愛が偽りに終わるとき

山崎 浩子  (著)

入信、合同結婚式、教えへの懐疑、そして棄教。いわゆる統一協会問題の渦中で身をもって考えた家族、友情、愛の真実…愛し、闘い、ひたすら真摯に生きようとしたひとりの女性の魂の記録。あれから一年、すべてを克明に語る。

  • 単行本: 262ページ
  • 出版社: 文藝春秋 (1994年3月1日)
  • 言語: 日本語
  • ISBN-10: 4163489002
  • ISBN-13: 978-4163489001

人は

何を

信じて

生きるのか

人は何を信じて生きるのか

私はいかにして統一教会に囚われ、いかにしてそこからのがれたか――

愛し、闘い、ひたすら真に生きようとしたひとりの女性の魂の記録!

私がその宗教に足を踏み入れたのは一九八九年の一月のことだった。その日、私は高価な印鑑を手にしていた。三本セット、百二十万円。高い買い物だと思った。しかし、これで私の下降気味だという運勢を上昇させることができるという。もしこのまま落ちていくとするならぱ、やっとの想いで始めた新体操スクールは、きっとダメになるのだ。(だまされてもいいや) 私は百二十万円の大金と引き換えに、とてつもなく思い運命を手にすることになった。

(本文より)


山崎浩子 (やまさき・ひろこ)
1960年生まれ。新体操の名門・鹿児島純心女子高校に入学と同時に新体操を始める。東京女子体育短大入学(のちに大学に編入) 後は全日本選手権で個人総合5連勝を果たし、新体操ブームの火つけ役となる。84年ロサンゼルス・オリンピックで8位入賞。その後現役を退き、新体操のインストラクターとなる。また、スポーツライ夕ーとして雑誌「Number」等に執筆、講演やテレビ出寅でも活躍中。著書に「山崎浩子の楽しい新体操」(小峰書店)、「失敗という名のレッスン」(講談社)がある。



スポーツ  2009年10月27日

「時代」を彩った男と女・あの人は今元女子新体操選手・山崎浩子さん

女子新体操で名をはせた山崎浩子は、1960年1月3日生まれの鹿児島県出身。

 3歳から中学校までは種子島で育った。新体操の名門・鹿児島純心女子高(東京・八王子にある東京純心女子高校とは同じ系列高)に入学と同時に新体操を始め、メキメキと頭角を表わし、そのセンスのよさが全国に広まった。

 進学した東京女子体育大学では「新体操の女王」とまでいわれるようになり、79年から83年の5年連続で全日本選手権の個人総合優勝を果たした。この記録は今でも破られていない。

 この偉業によって新体操が新たなスポーツ競技として話題になるきっかけとなって、一気にブームが訪れた。

 84年のロサンゼルス五輪で新体操が初めてオリンピック種目となり、山崎はその代表として出場、個人総合で8位に入賞した。この入賞を機に新体操はブームから不動の人気種目となった。

 山崎の世界選手権での個人成績は、79年のロンドン大会では20位。2年後のミュンヘン大会で12位。そして83年のストラスブール大会では34位と、もはやこれまでかと関係者は山崎の“限界”を感じていた。

 ところが、ロス五輪での8位入賞で見事にカムバックを果たした。だが、その年に山崎は現役を引退。新体操スクールを開設し、タレントとしてもクイズ番組などで活躍した。

 しかし、92年に歌手の桜田淳子やバドミントン選手の徳田敦子らと世界基督教統一神霊協会(統一教会)の合同結婚式に出席することが発覚、世間を驚かせた。しかし、93年4月21日に山崎は記者会見で結婚の解消と統一教会脱会を発表した。その後は、アテネ五輪強化委員会新体操強化副本部長、現在は日本体操協会の理事に就任している。

https://npn.co.jp/article/detail/28757175/


https://ja.wikipedia.org

統一教会騒動
統一教会に入会後

• 手相や字画を見るという男性から印鑑を買った友人Tの話を聞いて興味を持ちこの男性と会う。1989年1月、再度会った席で言われた「今が転換期」との言葉に共感し3本120万円の印鑑を買った。その頃は成長願望が強かったこともあり男性に紹介された自己啓発センターのビデオ学習を受け始め、ある日見たビデオの「人類はサタン(悪魔)の子」との言葉にショックを受けたが、今はメシア(再臨主)が来る時代とのメッセージを聞いて救われた気持ちになった[1]。

