わが父文鮮明の正体 – 洪蘭淑 4

第9章  脱会を決意したとき


▲ 文の屋敷から脱出すろ6カ月前。信勳誕生百カ日に、「真のお父様」と「真のお母様」と。孝進は飲酒とドラツグのために参加できず、私たちは伝統的な百カ日祝いを省略した


一九九四年、私の唯一の望みは子供たちが成長して、私が夫のもとを離れられるようになることだった。文鮮明が孝進との離婚を許さないのはわかっていた。だが私は空しい幻想を育んだ。せめていつか、私たちが別れて暮らせる日がくれば。「ィーストガーデン」(東の園)から遠く離れたどこか小さなアバートで、ひとり静かに暮らすのが夢だった。子供たちが孫を連れて会いにくる。私は心安らかにいられるだろう。

それは二十八歳の女性が抱く目標としては痛ましいものだった。バーナード・カレッジで美術史の学位を取得したばかりだったが、私は人生の次の二十五年間をすっかり書きあげていた。美術に対する情熱、美術館か画廊で働くというぼんやりとした考えは、大好きな印象派の絵画に似て、夢のようにかき消えた。

三月、私はまた妊娠したことを知った。赤ちゃん誕生の期待にいつも感じる歓びは、今回は恐怖と混ざり合っていた。新しく子供が生まれるたびに、私の入獄期間は延長されるだろう。

これほど腐りきった結婚から、これほど貴重な命がなぜ生まれてくるのか、それは私にとってひとつの神秘だった。私を癒してくれたのは子供たちだった。彼らといると、快活で、くつろいだ気分になった。彼らの日課が、私たちに唯一ふつうの生活らしきものを提供してくれた。私は郊外都市に住む他のお母さんと同じように、子供たちをダッジのミニバンに乗せて、音楽や語学のレッスンに送っていった。子供たちの宿題を手伝った。寝る前には、彼らと身を寄せ合ってお話を読んでやり、彼らの日々の関心事に耳を傾けた。

父親が子供たちを心配させることがあまりにもたびたびありすぎた。「ィーストガーデン」の出来事で、年長の子供たちに気づかれずにすむことはひとつもなかった。酔っばらった孝進の癇癯、コカィンによる意識の混濁、変わりやすい気分は子供たちの目に入らずにはいなかった。彼らは、真夜中、私たちが喧嘩をしている物音で目を覚ました。なぜお父さんは一日中眠っているのかと尋ねた。「なぜお父さんは悪い人なの?」と年長の子供たちは尋ねたものだ。「なぜお母さんはお父さんと結婚したの?」

孝進が最近は長時間家を留守にしてくれることを、私はありがたく思った。彼はマンハッタン・セン夕ー・ス夕ジオで仕事をし、オールド・ニユーヨー力ー・ホテルのスィートルームに泊まっていた。それは邸宅のなかの緊張を緩めてくれた。私たちは邸宅を仁進の家族と共同で使うようになっていた。私と子供たちはともに、ちょっとした幸せな時間、たわいのないとさえ言える時間をなんとかもとうとした。ある春、私は邸宅の車寄せで自転車に乗る練習をし、私より上手な子供たちを大いに喜ばせた。

一九〇六年、才ス力ー・ハマースタィンによりマンハッタン・オペラ・ハウスとして建設されたマンハッタン・センターが孝進の生活の中心になった。統一教会はこの建物を、隣接するオールド・ニューョー力ー・ホテルとともに一九七〇年代に購入した。一九八五年に、孝進が制作ス夕ジオと経営の責任をとるようになったとき、セン夕ーはただの練習場のようなものだった。私は文鮮明がこのような重要な会社を、自分を律することはもちろん、教育も経験もない息子に任せ、社長として行動させることに驚いた。だが驚く必要はなかった。世界中のどこでも、統一教会が新事業を獲得すると、新会社は文鮮明の家族の就職口に使われた。

結婚以来初めて、人生で初めて、二十三歳の孝進は仕事をもった。彼は教会のビデオ製作を監督し、教会員で作る自分のバンドの録音を続けた。私はロック・ミュージックのファンではないが、確かに孝進はいい声をした才能あるギタリストだった。彼は自分の音楽を愛していた。それは彼が人生にもった、ただひとつの汚れなき楽しみだった。

マンハッタン・セン夕ー・ス夕ジオは表向き、教会と関係のない独立した会社を公言していたが、社員は全員統一教会の会員だった。社員たちは孝進にメシアの息子にふさわしい敬意と忠誠を示した。孝進とともに、彼らはオペラ劇場を、専門的設備を備えたオーディオ、ビデオ、グラフィックの各部門をもつ最先端のマルチ・メディア・ス夕ジオに変えた。しかしながら、孝進の霊的段階の高さが仕事上の人間関係を緊張させた。こちらからは質問できないボスに答えるところを想像してほしい。ボスは自分の命令を実行する際に部下が見せるわずかの躊躇でも、自分に対する裏切りと考える。それは災厄への処方笺だった。

寛大な言い方をすれば、自由で形式張らないやり方で、お金はマンハッタン・セン夕ーに流れ込み、流れ出ていった。ある週には社員に給料が支払われないこともあったが、それは孝進が新機材購入のために、金庫内の数千ドルを別にしておいたからだ。社員のほとんどは隣のニューョーカー・ホテルに無料で住んでいた。マンハッタン・セン夕ーの通常の収入源であるス夕ジオの予約と宴会場でのイベント予定が充分に入らないとき、孝進はCARP(大学連合原理研究会)のよぅな教会の組織に金を請求して、新しいビデオカメラ代や電気代を支払った。孝進への個人「献金」は新ス夕ジオビルと録音設備に資金を提供した。「真のお母様」を通じてマンハッタン・セン夕ーに流される教会の資金は、True Mother(真のお母様)の頭文字をとって、帳簿に「TM」と記載された。

マンハッタン・セン夕ーは孝進の道徳的崩壊に動力を供給するガソリンとなった。それはすぐ使える現金の出所となり、彼のコカイン吸引癖、増大しつつある武器庫、毎晩の酒飲みパーテイに資金を提供した。そのうえ、マンハッタン・セン夕ーはひとりで飲むのが大嫌いの孝進に、飲み友だちの安定した供給源を提供した。彼ら全員には、この「真の子女様」にかしずく以外に選択の余地はなかった。

統一教会員のほとんどは、なにかの集会のときに、舞台と自分たちの座席のあいだにある距離を越えて、「真の家庭」に近づくことはない。マンハッタン・センターのスタッフにとって、文孝進と直接仕事をする機会をもつことは、大きな誇りだった。しかしながら、彼らの多くにとって、それはまもなく霊的な葛藤の原因となった。孝進は側近たちに、クイーンズのコリアン・パーに同行を命じ、そこで「ホステス」たちとあからさまにふざけ回り、前後不覚になるまで酔っばらった。彼は人びとにコカインを吸うょう圧力をかけた。その人びとは、まさに孝進がおこなっている自己破壊行為を厳禁しているがゆえに、統一教会に引きつけられてきたのである。

彼のコカイン濫用がエスカレートするにつれて、ス夕ッフや家族に対する喧嘩腰の態度もエスカレートした。私に対する言葉にょる虐待は、卑猥な言葉に満ちた侮辱から肉体を傷つけてやるという脅しへとアップした。彼は私たちの寝室においてある銃ケースを開けて、強力なライフルの一丁をつかみ取り、尋ねたものだ。「これでおまえをどうしてやれるかわかってるな」彼は「真の御父母様」からの贈り物であるマシンガンを私たちのベッドの下に入れていた。マンハッタン・センターでは、彼の機嫌を損ねた者たちには、もし文孝進を裏切ったら、自分たちの身にあたえられるであろう暴力を、まるで目に見えるように描いて聞かされるのがいつものことになった。彼は熟練したハン夕ーであり、あるとき側近たちの集まりで、最近マンハッタン・セン夕ーを離れた社員の皮をどうやって剝ぎ、内臓を出してやりたいか、微にいり細にわたって話して聞かせた。

統一教会の外にいる人には、マンハッタン・セン夕ーで孝進の近くにいた人びとがしばられていた束縛を理解するのは難しい。一方では、彼らの指導者は、彼らの信仰に敵対する活動に没頭している。他方では、孝進はメシアの息子である。おそらく彼には、いまのような行動をするためのなにか特別な神の摂理があるのかもしれない。もし自分たちが従わず、孝進とともに禁じられている行動をしなければ、自分たちは自分たちのより劣った判断を、「真の子女様」の判断と置き換えていることになるのではないか?自分たちはメシアに正直であるべきなのか?それともメシアの息子に忠実であるべきなのか?自分たちは文孝進を暴くことによって、あるいは隠すことによって守るのか?

教会の権威主義的性格を考えればありえないことだが、もし彼らのうちのひとり、あるいはひとり以上の人間が、孝進の行動に疑問を抱くだけの独立心を持っていたとしても、彼らはそれをだれに話すことができただろうか?ただ「ィーストガーデン」に電話をかけて、文鮮明と話したいのですが、と言うことはできない。もし会員のひとりが文夫人と面会の約束をしようとしても、その情報はすぐに知れ渡ってしまう。自分の信頼している顧問のひとりが「真の御父母様」のところにいって、彼らの息子は大量飲酒者で麻薬中毒で女好きだと告げたことを知ったら、孝進は喜ばないだろう。

反対に、側近たちは次はどうなるかわからない孝進の性格をいやというほど経験していたので、彼の気を鎮めるためならなんでもした。彼は自分の下で働く人びとが自分の気に入らないことをすると、「おれはけちな悪党だからな」と言って、彼らを脅えさせた。これは、彼が自分を呼ぶときのお気に入りの表現のひとつだった。

そのことを私以上に思い知らされた者はいない。九四年九月、孝進は私を激しく殴った。私は、彼が私たちの寝室で、家族のひとりと午前三時にコカインを吸っているのを発見した。私は怒りを抑えられなかった。「これが家族にさせたい暮らしなの?」と私は尋ねた。「あなた、こんなふうな父親になりたいの?」私は言った。もうこんな生活は我慢できない。私はコカインをトイレに流そうとし、その途中でいくらかを浴室の床にこぼした。彼は私を床に押しつけ、私がとにかく回収できた白い粉をすくい取らせた。彼は私の顔をげんこつで殴り、私は鼻から血を流した。彼は手で私の血をふき取り、それをなめた。「いい味だ」と彼は笑った。「こいつはおもしろい」

そのとき、私は妊娠七力月だった。彼が私を殴っているあいだ、私は手でおなかを守った。「その赤ん坊を殺してやる」と孝進は叫び、私には彼が本気なのがわかった。

翌朝、子供たちは目に涙をため、黒くなった私の目には水を、打ちのめされた私の魂には抱擁をくれた。孝進が私に警告をあたえなかった、と言うわけにはいかない。いったい何度私に言っただろう。自分のなかには深い暴力の井戸がある、と。「おまえがおれをあまりにも遠くまで押すと、おれには自分が止められなくなる」いま私には、彼が大げさに言っていたのではないことがわかった。

孝進は自分のふるった暴力について、なんの後悔も感じていなかった。のちにマンハッタン・センターの側近たちに語ったところによれば、私に平手打ちを喰わせたのは、私が彼を「怒らせた」からであり、私は彼に、学校時代の教師を思い出させるのだそうだ。その教師は、いつも同級生の前で、彼に恥をかかせようとしたという。彼は言った。あいつは信心深くてロうるさくて、独善的な売女だ。

私に対する彼の軽蔑がどんなに強くても、それは自分の父親に対する彼の憎しみの足元にも及ばなかった。彼は文鮮明を嫌い、嫌うと同じだけ愛した。私やマンハッタン・セン夕ーの社員の前で、父親をばかにして、父親は耄碌した愚かな老人で、引っ込む時を知るべきだと言った。自分の子供たちのための時間を一度ももったことのない、無関心な父親だと告発した。子供のころ、アメリカ人同級生から「ムーニー」とあざけり笑われたことで、父親を非難した。統一教会の法定推定相続人という重荷を恨めしく思っていたが、父親の期待に応えられない自分にもっといらだっていた。マンハッタン・センターの警備主任はしばしば孝進のために武器を調達し、孝進はセン夕ーに銃を一丁しまっていた。ハィになると、孝進は銃を大きく振り回し、父親がもしマンハツタン・セン夕ー経営に口出ししようとしたら、銃で撃ってやると脅した。

孝進のワンマン経営は絶対だった。彼はマンハッタン・センターの金を、まるでそれが自分のものであるかのように使い、会社における彼の財政顧問、ロブ・シュワルツとの共同名義口座に自分の給料支払い小切手を入金させた。マンハッタン・セン夕ーは、彼の気まぐれのすべてを満足させるためにあった。一九八九年に、そして一九九二年にもう一度、彼は会社の金で「お父様」に新しいベンツを買うようシュワルツに指示した。また別のときには、文の親類縁者専用に長さ十八フィートの釣り船とトレーラーを購入した。アービントンの敷地内に保管された自動車やボートが、マンハッタン・セン夕ーの事業とどんな関係にあるのか、だれもが疑問に思うところだ。

孝進が自分の個人資金と教会のお金、そして会社の会計をごっちゃにする無頓着なやり方は、国税庁を当惑させたことだろう。一九九四年、彼は妹のひとりに三万ドルを渡すようロブ・シュワルツに命じた。この資金譲渡をどう隠すか、マンハッタン・セン夕ーで内輪の話し合いがおこなわれた。最終的には、マンハッタン・セン夕ーで開催されたミス夕ー・アンド・ミス・ユニバーシティ大会の収入が帳簿に記載されず、三万ドルは妹にあたえるよう、孝進に手渡された。その前年には、合衆国ツアー途中の統一教会日本人会員一行が、マンハッタン・センターを訪れた際、孝進に現金で四十万ドルの個人「献金」を渡した。彼は金の一部を別にとっておき、残りをマンハッタン・セン夕ーのお気に入りのプロジXクトに使った。彼はこの金銭譲渡を納税申告書には記載しなかったし、その金について一銭の税金も支払わなかった。

一九九四年二月、孝進は現金六十万ドル入りのブルーミングデール百貨店の紙袋をマンハッタン・センターに持ち込んだ。その日早く、私は寝室で彼がお金を数えるのを手伝った。彼は側近の顧問たちを自分のオフィスに集め、彼らが啞然として見ている前で、こんな大金を見たことがあるかと尋ねた。彼が告げなかったのは、「お父様」が実際にはマンハッタン・セン夕ーのプロジェクト資金として合計百万ドルをあたえたことだった。彼は四十万ドルを自分用にピンハネし、それを寝室のクローゼットの靴箱に隠した。十一月までには、その全額を、ほとんどはドラッグに使い果たした。

