹女史は協力していたが、運がないせいか、あまりうまくいっていなかった。

 それからしばらくして、私は尹女史に、仏壇の果物を食べるときに言っていた言葉の意味を聞かれたので、説明したところ、「ぜひ一度、その先生に会ってみたい」と尹女史が言った。

 私は金源徳と相談して、文鮮明にその間の事情を説明すると、「会ってもかまわない」と言った。そして、一九五四年の十月二十五日、午後六時に梁文永*女史の自宅で会うことになった。

そのあくる日、尹女史にそのことを伝えると、彼女はたいへん喜んでいた。

 

弟子の恋人を奪った文鮮明   169

 約束の日。金源徳と私は、尹女史を連れて梁女史の自宅に到着した。梁文永、辛貞順、呉明春、玉相賢、池承道、李順哲、李奇煥、梁允信などの女の食口たちと、劉孝元、劉孝敏、李秀郷、金元弼などが集まっていた。

 そのときの尹女史は、最高の韓国正装に身を包んでおり、まるで新婦が新郎の家へ、初夜のために入っていくような姿だった。その光景を見た食口たち、とくに婦人の食口たちは呆然としていた。あいさつを交わしたあと、尹女史は、

 「自分が霊的な目で先生をうかがうと、真の母親になる女の人がいなくて心配なさっているようです。私が新婦として、新郎である先生を迎えに来ました」

と唐突なことを言ったので、食口たちはまた驚かされた。

 その日は、イエスが三人の弟子を連れてピョンハ山にあがっていったときのような雰囲気になり、文鮮明も原理講義を夜通し話した。また、尹女史は詩を歌い、唱(韓国の伝統的な歌。日本の短歌、俳句にあたる)を歌った。その声は、その家の主人であり、梨花女子大の音楽教授である梁文永女史が聞いても驚くくらいだった。

 その当時は、文鮮明に対する監視がきびしくなっていた。夜の十二時になると通行禁止になることもあり、次の機会にまた会うことを約束して、その晩は散会することになった。

170頁


▲ 梁文永*[ 梁允永 ]

 一週間ほど過ぎたある日、文鮮明が突然、劉孝敏と一緒に尹女史の家を訪ねてきた。金源徳と私は、文鮮明が来ることを知らなかったので、とても驚いた。尹女史は心をこめて御馳走を作り、文鮮明を接待した。文鮮明も新郎が新婦の家に行ったような態度で、尹女史と座っていた。また尹女史は、聖書に出てくる新郎を迎えにいくために油を用意していた娘のように、新婦になることを期待しているような雰囲気だった。食べて、飲んで、歌って、私と金源徳は夜も遅くなったので、文鮮明と劉孝敏を残して帰った。

この夜、文鮮明は尹女史と復帰(セックス)をしたという。

 金源徳は、北から避難して南へ来るとき、住む所もなかった文鮮明を自分の借家にしばらく泊めてやったり、釜山で文鮮明が困難な状況に置かれたとき、先頭に立って何回も解決してくれた。

その金源徳が、自分の愛する恋人、尹清淨心と文鮮明に裏切られたような心境になって、その後、文鮮明を避けるようになった。文鮮明は、宋道旭長老を秘書役にしてからは、しょっちゅう尹女史の自宅を訪問していた。

 一九五五年七月四日、文鮮明が警察に拘束されてからは、尹女史もしばらく、私たちの統一協会とは疎遠になった。

 金源徳はその後も、何回か私と会って、文鮮明に対する恨みと怒りを語った。私は一所懸命に復帰原理を説明して文鮮明をかばったが、金源徳は聞こうとしなかった。

 「たくさんの女の人がいるなかで、どうして、自分の弟子が愛する人だということを知っていながら、奪い取るのか。先生は、私をバカにしているのではないか。そういうことをする先生に、

どうして服従できるのか。統一協会の原理がどれだけ立派でも、自分はもう信じる気はないし、先生いや文鮮明を許せない。文鮮明は宗教に名をかりて女を騙す詐欺師だ」

 金源徳は軍人出身だけに一本気なところがあり(私もそうだが)、本当に怒っていた。そして、

「文鮮明という男は、さかりのついた犬だ。淫獣だ」

と腹の底から絞るように、罵倒した。金源徳の悔しさはよくわかるので、私はそれ以上返す一言葉がなかった。

 それから二年ほど後のこと。尹女史、女中、養女(大学生の娘)の一家三人が何者かによって撲殺されるという事件が起き、大騒ぎになった。警察も必死の捜査をしたようだが、迷宮入りになった。

 そのときも、文鮮明と尹女史の仲は続いており、UN軍の仁川上陸によって六・二五動乱(朝鮮戦争)が有利になったことを讃える映画、『おお仁川』の準備が二人の共同で進んでいたが、尹女史の突然の死で資金が出なくなり、中止になった。

 金源徳を疑う声もあり、私も当時、警察の調べを受け彼の所在を聞かれた。

 その後、金源徳とは何回も会う機会があり、私もそれとなく様子をさぐってみたが、金源徳自身、事件には非常に驚いており、二人で真犯人捜しの連想ゲームをやったりもした。金源徳にはまったく変わったところはなく、犯人ではないと確信した。

 その彼も死んで、もう三年になる。


第五章   再臨メシアの正体

東京近郊の宮崎台研修センターの統一教会員が書いた「血分け問題」です。