• 講義では、メシアとは統一教会(統一協会)創始者の文鮮明であると告げられる。山崎が大学4年生だった頃に教会の勧誘が盛んになり始め、高価な壺を買った新体操部員がいて問題になっていた。また教会の合同結婚式の写真を見て立腹していたこともあり、その教会の講義を受けていることに怒りを覚えたが、友人Tに諭されて受講を続けるうちに教会の教義である統一原理にのめり込む。付き合っている相手がいたが、人類の罪を清算するためには神が選ぶ相手と結婚する必要があるという統一原理を学ぶうちに罪の意識に苛まれるようになり、交際を解消した[1]。

• 山崎は文鮮明について何も知らず見た目も気に入らなかったが、迫害を甘んじて受け入れたという文と高校で新体操部のために尽くした監督を重ね合わせるうちに文を信じる気持ちになった。真冬の水行をこなし、多くの先祖たちが救われるならと考え多額の献金も行う。教会に反対する浅見定雄や森山諭らが鎖や薬を使って信仰を失わせることには怒りを覚えた[1]。

1990年~1993年にかけて
• 1990年冬、文鮮明の子・興進の墓参りなどのため韓国を訪問。1991年夏、この年に合同結婚式(祝福)が行われることを知る。祝福は神の審判とも呼ばれ、かつては仕事を辞め自己を投げうつ献身者と呼ばれる信者しか受けることができなかったという。そのような苦しい経験がないまま祝福を受けることに恐怖を感じ、1週間の断食に挑戦し成功。その後知り合った男性から好意を伝えられたが、祝福を受ける以外に救われる道はないとの思いから関係を絶つ。合同結婚式は延期になった[2]。

• 1992年3月、母親の死去をきっかけにためらっていた祝福を受ける決心をする。夏に行われる合同結婚式に参加することが6月25日発売の週刊文春に掲載され、同日の記者会見では入信の動機などについて答えるとともに、文鮮明が選ぶ相手ならどんな人物でもいいと述べた。この会見は全国の教会員から絶賛されたが、親戚からは結婚を猛反対された[2]。6月30日、相手となる28歳の日本人男性と対面しその場で結婚を了承。断ることは当初から考えていなかった[5]。

• 1992年8月24日、合同結婚式に参加する女優の桜田淳子、バドミントン選手の徳田敦子とともに文鮮明・韓鶴子夫妻に面会し、翌25日にソウルオリンピックスタジアムで行われた結婚式に3万組の新郎新婦とともに参加。教会に批判的な報道が続いた影響で講演などの仕事が減り、経済的に苦しくなる。教会からは入籍を促されていたが、姉の頼みもあり母親の一周忌を過ぎてからと決めた[5]。

• 1993年3月6日、姉の家で夫の両親と姉夫婦が初めて顔を合わせるが、教会への批判や指摘に終始したまま夫家族が帰る。その後、墓のことで話があるとやって来た叔父夫婦が結婚について別の場所で話し合いたいと持ちかけた時には、これが教会で聞かされてきた拉致・監禁だと気付き涙が止まらなかったが、逃げてはいけないと考え従う。連れて来られたのはマンションの一室だった[5]。

教会不信と脱会後
• 翌日から姉が説得し山崎が反論する日が1週間続き母親の命日を迎えた翌日、子供を家に残して説得を続ける姉の真剣さに打たれ紹介された牧師に会う。元信者でもある牧師から話を聞くうちに、教会の統一原理がキリスト教とは相容れないことや文鮮明の経歴や教会のルーツの嘘、自身がマインドコントロールされていたことに気付き脱会を決意。また教会が喧伝する強制改宗グループというものは存在せず、それは一円の得にもならない説得を続ける牧師達だと知る[4]。

• 4月21日、記者会見ですべてが間違いだったと認めて脱会を表明し、多くの人の人生を狂わせたと謝罪した。その後、友人Tも牧師に会って話を聞き脱会を決意。山崎は新体操スクールのスタッフや生徒の親からコーチ復帰を歓迎されたが職を辞した。夫には牧師に会ってほしいと手紙を出していたが願いは伝わらず、8月に別れを告げてから接点は何もないという[6]。

脚注

1. a b c d e f 山﨑浩子 『愛が偽りに終わるとき』1章 文藝春秋 1994年

2. a b c d 山﨑浩子 『愛が偽りに終わるとき』2章 文藝春秋 1994年

3. 山﨑浩子 『愛が偽りに終わるとき』プロフィール 文藝春秋 1994年

4. a b 山﨑浩子 『愛が偽りに終わるとき』4章 文藝春秋 1994年

5. a b c 山﨑浩子 『愛が偽りに終わるとき』3章 文藝春秋 1994年

6. 山﨑浩子 『愛が偽りに終わるとき』5章 文藝春秋 1994年


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