おそらく一九九四年十一月まで、文鮮明は孝進がマンハッタン・セン夕ーを自分専用の小口現金引き出しにし、ニューョー力ー・ホテル三十階の家族専用スィートルームを専用の阿片窟にしている、程度のことも知らなかったのだろぅ。文鮮明が知らなかったのは知りたくなかったからだ。文師夫妻は、孝進との親子関係の性格を、彼が少年時代に友人を空気銃で撃って退学になったときに決定した。このときも、そしてそれ以降すベての面倒な事件のときも、彼らは、息子に自分の行動の責任をとらせょぅとはしなかった。孝進は、悪いことをしてもなんの罰も受けないと信じて育ち、両親と教会の身分制度は、その間違った考えを正すためになにもしなかった。

たとえばその秋、孝進は定時制の学生として出席していたニューョーク州パリー夕ゥンの統一神学校(UTS)で「信仰生活」講座のゲスト・スピー力ーだった。別の学生が彼の指摘について一般的な質問をした。それは孝進の気に障り、彼はひとことも言わずに、その学生の席までいって彼を殴り始めた。学生はすわったままで、殴り返さなかった。

この事件のあと、孝進は学部長のジェニファー・夕ナベから二通の手紙を受け取った。一通は孝進と彼が襲いかかった相手であるジム・コービック両名に宛てた叱責の手紙で、もう一通は孝進への個人的なメモだった。このメモは、彼に公式の手紙は無視するよう勧めていた。「あなたにこのお手紙をさしあげるわたくしの意図は、あなたを非難することではなく、あなたをありうるかもしれないすべての非難から守るためであることをご理解ください。あなたを支持するために、わたくしは最善をつくします。これは神の御前でのわたくしの決意です」と彼女は書き、信じられないことに、彼女の教室のひとつで学生を殴った男に対する謝罪の言葉でこのメモを終えていた。「私は UTS があなたにこのような悪い思い出を残したことを申し訳なく思います。将来 UTS が、あなたに喜びと霊感とをもたらすことのできる場所とお考えいただけるようになることを願っております」

十一月までに、孝進は言い訳と擁護者を使い果たしかけていた。この月は私たちの五番目の子で次男となる信勳の誕生で幕を開けた。陣痛が始まったとき、孝進はパーに出かけていたので、私は助手席にべビーシッ夕ーを乗せ、自分で車を運転して病院にいった。私と新しい弟の見舞いに子供たちを連れてこられるよう、彼女に道を覚えてもらいたかった。出かける前、私は子供たちを寝かせつけた。私は彼らに出産のため病院にいくことを告げ、あしたは、私がどこにいるのかだれにも言わずに学校にいくよう言いつけた。文家の息の詰まる世界で、個人的な生活を望む私の気持ちは頂点に達していた。私はマサチューセッツにいる兄に電話をかけ、フXルブス病院にいくところだと知らせ、韓国の両親に電話をするよう頼んだ。

孝進が一緒でなくてもかまわなかった。これは私の赤ちゃん、私と子供たちの赤ちゃんだ。家族として、孝進は私たちとはなんの関係もない。パーのホステスと一緒のほうが好きだというなら、私の息子の誕生に立ち会わねばならない理由がどこにある?午前四時、私は帝王切開が必要だと告げられた。医者はどうしても夫に電話をかけるよう言った。彼は眠っていた。私が廊下の先の子供部屋のどれかにいるのだと思いこんでいた。彼は私にすぐきて、性的なサービスをしろと言った。私が手術室に運ばれるところだと聞いて、彼はびっくりした。

彼は疲れていていかれない、と言った。「ところで病院はどこだ?」と彼は聞いた。これは私たちの五番目の子供だった。それなのに、子供たちがみんなどこで生まれたのかも知らないのか?私はかっとなって答えなかった。孝進は怒鳴り始めた。私は受話器をおいた。けれども気を落ち着けたあと、もう一度電話した。「忘れろ」と彼は冷たく言った。「おれはいかない。おまえがおれのところに赤ん坊を連れてくればいい」

私は、涙の向こうに初めて「フーニー」(信動)を見た。ほとんど九ポンド近くあったこの大きな男の子を医師が私の子宮から取り出しているあいだ、看護婦が私の目をぬぐい続けていた。赤ちゃんの頭全体に真っ黒な髪の毛が生えていた。臍の緒が腕に巻き付いていたため、自然分娩が難しかったのだ。目は半分閉じていたが、産声は元気いっぱいだった。

孝進は二日間、赤ん坊を見にこなかった。彼の誇りと無関心がその足を遠ざけていた。私も孝進と同じように頑固だったが、息子を見にくるよう彼に電話をした。彼は私とはほんの数分いただけで、新生児室の窓越しに信勳を見た。息子を抱きたいと頼みもしなかった。その夜、べビーシッ夕ーが子供たちを連れてきた。子供たちの顔を見て、私は本当に幸せだった。彼らは全員、新しい弟との写真撮影のためにポーズをとり、私に早くおうちに帰ってきてとせがんだ。

手術のせいで、医者は私をもっと長く入院させておきたがったが、私は翌日家に帰った。文の屋敷内のだれにも帝王切開のことを知られたくなかった。文師夫妻が知らない情報をもつことは本当に異常なことだった。私は手術を自分の秘密にしておきたかった。孝進は子供たちとべビーシッ夕ーを連れてニ台の車で私たちを迎えにきた。チャィルドシートの取り付けに我慢できないくらい時間がかかったとき、彼は信吉と家に帰ってしまい、べビーシッターと帰るよう、私をおいていった。その夜、孝進はニューョークにいくと告げた。私たちの赤ちゃんを家に連れ帰ったまさにその日を選んで、夫が愛人を作つたということを、私はあとになるまで知らなかった。彼はオールド・ニューョー力ー・ホテルの私たちのスィートルームの私たちのベッドで、マンハッ夕ン・センターの社員アニーと寝たのである。

私がアニーを知ったのは、彼女が数年前にコロラドでの教会の武術大会で初めて孝進を見て以来、彼に書いてきた何十通もの手紙によってである。彼女の手紙はファン・レターそのものだった。孝進は、彼をメシアの息子とあがめる男女両方の教会の若者から、似たような手紙をよく受け取った。私はアニーが孝進にのぼせ上がっているのを一度も深刻には考えなかった。彼女自身はアメリカ人で、韓国人会員と結婚し、幼い息子がひとりいた。その年、彼女は教会の人事で駐在していた日本から自分たち夫婦を呼び戻してくれるよう孝進に訴え、そのあとニユーョークにきて、マンハッタン・センターで彼と働き始めた。

孝進は彼女のことをよく話したが、私は最初ふたりの関係の性格に疑いを抱かなかった。彼らのまわりにいるほかのだれの目にもしだいに明らかになってきたことを、たぶん私は見たくなかったのかもしれない。私には彼のコカイン中毒のほうが心配だった。彼はマンハッタン・セン夕ーにいかないときは、ずっと自分の部屋に閉じこもっていた。あとでわかったことだが、私ひとりが心配していたわけではなかった。

子供の誕生後二十一日目に、統一教会では、赤ちゃんの健康を神に感謝するためのお祈りをおこなう。私は非公式のお祈りを子供たちとおこなった。孝進は一晩中飲みにでかけていて、帰ってこなかった。彼の妹恩進が、その午後、赤ちゃんを見にきた。何年も親しくつきあっていなかったが、私は「イーストガーデン」にきた当初、彼女が見せた親切を一度も忘れなかった。

彼女は孝進のことが心配なのだと打ち明けた。彼はとてもやせた。食事もしない。彼のお酒とドラッグの問題は悪化していると思うか?「真の御父母様」は彼に中毒治療を受けさせるべきだと思うか?私は、彼の堕落しつつあるライフスタイルを見たままに話したが、彼が自発的に中毒問題に立ち向かうとは思わないと言った。

その翌日、彼は社員のためにマンハッタン・センターで感謝祭のパーテイを開いた。彼はワインを出した。彼の飲酒癖とコカイン使用を本当に知っていたのは側近だけだった。残りの社員は教会のお祝いにアルコールが出ているのを見て衝撃を受けた。文師はそのことを知ると、マンハッタン・セン夕ーの社員に、孝進抜きで、自分に会いにくるよう命じた。彼は統一教会の指導者は文鮮明である、と念を押した。社員たちは、孝進を危険な状況から引き離すことによって、彼を支えるべきだ。

私は孝進のアシスタント、マデレーン・プレトリゥスに電話をして、この会合の成り行きを尋ねた。私たちはおたがいをよく知らなかった。学校のお芝居に出る子供たちを彼女がビデオ撮影にきたとき、一度会っただけだった。彼女は私に「お父様」の言葉を伝え、社員たちが文師や私に真実のすべてを語ったわけではないことを認めた。文師は彼らに、孝進と一緒にたばこを吸ったり、酒を飲んだりするかと尋ねたが、それを認める者はひとりもいなかった。しかし彼女は言った。実は、いつも彼と一緒に、パーやオールド・ニューョー力ー・ホテルのスィートで、たばこを吸ったり、酒を飲んだりしているんです。

私はぞっとした。彼が自身に対しておこなっていることは、それだけで充分に悪いことだ。けれども教会員を自分と一緒に下水に引き込むのは許しがたかった。彼がそのために私たちのアパー卜を使っていることに腹が立った。これが私たちの結婚の終わりの始まりだった。もっともそのとき、私はそれを知りはしなかったが。私のなかのなにかが、ぽっきりと折れようとしていた。私はこの悪しき男と惨めな生活をすることが、私の運命、神からあたえられた私の使命なのだと受け入れてきた。けれども、そのときはまだ自分が信じていた教会の会員たちが、孝進の権力濫用のために罪へと引き込まれざるをえないことは承諾しがたかった。

私はマンハッタン・セン夕ーにいる彼に電話をかけた。面と向かうよりも電話のほうがずっと大胆になれる。面と向かえば殴られるかもしれない。私は電話で、あなたを獣だと思う。子供たちと私はあなたに家に帰ってきてほしくないと言った。

それは私としては先見の明のない対応だった。なぜならば、もちろん、彼は家に帰ってきたし、家に着いたら私を探したからだ。私は怒りのあまり、すでに彼のクローゼットを片づけ、バッグを詰め、ポルノ・ビデオを切り刻み、それをすべて廊下の奥の倉庫に入れていた。私はドアがばたんと閉まるのを聞いた。彼は階段を駆け上がってくると、私の襟首をつかみ、自分の部屋へと引きずっていった。彼は私を乱暴に椅子に押し倒し、私が立とうとするたびに、ふたたび突き倒した。「マンハッタン・セン夕ーの連中の前で、よくもおれに恥をかかせようとしたな」と彼は叫んだ。「おれに命令するなんて、貴様、自分を何様だと思ってるんだ」彼は私にのしかかり、絶え間なく平手打ちを喰わせ、突いた。逃げ道はなかった。

私が助かったのは、ただ彼が保護観察官との約束に遅れていたからだ。彼はまだ飲酒運転で保護観察中だった。彼は電話をかけて、家族に急用ができたと言い立て、約束をキャンセルしようとしたが、保護観察官はどうしてもくるようにいった。彼はこれまでにあまりにも何度も約束をすっぽかしていた。「帰ってきたら、家族会議を開くからな」と彼は言った。「おまえは子供たちに、お父さんを批判して悪かった。お父さんは自由にたばこを吸ったり、ビールを飲んだりしていい、おまえは悪い母親だと言うんだ。わかったな」私はわかったと言った。彼を出ていかせるためなら、なんだって言っただろう。

彼が出ていくとすぐに、文夫人のメィドが電話をしてきた。「お父様がいますぐあなたと会いたがっています」と彼女は言った。私は、夫が正しい道を見つけるのを手伝うのに失敗したことで、またぞろお説教をされるのだろうと思った。もうたくさんだ。こちらが先手を打つ時がきていた。どういうわけか、虐待がひどくなっていることが私を大胆にした。これ以上、殴られはしないと、意識的に決心したわけではない。しかし、その夜、文師夫妻の書斎で、私は初めて自分自身のために立ち上がった。

私が彼らのスィー卜ルームに入っていくと、文夫人が私に「お父様からあなたにお話があります」と言った。私は尋ねた。「おふたりとお話しできますか?申しあげなければならないことがあります」

私がたったいま起こった場面を話しているあいだ、文師夫妻は黙って聞いていた。「悪影響を受けているのは私やマンハッタン・センターの人たちだけではありません」と私は言った。「孝進は私が子供たちに、彼がアルコールやドラッグをやることには問題はないと言うよう望んでいます」「お父様」から反応を引き出すのにはこれで充分だった。「だめだ。だめだ」と彼は言った。「おまえは子供たちに、正しいことと悪いことを教えなければならない」私は時計を見続けていた。私は「真の御父母様」に言った。孝進が保護観察官との面会から帰ってくる前に、もどっている必要があります。

文師は数分間黙っていた。「おまえをマンハッタン・セン夕ーにやって、彼を監視させよう。おまえは彼の影になるのだ。おまえに責任をもってもらいたい。おまえは彼が絶対に金をドラッグや酒に使わないようにできる」

私はびっくりした。だが、私をマンハッタン・セン夕ーにおける文鮮明の目や耳とするのは、彼が私の能力を信じているからというより、私の忠誠を確信しているからだとわかっていた。マンハッタン・センターの社員は孝進に忠誠を誓っている。私は「真のお父様」に従う。短期的には彼は正しかった。しかし長期的に言えば、やがて明らかになるように、私は、自分の忠誠心が最終的には神と子供たちと自分自身に対するものであると思い知る。

家に帰ったとき、孝進はまだもどっていなかった。私は長女を自分の部屋に呼んだ。「お父さんは家族会議を開きたがっています」と私は彼女に言った。「お母さんは、自分が信じていないことを言わなければなりません。そうしないとお父さんがとても怒るからです」彼女は、私が彼の要求どおりに言おうと考えていることにあきれ果てた。「お母さんは悪いお母さんじゃない。いいお母さんよ。お母さんはお父さんがしているのがいいことじゃないと知っているのに、それをしてもいいことだとは言ってはいけないわ」私が真実を曲げてもかまわないと思っていることに、彼女が落胆しているのがわかった。自分の十二歳の娘を前にして、私は恥ずかしく思った。幼い年齢ながら、その正義感はすでに立派に磨き上げられていた。

私は自分勝手だった。これ以上の暴力、これ以上の怒鳴り声を避けたかった。彼が帰ってきて、子供たちにお母さんはお父さんに不公平だったと言うよう命じたとき、私はそのとおりにした。娘の目に涙があふれた。だが悲しかったのではない。彼女は怒っていた。「それは噓よ」と彼女は父親に向かって叫んだ。「お母さんはいい人よ。お母さんはいつも私たちと一緒。お父さんはここにいたことがない。お父さんになにがわかるの?」孝進は怒りの鉢先を彼女に向け、反抗的な子供を育てていると言って、アメリカの学校を非難した。

幼い娘の勇気を目の当たりにして、私は自分を臆病者のように感じた。気を落ち着けたとき、孝進は娘に告げた。自分が家庭から離れて時間を過ごさなければならないのは、教会のための自分の使命を追求しているからだ。私はその皮肉を思わないわけにはいかなかった。この言い訳は彼自身の父親のロから出るとき、彼があれほどさげすんだ言い訳であったからだ。

怒って抗讓はしたものの、驚いたことに孝進は、マンハッタン・センターでの私の新しい役割を受け入れた。彼は「お父様」が私をそこにおいた理由を疑わなかった。私に対してわずかな敬意ももっていなかったので、おそらく私がいても自分にはなんの脅威にもならないと考えたのだろう。彼はすぐにそれが間違っていたことを知る。私は最初に出した指示のひとつで、孝進の側近と文鮮明との会合を「ィーストガーデン」で設定した。文師は彼らに、孝進と一緒にドラッグをやったり、酒を飲んだりしてはいけない、とこれ以上ないくらいはっきりと告げた。彼らの忠誠は「お父様」に捧げられるべきであり、マンハッタン・セン夕ーでは孝進ではなく、私の指示に従わねばならない。

孝進に対してどんなに怒っていたとしても、私にはまだ、彼を飲酒とドラッグ濫用に走らせたのは、私に妻としての理解と支持が欠けていたからだという非難に耳を貸すだけの余裕はあった。

なんらかの形で私に責任があるのであれば、私たちのためではなくてもせめて神のために、私はもう一度、ものごとをきちんとするよう全身全霊で努力してみなければならない。私は十二月、自由時間のほとんどを孝進と一緒に過ごした。彼と一緒にどこへでもいった。彼がコカィンを吸っているときは、一緒に家にいた。

ドラッグは彼を饒舌にし、私は何時間も、神とサタンと文鮮明についての彼の意識の流れが言葉にされるのを聞いた。聞けば聞くほど、私は孝進には善悪の本当の感覚がないのだと確信するようになった。彼が哀れな言い訳をひねり出し、その道徳観を自分の状況に都合よく合わせていくのを聞くのは悲しいことだった。

ドラッグによって引き出された彼の独り言は、彼自身を必ず、両親の怠慢、妻の厳しい評価、教会の非現実的な期待の犠牲者として描き出していた。これまでにしてきた誤った選択、そしていまもとり続けている誤った選択について、夫にもなんらかの責任をとれるというかすかな兆候を期待して、私は耳を傾けた。

だが、そのようなものはまったく聞かれなかった。文孝進の問題はすべて、他人の過ちだった。彼がこのような態度をとり続けているかぎり、どうして本当に神に仕えることができるだろう?本当に子供たちのよき父親になれるだろう?

マンハッタン・セン夕ーで、私は会社の金銭状況、心霊状況をきちんと秩序立てる仕事に取りかかった。私は孝進のアシスタント、マデレーン・プレトリウスに指示を出した。今後は孝進に一度に数百ドルの「小口現金」支払いをしないこと、わずかの仕事で高給を得ていた社員は配置換えすること、すべての重要な決定には私の同意を得なければならないこと。

私には、マンハッタン・セン夕ーでやるべき仕事がもうひとつあった。私は孝進とアニーが愛人関係にあるかどうか知ろうと決めていた。マデレーンはそう疑っていた。私の義弟朴珍成でさえ、ふたりのあいだにはなにかあるとほのめかした。私は何度も孝進に直接尋ね、予想どおりの否定的回答を得たが、それを信じはしなかった。私がマンハッタン・センターで働き始めたあと、彼はふたりの曖昧な関係のことで、私をなぶった。彼はからかうように尋ねた。「なんでアニーのことを心配してるんだ?」

十二月の終わり、私は彼が告白するまで問いつめることに決めた。真実が顔を出すまでには、何時間もそっとなだめたりすかしたりしなければならなかった。最初彼は「いや、おれは彼女に触ってもいない」と言い続けた。「そう、もしかしたらキスしたかもしれない」と彼は譲歩した。「ォーラル・セックスはやったかも」彼が不貞を認めていけばいくほど、彼の説明はこじつけに近くなってきた。「挿入した。だけど射精はしなかったから、こいつは数に入らない」と彼は言い、そのあとょうやく「射精はした。けど彼女はピルを飲んでたから問題にはならない」と告白した。私は思った。この男は、自分がどんなにみじめに聞こえるのかすらわかっていないのではないか。

彼が家族に対する裏切りを語っているあいだ、私はとても落ち着いていた。心のなかではずっとわかっていた。彼の告白はただの確認にすぎなかった。彼は泣き始め、私の許しを乞うた。私は許そうとしてみるけれど、彼が自分の罪を償うまでは一緒に寝ないと言った。「なぜアニーなの?」と私は衝動的に聞いた。「それほどきれいじゃないのに」それはまるでガソリンにマッチの火を近づけたょうなものだった。彼は怒りを爆発させた。「彼女は美人だ!」彼は叫んだ。「彼女だけじゃない。教会中の女がおれをほしがってる。おれは目に入った一番いい女とやるんだ。おまえに見せてやる」

私は呆然とした。これがメシアの息子と主張している男、数年前、教会の礼拝で立ち上がり、「祝福」の神聖さについて説教した男なのだ。「もしあなたたちが放縦で、堕落した世界の肉欲におぼれたら、あなたたちはどうやってメシアと結びつくことができるだろう?あなたたちにはできない。だからこそ犠牲の概念が広められ、支持されるのである」と彼はベルべディアの日曜朝の集会で語ったのだ。

「もしお父様があなたたちにこの部屋から出ていき、酒場へいけ、酔っばらえ、娼婦たちの歩く通りにいって、彼女たちのあいだに留まれと言ったら、あなたたちはそこで出会うと予測していた誘惑、予測もしていなかった誘惑にうち勝てるほど強いか、それほどお父様を愛しているか?あなたたちは、あなたたちの純潔と完全性を守れるか?本当にそうできるか?人びとを変えるためにそのような環境に暮らすことは、そこで暮らすための立派な理由だ。だが、女に触れる誘惑、美しい女たちを見つめる誘惑、賢明な決定を下すあなたたちの能力がしだいに弱まっていく場所で酔っばらう誘惑にうち勝つのに充分なほど、あなたたちはお父様をよく知っているか?その状況下で、あなたたちはお父様を死守することができるか?あなたたちはどんな状況であっても、お父様を捨て去らずにいられるほど充分に強いだろうか?」

いま私は知った。文孝進がこれらの問いを投げかけた相手は会員ではなく、自分だったこと、そして答えは、悲しいかな、「いいえ」であることを。孝進はその人生を規定したパ夕ーンを追い続け、統一教会最悪の罪である不貞の責任をとることを拒否した。彼は私に教会が禁じる性的行為は自分には適用されないと言い、あとから知ったところでは、アニーや自分の側近にもそう言っていた。「お父様」は不義を働いた。自分もメシアの息子として、そうしてよい。彼の性関係は「摂理」、つまり神より定められたものなのだ。

のちにアニーは私にこう手紙を書いてきた。「『おれには、自分になにが許されているかわかっている』という孝進を私は信じました。私も彼とともに堕落しつつあること、彼はそれを私にほのめかしさえもしませんでした。私はマデレーンから、お父様がお母様以外の女性と関係をもち、息子がひとり生まれたという話を聞きました。このことはあとで孝進と珍成様からも本当だと言われました。それが本当か、そしてどんな意味をもつのか、私たちは話し合いました。お父様の純潔や方針に疑問をもったことはありませんでした。でも私が、真の家庭の内部には、神の摂理で動くことが多くあり、私はそれを理解も判断もできないと感じ始めたのは確かです」

私は孝進の主張を直接「お母様」にぶつけた。彼女は怒り、同時に涙を流した。彼女は私に言った。このような苦しみは自分で終わりになるように、それが次の世代には伝わらないようにと願っていた。彼女は請け合った。「真のお母様」ほどに、夫に浮気される苦しみを知っている者はいない。私はびっくりした。私たちは何年ものあいだ、文鮮明の情事と、彼が婚姻外に作った子供たちの噂を聞いてはいた。しかし、ここで「真のお母様」が、噂が真実であることを確認しているのだ。

私は彼女に、孝進が自分がだれとでも寝ることは「摂理」である、「お父様」の浮気と同様、神から霊感をあたえられたものだと言っていると告げた。「いいえ、お父様はメシアです。孝進は違います。お父様がなさったことは神のご計画でした」文鮮明の不貞は、彼女が「真のお母様」となるために受けねばならない苦しみの道程の一部だった。「孝進には浮気をする言い訳はありません」と彼女は言った。

文夫人は孝進の主張を「お父様」に話し、文師は私を自室に呼びつけた。「お父様」はくり返した。自分の過去に起こった出来事は「摂理」である。それは孝進とはなんの関係もない。文師からこのことを直接聞かされて私は当惑した。混乱もしていた。もし韓鶴子が「真のお母様」なら、もし文鮮明が地上における完璧なパートナーを見つけたのであれば、彼の不貞は神学的にはどう正当化されうるのだろうか?

もちろん私は尋ねはしなかった。しかし、文師夫妻の関係について新たな認識を得て、その部星を出た。文夫人がこれほど絶大な影響力をふるうのも不思議はない。彼女は文鮮明の不貞を暴露しなかったので、彼はこれまでの歳月ずっと、そのことで夫人に借りがあった。彼女は文鮮明の不貞と裏切りに対して休戦協定を結んだ。お金、世界旅行、人びとからの崇拝で、おそらく彼女には充分な代償となったのだろう。

私にはそれでは充分ではなかった。このとき一度、孝進はすべての行動には反動があり、悪いおこないをするたびに、その結果に直面しなければならないと知ることになる。私は文師夫妻からアニーを追い出す許可を得た。しかし、最初に、彼女に真実を語る機会をあたえた。私はァニーに、私や彼女の夫、そして神に対する彼女のおこないを認めさせたかった。彼女は「真の御父母様」の名において誓った。自分と孝進はなにも悪いことはしていない。

マンハッタン・センターから追放されたあと、彼女はメーン州の両親の家から私に手紙を書いてきた。彼女の夫は息子を連れて日本にもどってしまった。彼は離婚を望んでいる。「いま、私はあなたの痛み、苦悩、涙を味わうことができます……」と彼女は突然罪を深く悔い、私の許しを乞うてきた。彼女はそのあとも何度か手紙を寄こし、私の夫との性生活を、必要以上に詳しく描き、自分の行動に対する責任を受け入れると主張した。

統一教会の暦には「御公現の祝日」(東方の三博士がィエスの誕生を知らせにべッレヘム来訪したのを祝ぅキリスト教の祝日)はない。しかし私自身の御公現の祝日は一九九五年一月のある日に訪れた。私の解放の種は、その前の秋、孝進の浮気騒ぎと教会員の面前でドラッグ使用を誇示したときに蒔かれていた。寒い一月半ばの一日、私はそれまで本でしか知らなかったあの啓示の瞬間を体験した。孝進はその夜、パーに出かけるために服を着ているところだった。この数力月間の出来事も彼の習慣を少しも変えていなかった。私は寝室の椅子から、彼が大きな鏡に全身を映しているのを見ていた。彼はいつもとてもうぬぼれが強かった。けれども彼がシャツをズボンのなかにたくし入れ、髪をとかしつけているのを見ていたとき、私は結婚生活で初めて体験する無関心を感じた。嫌悪感さえ消えていた。

天からの声も目の眩むような光もなかった。私にはただわかった。神は私がこれ以上ここに留まることをお望みになってはいない。夫は決して変わらないだろう。神ご自身が文孝進を見捨てられた。私は自由に出ていってよいのだ。私は幸福感に圧倒された。孝進に対しては哀れみを感じるだけだった。彼は迷える魂であり、正義と悪の概念をもたず、神を本当に理解もしていなかった。

虐待されてきた女にとって、決心から行動までのあいだには長い道のりがあり、私たちの多くはその道をひとりで歩くことはできない。私にとって、ひとりで歩かずにすんだのは幸運だった。マデレーン・プレトリゥスはほとんど私を知らなかった。彼女は孝進の下で三年間働いていた。彼女は思いがけない味方だった。その冬、彼女は昼間はオフィスで孝進が私のことをこぼすのを聞いて過ごし、夜は私が電話で彼のことをこぼすのを聞いて過ごした。彼女はメシアの神聖な息子に対する忠誠心と、私たちふたりが知る、とても人間くさい、口汚い現実の男の認識のあいだで引き裂かれていた。孝進はバーで彼女の頭に灰皿を投げつけたのではなかったか?彼が彼女に向けて放った瓶が、彼女の椅子の上の壁にあたって割れたとき、彼女はびしょぬれになったのではないか?

マデレーンは家族以外の人間で、私が自分の感情を語ることのできた最初の人だった。家族に対してさえ、私は自分の生活を明らかにするより隠してきた。自分の子供たちや私自身が耐えている虐待のひどさを家族に知らせて、彼らを傷つけたくはなかった。マデレーンは私が一度も知ることのなかった忍耐と関心とをもって、耳を傾けてくれた。私は本当の友だちを一度ももったことがなかった。この最初の数力月、私が彼女の友だちだったと言ぅことはできない。けれども、彼女は私の友だちだった。私が「真の家庭」の非公式の一員として行動するのをやめ、彼女が統一教会の隸属的な会員として振る舞ぅのをやめるまでには長い時間がかかった。しかし、最初のころでも、私は、平等の者同士のあいだの、裏表のない関係がどんなものであるのかを、ちらっとかいま見ることはできた。

そのころ、マデレーン自身も、個人的な危機を経験していた。彼女は教会を通じてあるオーストラリア人とマッチングされ、結婚していた。彼女は彼が好きだったが、彼が帰郷を決めたとき、一緒にいきたくはなかった。彼女は心を決めるために格闘していた。離婚は人間の創造であり、「祝福」は永遠だ。統一教会員は、人は死後でさえ、天国で結婚したままだと信じている。孝進が離婚を勘めたことは、マテレーンにマンハッタン・セン夕ーで仕事を続けさせることによる彼自身の利益が、彼の信仰の中心的教義に対する献身よりも強いことを明らかにしていた。

私は、彼女が試練を乗り越えるのに手を貸した、と言えればいいと思う。けれども私は自分自身の問題にがんじがらめになり、友情の経験はあまりにも乏しかったので、友情がもつ相互的な性格を本当には理解していなかった。私がお返しに彼女を助けてあげられる期待はまったくないのに、マデレーンが喜んで助けてくれたことは、彼女の親切心がいかに大きかったかを示している。マデレーンは自分の生活のことでいくつかの決定をするために、一力月間、南アフリカの家に帰っていた。もどってきたとき、彼女は私に離婚の準備中だと告げ、私は彼女に孝進のもとを去るところだと告げた。

私にはわかっていた。一度出ていくと決心したら、あとはただ時間の問題だ。けれども私は、自分がその言葉をロに出して言うのを聞いて驚いた。マデレーンと私は、孝進に見られないように、「ィーストガーデン」の邸宅地下の洗濯室で話していた。彼はあまりにも所有欲が強く、支配的で、私が「真の家庭」外のだれかと仲良くなりそうだと思ったときはいつも、怒りを爆発させた。

話しながら、私は泣き始めた。私は、それが彼女には難しいことだとわかってはいたが、出ていったあとも連絡をとっていたい、と言った。マデレーンは私の決心を悲しんだが、驚いてはいなかった。彼女は言った。少なくとも自分はそれを孝進に伝え、彼を揺すぶって、彼がなにを失おうとしているのかをわからせたいと思っている。でも、そうはしないだろう。なぜならば、自分がそうしても、彼がまたあなたを殴るか、いま一度、心を入れ替えるという偽りの約束をすることになるだけだからだ。私たちはふたりとも、私の結婚は救いがたいことを知っていた。神が孝進の心を変える、あるいは文鮮明が自分自身の家庭内で、いくらかの道徳的指導力を発揮すると信じるょうにと、私はこれまで何度もだまされてきた。期待はいつも裏切られた。私は終着にいた。

その春、孝進の行動はひどくなるばかりだった。「お父様」は彼が中毒から立ち直るまで二年間、マンハッタン・セン夕ーにもどることを禁止した。孝進はマンハッタン・セン夕ーに電話をし、セン夕ーにいって、ス夕ジ才の機材を粉々にしてやると脅した。もちろん彼は相変わらず給料をもらっていた。会社は社員になんの疾病保険もかけていなかったにもかかわらず、文師夫妻はそれを「疾病手当」と呼んだ。その間、孝進はアルコールと麻薬の中毒を処置するために、なんの行動も取らなかった。彼はリハビリ・プログラムも受けず、セラピストにもかからなかった。違いがあるとすれば、さらに多くの時間を自室にこもって過ごし、コカィンを吸って酒を飲んだことだ。彼は長男の信吉に冷蔵庫からビールをもってこさせ、自室に鍵をかけて閉じこもった。子供たちのためにも、これ以上、この環境に留まっていられないことはわかっていた。

これ以上耐えきれなくなったのは「真の御父母様」が私にこう告げたときだった。自分たちは、孝進にはマンハッタン・セン夕ー復職の準備ができたと考えている。彼は「ィーストガーデン」で退屈しており、創造的な仕事を必要としている。孝進は私に言った。マンハッタン・セン夕ーにもどって最初に実行する計画は、クィーンズのクラブで客を接待しているコリアン・クラブのホステスを世界的な人気歌手にすることだ。私にはわかっていた。文師夫妻はひどい間違いを犯そうとしている、孝進の状態はこれまで以上に悪く、マンハッタン・セン夕ー復職は、彼が酒を飲み、コカィンを吸う機会を増やすだけだ。コリアン・パーのホステスに対する彼の本当の意図については、私なりの疑いもあった。文師夫妻が私の言うことを聞かないのはわかっていた。

四月、夫妻は心配した教会会員たちの意見を聞かねばならなかった。彼らは孝進の復職に抗議する手紙を書いてきた。

最愛なる真の御父母様

マンハッタン・センター全社員の名において、われわれ指導者と各部部長は、孝進様を支え、守り、彼がその歴史的責任を全うされるのを助ける環境を作るにあたっての、われわれの無力を悔やみ、謹んでおふたりに申しあげます。

われわれはこの危急存亡のときに、真の御父母様へのわれわれの支持と忠誠を表明し、次の重要な点をお伝えいたしたいと望みます。

1 われわれの一番の望みは、マンハッタン・センターが、神と真の御父母様、そして世界の統一運動によって完全に求められ、使用されうる場所であることを確実にすることです。

2 そのために、われわれは真の御父母様の伝統を支持し、マンハッタン・セン夕ーにおける使命に參加している全員の生活を導く力として、その規範を維持し具体化することを絶対的に誓約します。われわれはまた、マンハッタン・セン夕ーを真の御父母様のより偉大な視野と結びつけることによってのみ、われわれの努力がなんらかの価値をもつことを認識します。

3 この基本に立って、われわれは孝進様へのわれわれの愛の心と、彼がその立場と責任を全うすることを支え、お助けしたいという希望を表明いたしたいと思います。

4 したがって、この心に基づいて、われわれはマンハッタン・セン夕ーが、孝進様がご自分の問題を悪化させるために使いうる場所となることを絶対に望みません。われわれは彼がマンハッタン・セン夕ーを、彼自身と会員の霊的生活、増大しつつある事業、そして教会の評判と土台により大きな害を及ぼしうるような、いかなる形でも使う危険に彼を陥らせることがないように完全に確信したいと望みます。

5 ですからわれわれは、われわれの真の御父母様が、孝進様についてとられるあらゆる決定を支持したいと望みます。しかし、マンハッタン・セン夕ーの指導者として、われわれは孝進様が、ドラッグとアルコールの問題を完全に克服し、マンハッタン・セン夕ーと運動における神の規範を本当に守れるまで、ここにおける責任ある地位に復職されることのないよう、護んでお願いいたします。

6 真の御父母様、われわれはこのことがあなたがたに明らかにする重荷を悲しみながら、このことをお願いいたします。けれども、われわれはこのような処置が孝進様のご健康と、真の御父母様の全世界的規模の教会の継続的確立に絶対的必要であるとの確信のなかで、ひとつに団結しております。

7 われわれはまた、マンハッタン・セン夕ーと真の御父母様のあいだの絶対的な絆として、蘭淑様の御心と真のリーダーシップとに、心からの感謝を表明したいと望みます。彼女はマンハッタン・セン夕ーに神の御心と真の御父母様の規範をもたらすために、疲れを知らずに働いておられます。

手紙は孝進を怒らせ、それはつまり私にはトラブルを意味した。孝進は地位を失ったことで、私を非難した。彼は私を自分の部屋まで引きずっていった。彼は私の口紅をとって、私の顔中に「ばか」という言葉を殴り書きした。別のときにはビタミン剤の瓶を私に投げつけ、それは私の頭に命中した。出産後、私がどんなに風邪を引きやすいかを知りながら、一度私をベッドの足元に裸で立たせ、そのあいだじゅう、私をばかにした。私は彼にもう殴らないでくれと頼んだ。彼は私に選択肢をくれた。殴られるか、唾を吐きかけられるか。彼は、私を殴ることを楽しむ以上に、唾を吐きかけることで私にあたえる屈辱を楽しんだと思う。

文師夫妻は、孝進と私は屋敷の外で暮らすことで結婚を救えるのではないかと提案した。孝進はそれに応えて、「ィーストガーデン」の外で私に適当な仕事は娼婦だけだと指摘した。私は思い知った。この男とは、どこでも、どんな状況下でも一緒には暮らせない。六月、私はひそかに荷造りを始めた。

兄が電話をしてきて、マサチューセッツの自宅の向かいに、家が一軒売りに出ていると知らせてきた。もし私が真剣に逃げることを考えているのなら、私はひとりにならずにすむ。近くに家族がいる。私は、子供たちの大学の費用として貯蓄しておいた投資信託や、マンハッタン・センター時代に貯めることのできたお金を現金化した。

兄夫婦はすでに、私がいまいこぅとしているところにいた。二年前、兄嫁は統一教会と彼女の両親と最終的に縁を切っていた。彼女は「ィーストガーデン」にきて、家族に関する不満を訴えて両親と対決し、母親とやりあったあと、屋敷を出て、二度と帰ってこなかった。統一教会は、兄嫁が「真の家庭」と別れて暮らしているのは、夫がハーバード大学での勉強を終えるためだと言っている。これは半分は真実である。兄は勉強を続けているが、兄嫁はもはや自分の両親とは言葉をかわさないし、彼らからなんの金銭的援助も受けていない。

私の両親も統一教会を去っていた。私自身の家族のなかでもっとも身近な人びとが、いまや危険な道の外にいることが、私に出ていくのをたやすくした。私の裏切りにょって、文一家から罰せられる洪家の人間はだれもあとには残されない。

法的にどこから手をつけるべきか、私にはわからなかった。最初に思いついたのは、電話帳で「弁護士」欄を探すことだった。ここでも兄が私を助け、ニューョークの法律家のほぅへと目を向けさせてくれた。そこで私は最終的にマンハッタンの会社顧問弁護士ハーバート・ローズデールと出会った。彼の仕事のなかには、目を覚ましたカルト信者やその家族への手助けがあった。ローズデールは六十三歳になる大柄の、はげかかった熊のような男で、アメリカン・ファミリーファンデーション(AFF)の会長だった。この団体は、過激な宗教団体の危険性について大衆を教育しようとしている弁護士や会社重役、専門職の集まりである。私には、だれか統一教会に威嚇されることのない人が自分のそばに必要なのはわかっていた。

夏のあいだじゅう、私は逃亡方法について、兄とマデレーンと話し合った。私はもし計画をあからさまにしたら、孝進が私たちを止めるのではと恐れた。彼は何度も私を殺すと脅していた。そして寝室にはまさに本物の武器庫があるのだから、私は彼にはそれができることを知っていた。私たちの安全が心配だった。ある晚、邸宅のキッチンでマデレーンと私がお茶を飲んでいるのを孝進が見つけたとき、私の恐れが正しかったことが確認された。彼は腹立たしそうに彼女に出ていけと言い、私には二階にいけと命じた。二階で、彼は、もしマデレーンとつきあい続けたら、おまえの指を一本一本へし折ってやると言った。翌日、私は警察にいき、彼の脅迫を届け出た。

両親は私の計画をよく支持してくれた。私たちは人生を、芯まで腐りきった大義に捧げてきた。私にはわかっていた。もしいま出ていかなければ、ふたたびこの選択ができるほど長くは生きられないかもしれない。私はもうこれ以上、殴られ、脅され、閉じこめられはしない。

両親は、私がどれほどの肉体的な危険のなかにおかれているか気づいてはいなかったが、もうひとり別の娘を教会の犠牲にしたくはなかった。私の妹忠淑は文師の手で気にそわぬ男とマッチングされていた。それはある「祝福家庭」の息子で、私の両親はその夫婦を尊敬していなかった。文師は両親のなかに認めた不忠に対して、彼らを罰するために、意図的にこのマッチングをしたのだった。

忠淑はいい娘だった。彼女は私のもつ頑固さや反抗心を少しも見せなかった。チェリストでソゥル大学の優秀な学生だった。母は忠淑の運命に心を痛めた。母は、従順に結婚衣装と新郎の家族への贈り物を買ったが、心は重かった。もうひとりの娘が孤独でつらい道へと歩き出そうとしている。母にはそうさせることはできなかった。宗教儀式のあと、忠淑とその婚約者が法的に結婚する前に、両親は彼女をアメリヵに留学させた。彼女もまたマサチューセッッで私の到着を待っていた。彼女は韓国へも、文師が彼女のために選んだ夫のもとへも帰らないだろう。

残されたのはただひとつ、子供たちに一緒にくるかどうかを尋ねることだけだった。心のなかではわかっていた。彼らが「いや」といえば、出ていくことはできないだろう。文一族と過ごしたつらい歳月のあいだずっと、子供たちの愛が私を強くしてくれていた。その子供たちをどうして私に放棄できるだろう?彼らと二度と会わない危険を冒すことなど、どうして私にできるだろう?彼らを文師の屋敷内の生活に運命づけることが、どうして私にできるだろう?私は自分の計画を子供たちに告げ、息を止めた。子供たちは興奮した仔犬のような喜びの声をあげた。子供たちは涙ながらに言った。「ママ、わたしたちはただママと小さなおうちに住みたいのよ」

友人や大好きないとこたちにさよならを言えないことを意味していたにもかかわらず、子供のだれひとり、家族の内でも外でも、私たちの計画を漏らさなかった。彼らはなにが賭けられているかを知っていた。彼らは父親の寝室の銃を目にしていた。彼らは、彼が私を殴るときの脅し文句を耳にしていた。

私は出発の日を選んだ。だが、私の選択を導いてくださったのは神だった。「真の御父母様」は国外にいたし、仁進とその家族は「ィーストガーデン」を離れていた。べビーシッ夕ーは私の荷造りのことをひそひそ話し、警備員は私が家具を「ィーストガーデン」から運び出すのを見ていた。けれども、だれも文師夫妻やその重要な側近たちに警告はしなかった。私は脅えていたが、神が私と子供たちのために、「ィーストガーデン」から出る道を掃き清め、私たちを守ってくださつていることはわかつていた。

予定された逃亡の前夜、兄が近くのモーテルから電話をしてきて、翌日の朝早く、約束の場所で待っていると告げた。彼は言った。これからはすべて君しだいだ。私はつけ加えた。そして、神様しだいね。


▲ 文鮮明の子供のひとりの誕生祝供に集まる文一族。これは典型的な誕生祝いで、私たちの前の供物台には果物が高く積まれていろ。私は後列右から二番目、孝進は同じ列の左端にいる


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第10章  新しい人生への旅立ち

私の子供たちは、自分たちが望むのは「自分の」と呼べる小さな家だけだと強調した。彼らはそれを手に入れた。私たちは、マサチューセッツ州レキシントンの地味な地区にある段違いの土地に建つ家に引っ越した。レキシントンはアメリカ独立革命発祥の地だ。それは私の新しい人生を始めるにはぴったりの場所に思えた。革命戦争当時の民兵の彫像が縁の町を見下ろしている。私もまた彼のように、圧制者からの独立を宣言した。

しかしながら、安全なしでは自由は存在しない。弁護士の勧めで、マサチューセッツ到着後、私が最初にしたのは、孝進が私といかなる接触をすることも禁じるための保護命令を裁判所に申請することだった。私には、彼が目覚めて、私たちがいないことに気づいたときの激しい怒りが想像できた。彼に私たちを見つけようとする気をなくさせるために、自分のできることはしておきたかった。

マサチューセッッ検認裁判所に提出した宣誓供述書で、私はこれが典型的な家庭内暴力事件ではないことを説明しようとした。私は自分の夫だけでなく、彼を守っている強力なカルトも恐れていた。どんな会員によるものでも、統一教会から脱会しようとする試みは激しい抵抗に遭う。文鮮明とそのお気に入りたちは、嫁と五人の孫を「ィーストガーデン」(東の園)の鉄門のなかに連れ戻すために、いったいなにをしてくるだろう?

法的手続きのすべてが私を脅えさせたが、私の恐れは、兄の助けを借りて依頼したポストンの弁護士たちによって和らげられた。アィリサ・デートメーヤーはとくに頼もしかった。おそらく彼女は女性であり、同情心に富んだ人だったからだろう。彼女はようやく、私に安全だと感じさせてくれた。

裁判所は、夫と統一教会からの接触の試みすべてを阻止するために、私の新住所を非公開とした。しかしながら、私には、彼らに住む場所を知られるのは時間の問題だとわかっていた。私は五人の子供を抱えた無一文の女である。私はどこにいくだろう?文師夫妻は結局私が兄のところにいくと考えるだろう。彼らが私を見つけるまでに長い時間はかからないだろう。

私は裁判所の命令はただの紙切れにすぎないと知っていた。けれども、文師夫妻に私の子供を力ずくで奪おうとするのをやめさせるには充分だろうと考えた。私の場合ほど例を見ない状況でも、子供の誘拐をともなう離婚訴訟はたくさんある。

ケンブリッジのみすぼらしい法廷に立って、私は剝がれかかった塗装と使い古されたベンチを見ていた。私の目はアメリカ国旗を見つめた。私はアメリカにいることを神に感謝した。あの国旗が私を守ってくれている。この国に不法に入国し、いまだ市民ではない韓国人女性。私は考えた。文鮮明のすべての罪のなかで、アメリカに対する彼の攻撃がもっとも下劣だ。彼は裕福で強力だった。私はそのどちらでもなかったが、この国旗の前では私たちは平等だった。私の祖国では、秤にこれほどの平衡はとれていなかっただろう。私にとって、あの夏の日、合衆国は自由を意味した。星条旗は私がそれまで目にしたなかで、もっとも美しい光景だった。

車から荷物をおろすのを手伝ったあと、マデレーンは疑われないょうに、すぐニユーョークのマンハッタン・センターの仕事場にもどった。孝進は、私たちの逃亡に彼女が果たした役割に気づかなかった。彼は彼女に毎日電話をして、私から連絡はなかったかと尋ねた。私を見つけるために、マンハッタン・センターの金で私立探偵を雇うよう、彼女に命じた。この命令を、彼女は無視した。数日経っても私がもどらず、連絡もしなかったとき、マデレーンに対する孝進の要求はその鋅先を変えた。

マデレーンが録音をしていた電話の会話で、孝進は彼女に、クラック・コカインをいくらか手に入れるのに充分な金をもって、ハーレムの一二五番街とリバーサイド・ドライブの角まで会いにくるよう言つている。「おれはただこの感じを消したい、ただクラックをやりたいんだ。少なくともそうしているとき、おれはそのなかに没頭できる。マディー、残念だが、おれにはほかの手はない。おれはこの感じをどうにもできないんだ……ほかのだれにも頼みたくない。きてくれ、マディー。おれのために、これだけやってくれ、頼む……なにも失うものはない。マデレーン、わかったかい?」

翌日、マデレーンは孝進を車で空港まで連れていき、麻薬中毒治療のため、フロリダのゥェス卜・パーム・ビーチにあるヘイゼルトン・クリニックに送り出した。彼は道中マデレーンに、私を見つけたときに私に加える拷問を細かく描いて聞かせた。どうやって私の皮を剝ぐか、私の足の爪を剝がすか、彼はそれを目に浮かぶように描き出した。私には彼を恐れるだけの立派な理由があった。

ヘイゼルトンでは数日しか続かず、非協力的態度を理由に、医師はすぐに出ていくよう指示した。文師夫妻は次に彼をカリフォルニアのベティ・フォード・クリニックに送り、彼はそこの中毒治療プログラムを一力月以上受けた。文孝進とその両親に、彼のアルコールとコカイン中毒を治療させるには、妻と子供を失う必要があったのだ。私には、彼らがこれで私の心が和らぐことを期待しているのはわかっていた。けれども私は孝進を知りすぎていた。彼は自分の両親をなだめるためならなんでもやるだろう。しかし、拘束中の彼にどんなに禁酒ができたとしても、「ィーストガーデン」にもどったが最後、それを維持できるとは思えなかった。

一方、私と子供たちは、私たちの新しい自由に酔っていた。私たちの家は狭く、寝る場所は窮屈だったが、私たちは文師夫妻の影から抜け出し、みんな一緒だった。とくにキッチンは狭かった。もっとも私は料理のしかたを知らなかったので、それは緊急の問題ではなかったが。食事の支度は私が一度も習わなかった数多くの家事のひとつだった。「ィーストガーデン」の職員が十四年間ずっと私の日常の必要を満たしてくれていた。シェフ、洗濯係、家政婦、美容師、子守、配管エ、大工、自動車修理工、錠前屋、電気工、仕立屋、庭師、歯医者、医者、そして何十人もの警備員たちが、呼べばいつでもくるょうに待機していた。私は食器洗い機の使い方も、芝の別り方も、洗濯機の動かし方も知らなかった。初めてトィレがあふれたときは、パニック状態でニューヨークのマデレーンに電話をした。

私にとって適応は難しかったが、生まれたときから王子や王女のょうに扱われてきた子供たちにとってはなおさらだった。メィドに慣れた子供たちには、自分の衣類を掛け、ゴミを出し、自分の部屋を掃除するのは簡単なことではなかった。けれども彼らはそれをやった。彼らは寝室を共同で使うことを学び、ただひとつのバスルームを使うのに順番を待った。もはや仲間たちの上に立つ「真の家庭」の一員ではなく、彼らは平等というその生活の新しい現実に適応し、等しき者として友人を作り始めた。

私には、彼らがニューョークで通っていたような私立学校に通わせるお金も、そのつもりもなかった。前年の彼らの学費は総計で五万六千ドルにのぼっていた。もし私が子供たちを現実の世界に放り込むつもりなら、公立学校以上によいス夕ー卜地点があるだろうか?レキシントンはボストン西の快適な郊外都市で、優れた教育システムがある。私はそのことをありがたく思った。

私の子供たちと私とは、自給自足へとともによろめき歩いていった。私たちには学ぶべきことがたくさんあったが、私たちはひとりではなかった。妹と兄とその妻が私たちを助け、支えてくれた。彼らがそばにいることは、私たちがこの新しい生活に船出するとき、恐れを抱かなくてよいことを意味した。子供たちにはいとこたちがいて、私には、私がしようとしている、つらくて危険な旅立ちを理解してくれる大人たちがいた。私の眠りを妨げる心配ごとは、親切な隣人にお茶を飲みながら語れるようなものではなかった。

私は逃亡時期を、できるだけ新学年の始まりと合わせるように設定した。子供たちが友だちを懐かしがるだろうとわかっていたし、彼らができるだけ早く新しい友だちを作れればいいと願っていた。九月、私は長女を七年生に入学させた。彼女は私の子供たちのなかでただひとり、中学に通うことになった。彼女は一番年上で、一番独立心が強かった。私は、彼女なら勉強も人づき合いもうまくやるだろうと信じていた。ほかの子供たちは全員、同じ地区の小学校に通った。私は家で赤ちゃんの世話に忙しかった。

先生たちから適応の問題について言われることはほとんどなく、私は家中で子供たちが楽しそうにしているのを見た。父親はニューョークでの子供たちの生活にほとんど関係がなかったし、マサチューセッツでの生活には、彼と彼の繰り返していた一切の虐待がないことに子供たちが安心しきっていたのも、私には不思議ではなかった。長女は地元の楽団とフルー卜を演奏した。信吉は簡単に友だちを作ったが、どんなに優しく叱られても、私や先生に叱られるととても傷ついた。先生の話では、一度彼が泣きそうなとき、一体どうしたのかを尋ねるために、廊下に連れ出したことがあったという。「彼は私に、自分は大邸宅に住んでいたと言いました」と先生は報告した。「いまではあまりひとりになれることがないし、することもあまりない。彼は友だちを懐かしがっています。私はお父さんのことを聞きました。彼はときどきお父さんに会いたくなるけれど、お父さんは酔っばらいで、すごく怒鳴ると言いました」

驚くことではないが、文師夫妻は私たちを「ィーストガーデン」に連れ戻そうとして最初、金銭的な圧力をかけてきた。私がもっていた貯金は、食費と基本的な必需品の購入にあてられた。毎月の支払いができるかどうかは、マンハッタン・セン夕ーからの私への給料支払い小切手しだいだった。孝進の弁護士たちは私の弁護士に、小切手は私たちが検認裁判所を通じて臨時の養育費を取り決めるまで、振り出され続けると保証していた。

小切手は送られてこなかった。私の弁護士は、子供の養育費に関する正式の申請を裁判所に提出した。「ミズ・ムーンの小切手は、おそらくは彼女を殴る蹴るの関係に無理やり引き戻そうとするために、停止される可能性があると思われる」と私の弁護士は教会の代理人に対して書いた。「恐ろしく危険な状況から逃れ、安全を求めるというミズ・ムーンの決意は簡単になされたものではない。しかしながら、一度決意したからには、彼女はどんなことがあっても、もどらないと心を決めている」

私は離婚裁判が長引くことを予測し、兄と妹の助けを得て、ポストン最高の弁護士事務所のひとつ、チョホール・アンド・スチユワーを私の代理人とした。もしも文家の挑戦を受け
て立つならば、私には市で一番の弁護士が必要になるのはわかっていた。離婚に直面した多くの女性と同様に、私には自分の弁護士費用をどうやって払えばいいのか、見当もつかなかった。法廷にぉける性差別に関する一九八九年の研究で、マサチューセッツ州最高裁判所は「収入の低い女性の利用できる法的援助はあまりにも少なすぎる。ひとつの理由は、判事が、とくに訴訟の係争中にしかるべき弁護士費用を認めないことである」と結論している。

私の主任弁護士はゥェルド・S・へンショーというポストンのエリートと有能で親身になって相談にのってくれる同僚アィリサ・デ・プラダ・デートメーャーだった。彼らは裁判所が孝進に私の裁判費用の支払いを命じることを確信していた。ゥェルドのょうに経験豊かでも、彼は私の離婚裁判のょうなヶースに出会ったことは一度もないと認めた。文孝進は模範的な被告ではなく、彼の本当の財産を裁定するのは容易ではなかった。

孝進はニユーョークとマサチユーセッツの法律事務所を雇い、そのなかにはマンハッタンのレビ・ガットマン・ゴールドバーグ暑アンド・カプランも含まれていた。ガットマンというのは、ニューョーク市民自由連合の前代表ジェレミア,S,ガットマンで、文鮮明が一九八二年に脱税で有罪になったときに、彼の大義を擁護した男だ。

私たちの裁判にはマサチューセッツ州検認裁判所のエドヮード・ギンズバーグ判事が選任された。彼は引退間近の公正な紳士で、コンコード検認裁判所をしっかりと、だが気取らないやり方で運営していた。ちょっとエキセントリックで、夏の朝、仕事に現れるギンズパーグ判事を見つけるのは簡単だった。シアサッ力ーの青いスーツを着て、金色のプードルを連れているのが判事。犬のパンプキンは毎日裁判所まで判事についてきた。

私が孝進に養育費の支払いを要求するよう裁判所に求めた直後、私は文一家から直接連絡を受けた。お金とはその気にさせてくれるものだ。仁進は私の弁護士を通じて、法的措置を放棄し、家にもどるようにという手紙を送ってきた。同じことを頼んでいる文夫人からの録音テープが同封されていた。

新しい環境で文夫人の声を聞くのは驚くべきことだった。彼女は怒りを隠すことはできなかったが、気を遣い、私が出ていったことに心乱されているふうに聞こえるよう努めていた。「真の家庭」は完全なままに留まっていなければならない。基本線はいつものように、それは私の過ちだということだった。「蘭淑、あなたの行動は、あなたを愛しているすべての人びとには受け入れがたいものです」彼女は、私が将来大勢の人びとから非難されるだろうと予測し、「……もとのままで」帰ってくるよう促していた。

文夫妻が『原理講論』の教えを適用するとき、いかに恣意的か、それはいつものように私に衝撃をあたえた。許しに対する彼女の信仰を私ほどあからさまに生きてきた者はいない。孝進が結婚後数週間で、私をおいてきぼりにしてほかの女のところにいったとき、私は彼を許さなかっただろうか?孝進が私にヘルベスをうつしたとき、私は彼を許さなかっただろうか?孝進が娼婦とつきあったとき、私は彼を許さなかっただろうか?孝進が私たちの子供の将来のために用意された何万ドルをも浪費したとき、私は彼を許さなかっただろうか?孝進が私を殴り、唾を吐きかけたとき、私は彼を許さなかっただろうか?孝進がドラッグとアルコール濫用の生活のために私と子供たちを見捨てたとき、私は彼を許さなかっただろうか?私が私たちの生まれたばかりの息子を病院から連れ帰ったその日に、孝進が愛人を作ったとき、私は彼を許さなかっただろうか?

自分の行動の結果を考えずにいたのは私ではない。私は十四年間を、自分は文孝進のもとを離れられる、私は恐怖と暴力のない生活を要求できるなどと、あえて考えることなく過ごした。私は「ィーストガーデン」を性急に離れたのではない。私は自分の結婚がうまくいくよう超人的な努力をした。文一家は一度でも考えたことがあったのだろうか、悪いのは私ではなく彼らかもしれない、と?

仁進の手紙は、その決めつけるような口調で文夫人のテープと似たようなものだった。彼女は私の状況に同情すると言っていたが、私を十四年間殴り、辱め、脅してきた男、孝進に対する禁止命令を求めていることでは、私をあざけっていた。禁止命令のなかで、私が生命の危険を感じていると主張したのを大げさだと非難した。しかし、要点は、文鮮明の一家に対して法的手段を行使しないように、私を説得することだった。

彼女は、出ていくという私の決心に陰険な動機を見るのは簡単だとほのめかしていた。「何年も経ったいまになって、あなたが夫のもとを離れたのは、ただ彼が仕事と家族内の地位を失ったからだとさえ言う人びともいます」と彼女は書いていた。あなたはもどって、孝進のアルコール中毒とドラッグの濫用に立ち向かい、それを克服するのを助けることによってのみ、家族にあなたの善意を信じてもらえます。「望んでいるものを手に入れるために法的手段に訴えることによって、あなたはあなたを愛しているすべての人を傷つけています」彼女は法的手段を「敵対的」と形容し、最終的な結果はみんなを傷つけると言っていた。

文一家には、私がすでに傷ついていることが理解できなかった。私は和解など望んでいなかった。私は暴力的な夫による虐待と、すでに私の人生の二十九年間を浪費してきた宗教の支配から抜け出したかった。「ィーストガーデン」からの逃亡を決意した瞬間ほど、神の存在を強く感じたことはなかった。神は私の目からべールを取りのけてくださった。私は初めてはっきり見た。私は二度と帰らないだろう。

一九九五年十月二十五日、裁判所は孝進に毎月養育費を支払うよう命じ、子供たちにとって、父親との面会が益となるかどうかを調査するために、ソシアル・ヮーカーのメアリー・ルー・力ウフマンを選任した。私は子供たちから父親や祖父母との接触を奪うことは望まなかった。いかに問題のある関係であっても、子供たちはふたりの親とニ組の祖父母をもってしかるべきであるという点については、心のなかに疑問はなかった。私は孝進が、彼のような自己陶酔型の人間ができうるかぎりにおいて、子供たちを愛していることを知っていた。しかしながら、私はミズ・カウフマンに、子供たちがもっと落ち着き、孝進がドラッグとアルコールの濫用をやめたという明白な証拠が整うまでは、面会を許さないようにと強く主張した。

とくに禁酒については厳しい態度を示した。孝進は自分には法をかいくぐる能力があると自慢していた。一度、ニューョークでの酒酔い運転で有罪になったため、ドラッグ検査を指示されたときには、信吉の尿を自分のと入れ替えた。私が金銭的支援を申請して初めて、孝進が子供たちとの面会を求めたことも、私には注目するに足ると思えた。

ミズ・カウフマンは十一月に、彼女の事務所で二日間に分けて四時間以上にわたり、孝進と面接した。裁判所への報告書に、彼女は彼が不安で非常に落ち着きがなかったと記している。彼はロが渴き、ハアハアと息をしていた。彼女は彼がコカィンでハィになっているのではないかと疑った。彼は自分の話に卑猥な言葉を挟み込んだ。彼はミズ・カウフマンに、離婚申請の裏には私の両親がいる、私の母は自分をメシアだと宣言した、私の両親は私が離婚で得る金を韓国で自分たち自身の教会を設立するために使おうとしていると語った。彼はこのばかばかしい理論を裏づけるために私の叔父、柳淳を連れてきていた。叔父は母が教会に入会する際には助けとなったが、いまや母を裏切って、文一家に対する自分の地位を高めようとしていた。

孝進はミズ・カウフマンに、自分はいつも子供たちを気にかける活動的な父親だったと強調したが、子供たちの年齢や学年を言うことはできなかった。子供たちが父親に会いたいとせがまないのは、私が彼について子供たちの心に毒を吹き込んだからにすぎないと言い張った。彼は信吉が父親の写真ではなく、ひとつのおもちゃの写真を要求したと聞いて、衝撃を受けた。

ミズ・カウフマンは十二月初めの報告書で、孝進と子供たちとの面会は、彼がニ力月間ドラッグとアルコールから離れていたことを示すまで、許可されるべきではないと結論した。

子供たちと私は新しい家庭での初めてのクリスマスの準備に忙しかった。私の両親が韓国からやってきた。私たち全員が一緒になるのは数年ぶりのことだった。私たちの集まりは、私たちの自由を祝する会でもあった。私たちは家を子供たちが学校で描いた絵と六フィートのクリスマス・ツリーで飾った。

クリスマス前の土曜日、配達人のノックで私は玄関の扉を開いた。小包を受け取ったとき、私の鼓動は早くなった。差出人の住所はよく知っていた。孝進は私たちを見つけた。私は両親と子供たちから私の不安を隠しておこうとしたが、文の屋敷を離れて以来、自分の感情をそれまでほどうまくは隠せなくなっていた。小包には子供たちへのちょっとしたクリスマス・プレゼントがいくつかと、韓国語で書かれた私宛の力ードが入っていた。そのなかで、孝進は私が裁判所に提出した資料で彼のアルコールと麻薬中毒を暴露したことをほのめかし、もし私自身の「裸」が世間に晒されたらどう思うかと尋ねていた。それは、彼がビデオ撮影した私のヌードを暴露するという暗黙の脅迫だった。

私の動揺に気づいた父は、私を元気づけようとした。「あいつに勝手にやらせてはいけない」と父は助言した。「もしおまえが屈したら、おまえを傷つけるという彼の目的は成功する」父は正しかった。私はなにも悪いことはしていない。孝進がしたのだ。彼の手紙は、彼に私との接触を禁じる禁止命令に対する刑事違反である。文鮮明の息子は、相変わらず自分が法律の上にいると考えていた。私は警察に脅迫を届け出た。孝進は刑事告発された。

私の弁護士を通じて孝進は子供たちに手紙を送り、彼らへの愛と、彼らと会いたいという望みを表明した。しかしながら、彼には私を批判せずにはいられなかった。長女宛の手紙のなかで、彼はこう書いている。「もちろん、ときにはお母さんに怒りを感じるが、お母さんを許したいと思う。お母さんについて君が知らないことはたくさんある。だが、それは重要ではない。なぜだかわかるか?なぜなら、お父さんは君がだれかを永遠に愛せる優しい人間になり、愛する人を見捨てず、また人生がだれにもあたえるような試練に対決するとき、彼らを許すことを学んでほしいからだ」

信玉に対しては、彼女が彼を愛しているのはわかっていると書いていた。「お父さんがいかに悪いかを君に告げる人がいなかったら、君は一瞬でもそんなふうには考えなかっただろうと思う。知ってるかい?たとえ君がお父さんは悪いと考えても、お父さんは平気だ。なぜならもう悪くはならないからだ」
彼は子供たち全員にまたすぐ手紙を書くと約束したが、一度も寄こしてはいない。

一九九六年二月、子供たちとの面会を許可するのが賢明かどうかの査定のため、孝進はふたたびミズ・カゥフマンと面接した。彼はこれほど長いあいだ、面会を禁じられていたことに憤慨していた。彼は法廷で私に対して求める復謦について話した。私を金銭的に破滅させてやるために、「ニューョークの無慈悲な法律事務所」を雇うと言った。彼はアルコール中毒者更生会の会合に出席し、いまは禁酒生活に専念していると言った。

ミズ・カゥフマンは、その春、子供たちとの監督付面会を許可した。永遠に変わったのだと主張した男がドラッグ検査に引っかかるまで、子供たちとは二度しか会わなかった。孝進がもはやドラッグやアルコールは濫用していないことを、裁判所が満足する形で証明できるようになるまで、面会は延期された。その日はまだきていない。

子供たちとの接触を拒否されていることを非難しているにもかかわらず、孝進は彼らとの連絡を保つためになんの努力もしなかった。裁判所は、私の弁護士を通じて手紙を渡すよう勧めたが、彼は一度も書いてこなかった。子供たちの誕生日やクリスマスに力ードやプレゼントも送ってこない。彼らが学校でどうやっているかを尋ねもしない。

父親の思い出がいかに不幸なものであっても、父が子供たちを放棄したことは、彼らにとってはつらいことだ。お気に入りの息子だった信吉はいまや私の限られた収入で暮らし、ビデオゲーム・コーナーや高価なおもちゃ屋で甘かったお父さんをよく覚えている。父親の顔を知らない赤ちゃん、信勳はお父さんがどこにいるのか不思議に思っている。私が保育所に連れていくと、彼はよく「ほかの子供みたいに、お父さんはいつぼくを迎えにきてくれるの?」と尋ねる。

離婚はいつでも子供たちにとって気楽なものではない。しかし、伝統的な道徳価値の体現、「真の家庭」の一員だと主張している男であるにもかかわらず、文孝進は子供たちにこれ以上ないほど苦しい思いをさせた。

文家側は裁判所の命じた養育費をいつも払ってきたわけではなかった。払ってくるときも、小切手は遅れて、しかも私の弁護士が催促したあとでなければ送られてこなかった。弁護士たちは私が払えるだろうと期待できる以上の弁護士費用を請求してきた。ある月は、通常の経費を支払うために、宝石のいくつかを売却しなければならなかった。孝進の立場は、自分には収入源がないから私の裁判費用は支払えないというものだった。彼はマンハッタン・セン夕ーを馘首になり、「真の家庭信託」からの収入を絶たれた。彼は世界でもっとも裕福ななかに入る人間の息子が貧窮していると信じてくれるように、裁判所に訴えた。

ギンズバーグ判事はそれを受け入れなかった。統一教会の資金と文家の金、そして文孝進の財政を分ける線は想像上のものである。孝進はわずかの資産と慎ましい収入を報告する一方で、際限のない資金に手をつけることができた。住宅、旅行、自動車、私立学校、使用人について、彼と彼の兄弟姉妹はなんの予算上の束縛もなく生活していた。

孝進にとって、自分は失業中だから無一文であると主張することは、マンハッタン・センターの職は、彼の生活と同様に彼の父親から独立してはいないという事実を無視することである。彼の父親は、彼を住まわせ、食べさせ、そして雇った。統一教会を取り去ってしまえば、学歴のない文孝進は雇用のされようがない。彼はわずかの資産しかもっていないと主張しているが、彼のもつ資産がどんなものであれ、それが文鮮明の気前のよさ以外のものを通じて獲得されたと言うのは、ばかばかしいことだ。

孝進が貧窮しているという作り話を維持するためには、彼の収入はすべて同じ源泉、文鮮明から発しているということを無視しなければならない。裁判所まで孝進に付き添ってきたポストンやニューョークの弁護士軍団の着ている仕立てのいいスーツを目にしながら、ギンズバーグ判事は彼に弁護士費用の支払いを命じた。さもなければ法廷侮辱罪での逮捕を覚悟してもらう。

文家側は支払いに応じなかった。その夏、文鮮明はワシントンDCで、伝統的な家族の価値をいかに復活するかを論じるための国際会議を後援した。それはあまりにも辛辣な皮肉だった。文孝進は、ナショナル・ビルデイング・ミュージアム大ホールでの二日間のシンポジゥムに出席し、ジェラルド・フォード元大統領、ジョージ・ブッシュ前大統領、元イギリス首相エドワード・ヒース、元コス夕リカ大統領・ノーベル平和賞受賞者ォス力ー・アリアス、大統領選出馬を目指す共和党のジャック・ケンプのような講演者たちが、世界中で家族の価値が侵食されていることについて話すのを聞けなかった。文鮮明の息子はマサチューセッツ州刑務所に留まっていた。私の裁判費用を支払えという命令に従わなかったために、ギンズバーグ判事によってそこに送られたのである。彼は刑務所に三力月間留まり、自分は金銭的な収入のない人間であると証明するために、ニューヨークで正式に破産を申告したあと、ようやく釈放された。

私にとって、お金が絶えざる不安の原因になった。文家側が小切手を送ってこなかったらどうする?もし弁護士たちが支払いを待ちきれなくなったら?どうやって子供たちの面倒をみればいい?私は美術史の学位をもっていたが、ポストン美術館のポランティア・ガイド以上のことをする資格はなかった。これでは五人の子供の歯の治療費は支払えない。絶望して、私は地元のショッピング・モールにあるメーシーズ百貨店の販売員に応募した。私は妹とマデレーン・プレトリゥスに子守を頼んで、研修を終えた。

マデレーンは私が家を出た一力月後に教会を脱会し、近くに越してきた。マデレーンと妹、そして兄がいなかったなら、自由を得た最初の一年をもちこたえられなかっただろう。研修が終わったときになって初めて、メーシーズが私に期待するのは毎週末の仕事だと知った。どうしてできるだろう?だれが子供たちの世話をしてくれる?私は打ちのめされて家にもどった。

独立には犠牲を払わなければならない。私は離婚の片をつけ、自分の人生を歩いていかねばならない。自分の子供たちに彼らが受けて当然の利益——「ィーストガーデン」にいるいとこたちが当然のものとしている利益——をあたえられる仕事を得るには、私にはもっと教育が必要だろラ。

弁護士を通じて、私は文鮮明の家族とのつながりを永遠に切るような和解の条件を提案した。私は、私と私の子供たちに信託基金を設定することを要求した。私はそこから、私たちの健康保険、教育費、被服費、住宅費その他の諸経費を支払う。扶助費や養育費はなしだ。私は自分自身の裁判費用を支払う。私の弁護士たちは提案のなかで、私の意図をこうまとめた。「このような信託が考えられたのは、これらの資産が浪費される可能性を排除し、和解交渉をここで、二度と繰り返すことなく永遠に終了させるためである」

文鮮明は拒否した。彼は、孝進の財政状態は自分自身のものから独立しているという点では頑なだった。自分の孫たちの将来の安定には責任をとらないだろう。それに加えて、文家側は、離婚同意の内容が秘密にされることを望んだ。彼らは私がロを開くことを望まなかった。私は秘密保持についての要求をすべて拒否した。

一九九七年六月、裁判所に提出された宣誓証書で、文鮮明は自分の立場を明確にした。

私の息子、文孝進が「真の家庭信託」の信託受益者からはずされ、マンハッタン・セン夕ー・スタジオの被雇用者・重役・社長としての地位から解雇され、続いてマンハッタン・セン夕ー・スタジオから疾病手当を受け取る疾病被雇用者としての地位を停止されたとき、私の孫である彼の五人の子供たちに対する私の心遣いと愛が私を動かし、私は、私の息子とその妻のあいだの係争を管轄しているマサチューセッツの裁判所の命令で決定された養育資金を提供した。

私が毎月、このような支払いをし、支払いを続けるかを選択するについて、私の息子、文孝進は過去も現在もなんの権限ももっていない。それらは、私に可能であるかぎりにおいて、また私にそうする意志があるかぎりにおいて、私によって自発的におこなわれている。

交渉は中断し、私は現在、私の息子にはマンハッタン・セン夕ー・ス夕ジオによる再雇用からの税込み三千五百ドルの給与以外に資産も収入もないという事実にもかかわらず、私の嫁が息子をふたたび収監させようとしていると聞いている。私は状況を再考しているところである。

もし私が文家側の条件で話をつけなければ、養育費を停止するという暗黙の脅迫はよくわかった。文師は私の弁護士費用として五万ドルを支払ったが、それは息子を刑務所にいかせないためであり、支払いを命じた裁判所に敬意を払ってのことではなかった。

「文孝進が全収入を絶たれて以来、私は彼を扶養し続けてきたが、私は彼が音楽録音プロデューサーとして生産活動を再開するのに充分なほど回復したことをうれしく思い、彼が芸術家として創造的生産的であり続けて、私に彼の扶養をやめさせてくれることを期待している」と文師は相変わらず、孝進の仕事は、その父親が作ったからこそ存在しているにすぎないという現実を無視して言つた。

私たちの離婚裁判は、ニフィートの高さまで積み上げられるほどの書類の山を作り出した。それは二年半ぐずぐずと続いた。文鮮明は孫たちの将来の安全を保障するょりも、弁護士たちに何十万ドルも支払うほうに意欲を見せた。家族の価値とはそんなものだった。

一九九七年十二月、私は慰謝料の一部支払いと月ごとの養育費の継続に同意した。私にはわかっていた。もし私たちが毎月の養育費に依存していたら、私たちは永遠に文一族のなすがままだ。一度訴訟が終了してしまえば、文鮮明はいつでも送金を停止できる。私は文孝進以上に「養育費を払わないパパ」にぴったりの候補者を想像できなかった。

それでも私はこれを終えてしまいたかった。私は疲れていた。弁護士たちは激しく闘い、私のためにできる最良のことをしてくれた。これ以上の助言は望めなかっただろう。長引いた離婚の闘いで、私のょうに感じた女性はほかにどれほどいただろう?多くの資産をもつ彼が勝つのか?扶助費はなし。私の人生の失われた十四年間に対する代償はなにもなし。子供たちの大学教育を確実にするための信託もなし。孝進の弁護士たちは私の弁護士に言った。もし子供たちが教育のためのお金がほしいなら、彼らは個人的に文鮮明のところにいって、おじいさんにお願いしなければならない。

私は、子供たちと文鮮明と韓鶴子の監督付面会には反対はしなかったが、彼らのこの要求が心からのものかどうかは疑っていた。私たちが「ィーストガーデン」から逃げ出してからの二年半、彼らは孫たちに一度として手紙も書いてこなかったし、電話もしてこなかった。クリスマスや誕生日に、孫たちのことを思い出さなかった。彼らは孫たちにも、自分の息子に対するのと同じ無関心を見せていた。

寒い晴れた十二月の朝、午前九時十五分、私はマサチューセッッ州コンコードの小さな法廷の判事の前で、文孝進の向かい側に立った。エドヮード・ギンズバーグ判事が、私の結婚は救いようがないかと尋ねたとき、私は「はい、判事閣下」と答えた。同じ質問を尋ねられたとき、孝進はぶしつけに「ああ」と言った。ギンズバーグ判事は、離婚するすべての夫婦にするように、私たちの結婚は終了したが、親としての務めは終わっていないと念を押した。彼は、私が旧姓を法的に復活することを許可し、判事のペンのぴょこんというひと振りとともに、偽メシアの慕力的な息子との結婚という悪夢はようやく終わりを告げた。

本当に勝った者はだれもいなかった。私も。孝進も。子供たちも。文鮮明だけが、初めから望んでいたものを手に入れた。子供たちと私とは統一教会の手から逃れた。けれども私たちは、文一族の影に留まっているよう運命づけられていた。


287

エピローグ 埋まらなかった座席

メシアは七十八歳である。神であるという主張にもかかわらず、文鮮明でさえ永遠には生きられない。死んだとき、文師が統一教会を自分と一緒に墓場まで連れていく可能性は犬である。

文師はその後継者について、なんの具体的な計画も立てていない。そうすることは、その権力の一部を存命中に手放すことを彼に要求し、厳密に統治された世界の中心人物であることに慣れた男には、それは思いもよらないことである。統一教会は心理学者が「個人崇拝」と呼ぶものの古典的な一例だ。

後継者の指名と育成に失敗したことは、文師の死後、家族内で血が流れることを確実にするだけである。息子たちはすでに、彼のビジネス帝国の支配をめぐる闘いにはまりこんでいる。統一教会自体が容易に手に入るようになったとき、闘争は激化する一方だろう。
指導者の地位はもちろん自然に長男にいくはずだ。しかし孝進の絶えざるアルコールとドラッグ問題のために、弟たちはすでにその地位に向かって競争を始めている。女性ゆえに父親のあとを継ぐチャンスのない仁進でさえ、孝進の立候補資格を守ろうと必死になっている。彼女ははるか以前に自分の運命を彼と結びつけた。もし彼が没落すれば、彼女と夫の朴珍成も一緒に没落する。

最近、この問題について話すとき、文師は自分が昇天したあと、「真のお母様」が統治するだろうと暗示している。韓鶴子が統一教会の舵取りの位置で、象徴的な役割以上のものを果たせるとか、また果たす意志があるとか本気で信じている人は、教会にはいない。
「ィーストガーデン」を離れる一力月前、私と文夫人は統一教会の将来について話し合った。私は指揮権を孝進には渡さないよう強く主張した。名目上の宗教団体を率いるのに彼ほど不安定な人間を想像することはできない。彼女はいやいやながら認めた。文鮮明は統一教会の指導をほかの息子のひとりに任せなければならないだろう。その可能性が彼女を悲しませるのはわかっていた。最初の子供が女の子だったあと、孝進の誕生は「真のお母様」としての彼女の地位を確実にした。彼女の運命と彼の運命はひとつに結ばれているように見えた。

統一教会の中心にある悪は、文一家の偽善とぺテンである。一家は、その信じられないほどのレベルに達した機能障害のなかで、あまりにも人間的である。教会に引き込まれた理想主義的な若者たちよりも、文一家が霊的に優れているという神話を広め続けることは、恥ずべき欺瞒である。孝進の失敗がより目につきやすいかもしれない。しかし文家第二世代のだれひとりとして「信心深い」という言葉が適切にあてはまる者はいない。

一九八四年のアメリヵの道徳的霊的凋落についての説教で、文鮮明は統一教会の墓碑銘を書いている。彼の言葉は彼自身の家族のほうに、よりよく適用できるだろう。「ソドムとゴモラは不道徳と快楽の追求のために、神の裁きによって破壊された。ローマも同じ状況にあった。それは外部からの侵入によってではなく、それ自身の堕落の重さによって崩壊したのである」

統一教会は相変わらず世界中に何百万もの会員がいると主張している。そのなかの何人が積極的な資金調達者であり、教会活動の參加者かというのは別問題だ。他の宗教とは違い、統一教会には出席状況が把握できるような、正式の信仰の場所というのがほとんどない。教会のある都市もいくつかあるが、ないところもある。

宗教儀式やセミナーが開催される教会の研修センターでさえ、その多くは、一九九〇年代初めに文鮮明が「ホーム・チャーチ」と呼ばれる実験—悲惨な結果に終わった—をおこなうあいだに閉鎖された。「ムーニー」による公然たる改宗活動に対する反キャンぺーンに対抗して、文師は会員を実家に送り、その親戚や隣人を改宗させようともした。しかしながら、このような分散化は文師が自分の信者たちに対して維持していた統制を弱めた。より広い世界と、文鮮明に対する家族からの反対にふたたび晒されて、多くの会員がただ流出していった。

この失敗の結果、文師と教会幹部はふたたびひとつにまとまった。最近数年間で、彼らは尊敬と政治的影響力を獲得するためのキャンぺーンを組織し、大きな成功をおさめた。いつものように、彼らは詐欺的なやり方で成功した。統一教会は、女性の権利、世界平和、家族の価値に捧げられた市民組織を世界中に何十も興し、それは社会のなかに堂々と入り込んでいる。それいずれもが文鮮明、あるいは統一教会との関係を喧伝してはいない。

世界平和女性連合、世界平和家庭連合、国際文化財団、世界平和教授アヵデミー、ヮシントン政策研究所、世界平和の頂上会議、アメリヵ憲法委員会、その他いくつもの組織が、自分たちを超党派の、特定の宗教に限られない集団としている。そのすべてが文鮮明によって設立されたものだ。

たとえば一九九四年三月、「世界平和女性連合」はパーチェィスのニューョーク州立大学キャンパスで「平和と和解促進」プログラムを後援した。当時二十五歳だった文師の息子、文顕進が、文鮮明はアメリヵにとって新たな神の啓示であるという宣言でィベントを開会した。組織は地元の州讓会讓員サンドラ・ガレフに歓迎の手紙を依頼した。彼女は、この団体が文鮮明傘下にあることは一度も聞かされていなかった。

怒った州議会議員はのちに「ニューョーク・タイムズ」に語っている。「私は統一教会を支持したことは一度もありません。私はいつも、彼らは家庭を破壊する集団だと感じてきました。もし私の事務所に手紙を頼みにきた人がこの組織の正体を正直に告げていたら、絶対に手紙は渡さなかったでしょう。基本的には、いっぱい食わされたのです」

同じ月ゝコ世界平和女性連合しのトロント支部とCARP(大学連合原理研究会)のトロント大学支部は、ノース,ョーク公立図書館で、十代の・ためのエイズ予防プログラムの共同スポンサーになった。官ー伝のチラシは、子供たちに確実に「病とドラッグのないライフスタイルを選ば」せるために、彼らを参加させるよう親たちに呼びかけていた。統一教会や文鮮明のことはどこにも・触れられていなかった。

アメリカにおける有名人のなかには、目の玉が飛び出るような講演料に魅了されて、これらの団体と「ムーニー」との閨係を知らないまま、プログラムに参加する者もいる。元大統領ジェラルド・フォード、テレビ・キャス夕ーのパーバラ・ゥォル夕ーズ、俳優のクリストファー・リーブ、アメリカ初の女性宇宙飛行士サリー・ライド、市民権運動指導者コレッ夕・スコット・キング、喜劇俳優ビル・コスビーはいずれも「世界平和女性連合」後援の祝典で講演をしている。

おそらく最悪なのは前大統領ジョージ・ブッシュと夫人のバーバラ・ブッシュだろう。彼らは文師とこれらの団体の関係を知りながら、一九九五年に「世界平和女性連合」が日本で後援した六回にわたる集会で講演をして、百万ドル以上を支払われたと伝えられている。

前大統領は無邪気にだまされたのではない。ジョージ・プッシュには確かにわかっていた。一九九六年にブエノスアイレスのスピーチでしたように、文鮮明を「予言者」と呼ぶことは、自らの贅沢な生活の資金を得るために、巧妙な操作と欺瞞を使って安い労働力を集めている男の活動を正当化することである。ブッシュ大統領は金を受け取って、ブエノスアイレスで開かれた新聞「ティエンボス・デル・ムンド」の創刊パーティに、文師と出席した。これは南米十七力国に配布される八十頁のスペイン語週刊夕ブロイド紙である。

世界の政治指導者と並んで写っている文師の写真の一枚一枚が、彼の信頼性を強める。国際的宗教指導者としての文師の写真は、アルゼンチンでは信者が数千人以上はいないにもかかわらず、大統領カルロス・サウル・メネムのような政治家を文師と会見させることになる。

文師の影響力は政治的コネばかりではなく、不動産や銀行、メディアへの金銭的投資を通じても行使される。ラテンアメリカだけでも、こういった資産は数億ドルにのぼると評価されている。

ラテンアメリカはカトリックが強力な地域であり、その正統な宗教の指導者たちは文鮮明の勧誘努力にまったく理解を示してはいない。ウルグアイのカトリック司教団体は一九九六年に出された声明で、「統一教会のような団体が人を欺くことによって改宗させ、わが国その他ラテンアメリ力各国のキリスト教徒のよき信仰を傷つけている」と言っている。「これらの組織は基本的な人間の価値を宣伝しているが、実際には信者たちを彼らの宗教運動に改宗させようと試みている」

きたるべき歳月、統一教会最大の挑戦は、このマネーメーキング機械を動かしている財政的エンジンとしての日本を固守することだろう。何十年ものあいだ、日本は文鮮明の最大の支持基盤であり、もっともあてになる現金の源泉だった。しかしながら、一般からの苦情、訴訟、そして教会の活動に対する政府の監視の結果、この数年間、資金調達力は失速を始めている。教会は日本に四十六万名の会員がいると主張しているが、批判者たちによれば会員数は約三万で、そのうち活動的会員は一万ほどだと言っている。

文師はアメリカの報道機関、とくに彼がリベラル的偏向と呼ぶ「ワシントン・ポスト」に対抗するために、一九八二年、「ワシントン・夕イムズ」を創刊した。ワシントン・夕イムズ・コーポレーションは、やはり文師の反共的イデオロギーを機械的に繰り返すために創刊された週刊誌「インサイト」も出版している。タイミングは元璧だった。「ワシントン・タイムズ」は、保守的な共和党の大統領ロナルド・レーガンお気に入りの新聞となった。レーガン政権の高官がしばしば記者に情報をリークした。編集者たちは新聞も雑誌も統一教会からは独立していると主張しているが、「ワシントン・タイムズ」の初代編集長・発行者のジェームズ・ウイーランは、教会の口出しに反対したあと解雇された。
「ワシントン・タイムズ」は大理石の柱と真鍮の欄干、フラシ天の力ーペットのおかげで、実際よりも利益があがっているように見える。最初の輪転機が回って以来十六年間、この新聞は金を失い続けてきたが、文師の他の事業からの利益、そしてしだいに日本の会員からの「献金」によって援助されている。

一九九二年ゝコヮシントン-タィムズし創刊十周年を祝う晚餐会でゝ文師はこの新聞をコアメリカと世界を救う道具」とするため、最初の十年間で十億ドル近くを投資したと語った。ヮシントンのオムニ・ショーラム・ホテルの群衆に、文師は彼が「タィムズ」を創刊したのは、「伝統的な価値の崩壊から世界を救う」使命をもって、「共産主義の脅威から自由世界を守るために」新聞を経営するのが「神の意志だと信じていたから」だと言っている。

文師がブリッジポート大学を破産から救い、統一教会に正真正銘の学術機関を提供したのはこれと同じ年だった。この大学から教会は世界を救う努力を準備することができるというわけだ。「ムーニー」の前線「世界平和教授アカデミー」はこのコネチカット州の大学を赤字にしないために、一億ドル以上を使っている。自分たちを「不安を抱く市民連合」と呼ぶグループは、理事会を支配するに充分な数の理事との交換で大学を財政困難から救い出すという文師の提案に反対した。大学は生き残りに賛成票を投じた。学問の自由に対する文師の影響についての教授たちの恐怖は、最終的には自分たちの仕事を確保したいという欲求に負けたのである。

理事会は学校を救うための緊急援助の本当の出所を見て見ぬふりをし、統一教会自身は大学とは接触しないという文鮮明の保証を、軽率にも受け入れた。一九九七年、統一教会はキャンパスに寄宿学校を開くことにょって、ブリッジポート大学との関係を明るみに出した。ニュー・エデン・アカデミー・ィン夕ーナショナルは高校生の年齢にある教会員の子女四十四名を教育している。その校長ヒュー・スプージンは二十九年間、文鮮明の信者であり続けている。彼の妻はもうひとつの「ムーニー」の前線「世界平和女性連合」の会長である。大学の教室は高校にょって、宗教訓練も含めた全教科のために使用されている。生徒は大学の食堂で食事をし、図書館で勉強しているが、寄宿学校はいまでも、それは独立の機関で、キャンパスに場所を借りているにすぎないと言い続けている。

「不安を抱く市民連合」のリーダーで市議会證員のゥィリアム・フィンチが「ニューョーク・タイムズ」に、「それは統一教会が社会から受け入れられるための努力をどこまで達成したかを示している。なぜならばだれもそれを気にかけたり、迷惑がったりはしていないように見えるからだ」と語ったとき、彼は正しかった。

しかしながら日本では、大勢の人が統一教会によって迷惑をこうむっている。文鮮明のとりなしで愛する死者たちを地獄の業火から救えると確約した統一教会員によって、一生の蓄えをだまし取られたと訴えて、何百人もの人が訴訟を起こしている。日本政府の消費者保護係官は、一九八七年以来、統一教会についてニ万件近くの苦情を受けていると言っている。教会はすでに超自然の力をもつと言われた壺や絵画の販売を含む多くの訴訟を和解に持ち込むために、何百万ドルも支払っている。

統一教会はアメリカやョーロッパでは大きな宗教的吸引力をもったことはない。その事業は広範囲にわたり、それらの企業が生み出す富は莫大である。しかしながら、霊的実体としては、統一教会は破産したようなものである。教会は合衆国に五万人の会員がいると主張しているが、私は合衆国で活動している会員の数は数千にすぎず、イギリスでは数百だと考える。移民を担当するイギリス内務省が、文鮮明の存在は「公衆善を助長しない」と宣言したために、彼自身は一九九五年に英国への立ち入りを禁止されている。メシアのためにお金を集めようと、一日に十八時間、ワゴン車のうしろで小間物を売ってくれる、影響されやすい若者を見つけるのはかつてほど簡単ではなくなっている。

文師はこのような新入会員を、彼の旧敵、共産主義者のあいだに見つけることを期待した。一九九〇年、統一教会はソ連で、犬がかりな勧誘と投資活動を開始した。文鮮明はクレムリンでミハイル・ゴルバチョフと会い、またソ連のえり抜きのジャーナリストをソウルの自宅における十年ぶりのインタビューに招待した。同年、文師の側近中の側近のひとり、朴普熙は韓国、日本、アメリカからのビジネスマンの代表団をモスクワに引き連れていき、投資の機会を探った。出発前、朴普熙はライサ・ゴルバチョフ夫人のお気に入りの文化基金のひとつに十万ドルの小切手を切った。

ロシアにおける文師の努力は、共産主義の崩壊とソ連の解体のあと、足踏みをしているように見えた。ロシアでの出だしのつまずきも、中国への悲惨な投資に比べればものの数ではない。朴普熙の勧めで、文師は中国南部の恵州に自動車工場を建設するため、ニ億五千万ドルを投資した。彼は中国をサブコンパクト力ーで埋め尽くそうと、パンダ・モー夕ー・コーポレーションに十億ドルの投資を約束した。文師は自分の目的は利益を上げることではなく、より貧しい国に投資することだと主張した。彼の中国本土開発への関心は、官僚主義からくる障害といい加減な計画とが、工場の進展を遅らせたとき、消滅した。彼はまもなく計画を放棄し、南アメリカにおける活動をふたたび倍増した。教会幹部は、南アメリカでは未来はより明るいと考えている。

私は子供たちが学校にいっているあいだ、マサチューセッツ大学の講義を受け始めた。心理学を勉強している。わが身に起こったことを理解する必要、そして感情的な悩みをもつ人びとに手を貸す仕事につく準備、このふたつがその動機だと思う。私は殴られた女だった。しかし私はまたカルトの一員でもあった。私は十四年間にわたって、自分がとってきた決定、そしてとらなかった決定を理解しようとする道程にある。

私が経験から学んだことがひとつある。心とは複雑なものだ。「洗脳」とか「マィンド・コントロール」とかいう言葉は、統一教会についての心理学的議論よりも政治的議論によりふさわしい。キャッチフレーズでは「ムーニー」のような団体の魅力、あるいはその信者たちに対する支配力を完全に説明することはできない。

もし自分が洗脳されたと信じられたら、私は私の新しい自由にともなう憂鬱と自己批判を免れることができただろう。私はいまでもなお、どうして自分があんなに長いあいだ、文鮮明のなかのべテン師に目をつぶったままでいたのか完全に理解できずにいる。私の経験は勧誘された会員のものとは違っていた。私は睡眠や食事を奪われたり、何時間もかけて教義を教え込まれたり、家族から引き離されたりはしなかった。私はこの宗教のなかに生まれた。私の両親は、彼らがどこで暮らすか、彼らがどんな仕事をするか、だれと協力するかの指令を出す教会の伝統と信仰に浸りきっていた。私はほかのことはなにも知らなかった。

私はだまされたと感じる。けれども苦い思いはない。私は利用されたと感じる。だが、怒りよりも悲しみを感じる。私は文鮮明のために失った歳月を取り戻したいと望む。私は自分がもう一度少女になれたらと思う。自分がいつかロマンチックな愛を知ることがあるのか、いつかひとりの男を、あるいはいわゆる「指導者」をふたたび信じることがあるだろうかと思う。

多くの点で、私は遅れてきた青春を体験している三十ニ歳の女である。私は、「独立」、「反抗」、「流行」、「仲間の圧力」、「個人の責任」について、自分の十五歳の娘と一緒に学びつつある。ときには自分の責任に押しつぶされそうになることもある。けれども自分で選択できる自由を味わっている。私は自分の人生を自分で管理している。もはや世界のなかで遊離している感覚はない。私は初めて本当の幸せを感じる。私は勉強と、暴力被害に遭った女性のためのシェル夕ーでのポランティアを続けるとき、新たなエネルギーを感じる。私は自分が、自分の子供たちや自分のコミユニティに貢献していることを発見して満足を感じる。

古い朝鮮のことわざがある。「もし水に落ちたら、川ではなく自分を責めなさい」人生で初めて、この格言は私にとって意味のあるものとなった。私ひとりが、自分の人生に責任がある。私ひとりが自分の行動と、自分の決定に責任がある。それは恐ろしいことだ。私は人生の半分を「より高い権威」にすベての決定を譲ることで過ごしてきた。自分自身で決定することを学ぶのは、その結果——よい結果も悪い結果も——を喜んで受け入れることを意味する。

最近、私は多くの時間を費やして、この原則を子供たちに説明している。彼らのひとりが、統一教会にもどりたいと言い出すときがくるかもしれないことを、私は覚悟している。文孝進は長男だから、長男の信吉にはいつかもどるように大きな圧力がかけられるだろう。孝進は新しいバンド「アポカリブス」の最新CDのジャケットに、信吉と自分の写真を使った。アルバムの夕ィトルは『ホールド・オン・トゥ・ユア・ラブ(君の愛を守れ)』という。

私は信吉やその兄弟のだれかが大人になったとき、「ィーストガーデン」に引き戻されることがないように祈っている。もしそうなったら、私は悲しく思うだろうが、それを受け入れるだろう。私は彼らに、よく考え、事実を知った上で選択をすることを教えたいと思う。お金の誘惑や権力の幻想によって動揺させられないことを教えたいと思う。私は彼らに、私たちは人生で望むもののために働かなくてはならないこと、私たちがなにかを自分で獲得しないかぎり、それは本当には私たちのものではないこと、もしなにかが本当にしてはあまりにもよすぎるように見えたら、それはおそらくそのとおりであることを教えたいと思う。

子供たちの選択がいかなるものであろうとも、私はいつまでも彼らを愛し続けるだろう。ちょうど両親の選択のいくつかを残念に思いはしても、彼らをいつも愛してきたように。私は子供たちと私の関係がいつも裏表なく正直であり、意見の相違が私たちのあいだに立ちはだかることなく、違った意見をもつことを許すようなものであることを願う。これは本当の愛。どこかのメシアのうしろにぴったりくっついて、密集行進法で歩くこととはわけが違う。

私は組織化された宗教についての最近の皮肉な言葉のいくつかを認める。「カルト」のなかにのみ危険を見る人びとは、正統な宗教と過激な宗教のあいだの線がいかに細いかを知らない。ローマ教皇は決して誤らないと信じる人びとから、文鮮明はメシアだと信じる人びとを本当に区別するものはなにか?それのみが天国への最良の道を知っていると主張しない宗教があるだろうか?多くの信仰が批判的な考察をいくばくか停止することを要求する。もちろん違いは、正統な宗教は信者たちに自由意志で信じるよう奨励する。人を欺く勧誘法も、経済的搾取も、残りの世界からの無理やりの孤立もない。

私は宗教については幻滅した。しかし神については違う。私はいまでも至高の存在を信じている。私は、自分の目を開いてくれたのが神であり、生存への力と逃亡する勇気をあたえてくれたのは神だと信じている。私の神は、私のもっともつらい闘争のあいだ、私を支えてくれた、すべてを抱擁する神である。私が幼い花嫁であったとき、私が十代の母親であったとき、私が殴られた妻であったとき、神は私のそばにいてくれた。私がいま子供たちをそのイメージのなかで育てようとしているとき、神は私とともにいる。信仰をもつ人びとは神をさまざまな名で呼び、さまざまな姿で描く。だが、私たちはみな神の心を知っている。私の信頼する神は、私に考える能力をあたえてくれた。神は私がそれを使うことを期待している。

一九九七年十一月二十九日、文鮮明はワシントンDCのロバート・F・ケネディ(RFK)・ス夕ジアムで合同結婚式を主摧した。それは一九八二年のマジソン・スクェア・ガーデンでの同じようなイベントとは大違いだった。この最近の集会では、統一教会はス夕ジアムを一杯にするために、獲物を狩りだしてこなければならなかった。出席した二万八千組のカップルのほとんどはすでに結婚しており、他の宗教の信者だった。多くの人びとが、郊外のショッピシグ・モールやスーパーの駐車場で配られた無料入場券を受け取って、統一教会が「ワールド・力ルチャー・アンド・スポーツ・フェスティバル」と広告したものに参加したのである。呼び物はメシア、文鮮明ではなく、ポップ・シンガーのホイットニー・ヒューストンだった。彼女は四十五分のステージに百万ドルを提示された。彼女の歌を聴くためにきた人びとには残念だったが、数日前に、イベントが統一教会後援だと知ったあと、ヒューストンは急病を理由に出演をキャンセルした。

言い訳をして断ってきた有名人はヒューストンひとりではない。パキスタン首相べナジール・ブット、キリスト教連合のリーダー、ラルフ・リード、暗殺されたエジプト大統領の娘、カメリア・アンヮール・サダトらは全員、フェスティバルが文鮮明の自家宣伝だと知ったあと、出席の予定を変更した。

統一教会がフェスティバルとの関係を隠しておけないと気づいたとき、文鮮明は新聞に一頁大の広告を出して、既婚の夫婦に、彼らの結婚の晳いを新たにし、家族の価値を強めるために計画された「全教的」イベントに出席するよう呼びかけた。「あなたがたは私を矛盾に取り巻かれた男だと考えているだろラ」と文師の広告は語りかけていた。「私たちは、私個人を宣伝したり、統一教会をひとつの機関として拡大しようとしているのではない。私たちの目標は、家族を強化するための努力において、すべての人びとを、そしてすベての宗教をひとつにすることである」

あの寒い冬の午後、RFKスタジアムに集まった人びとのなかで、ほんの数百人のみが統一教会で新しくマッチングされたカップルだった。文鮮明の若き息子ふたりもそのなかにいた。彼らは実際には数力月前に結婚していた。彼ら二組の結婚に続く贅沢な家族の宴会で、メイン・テープルには「真の家庭」全員のために、座席札がおかれていた。文一家は家族の統一と完璧性の表向きのフィクションを維持しようと決意していた。文鮮明の長女と私の兄は子供たちと一緒にマサチユーセッツの自宅にいたにもかかわらず、そこには兄嫁と兄の席があった。

メィン・テーブルの文孝進の札の隣には、私の名前が書かれた座席札があった。私の椅子は空っぽだった。まるで私がたったいまテーブルを離れ、「真の家庭」は私がいまにももどってくると期待しているかのよぅに。


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訳者あとがき

本書は Nansook Hong 著 “In the Shadow of the Moons—My life in the Reverend Sun Myung Moon’s Family” (1998, Little, Brown and Company) の日本語版である。原題は「文」の英語の表記 Moonと「月」を意味する英語の Moonをかけたもので、直訳すれば『月たちの影で—文鮮明家での私の生活』となる。邦題は編集部の意向にょる。

著者の洪蘭淑は、一般に「統一教会」として知られる世界基督教統一神霊協会創始者、文鮮明氏の最古参の弟子のひとりで、統一教会系企業、一和製薬の社長を務めた洪成杓氏と柳吉子夫人の長女として、韓国の首都ソウルに生まれた。両親ともに熱烈な信者であり、いわば統一教会のなかで純粋培養されて育った著者は、一九八二年、わずか十五歳の幼さで、なんの疑問を抱くこともなく、文氏の長男「孝進様」との結婚を受け入れ、文一家の住むアメリカ・ニユーヨーク市近郊の邸宅に移る。しかし文家の嫁として、「真の家庭」と崇められる一家の実情を間近で目撃し、「原罪のない」夫と暮らしたことが、皮肉にも著者を文氏夫妻、そして統一教会から離れさせることになる。

一九九八年九月二十日、アメリヵ三大ネットヮークのひとつ CBS は報道番組 “60 Minutes (シックスティ・ミニッッ)” で、本書の著者・洪蘭淑のィン夕ビューを放映した。このなかで著者は文一族の生活を批判したが、同番組に出演した実の娘のひとりもそれに同意した。彼女は本書の著者について、「蘭淑は正直だと思う。わたしは彼女を信じ、尊敬し、称賛する」とも言っている。

番組での著者はィンタビューアーの質問に臆することなく勇気をもって答え、夫の暴力を語るときには涙を流しながらも、ユーモアのセンスさえ見せる成熟した女性だった。また贅沢な暮らしを捨て、質素な生活に立派に適応した子供たちについて話す、その瞳の輝きと微笑は、子供を誇りに思う愛情に満ちた母親のものだった。

韓国を出たときの著者は、本人が言うょうに、自分の頭で考えることのできない少女、教会外の世界を知らない「幼稚な理想主義者」にすぎなかった。その少女が、言葉もわからぬ外国で愛情のない結婚生活を送りながら、虐待を糧に精神的な成長を遂げ、独立した個人、自己主張をもつ女性、責任感ある母親として、人生に新たな一歩を踏み出すまでの心の軌跡を、本書は克明に記している。自ら選択できる人間となることの困難と、選択できる自由をもつことの重要性について、読者もまた一考させられるのではないだろうか。

翻訳にあたっては、宮村峻氏にたいへんにお世話になった。同氏には貴重な助言をたまわり、とくに統一教会の教義や人名表記その他、統一教会関連の事項の邦訳は同氏のご教示にょるものである。同氏に対し、ここに厚くお礼を申しあげる次第である。

なお、人名・地名などの固有名詞についてはできるだけ正確な漢字を使用したつもりだが、漢字が不明のため、発音の近い漢字を当てたり、力夕カナで表記したところがあることをお断わりしておく。

一九九八年秋

林四郎


統一教会の成立過程及び教義、文鮮明氏の経歴等に関し、著者の記憶違いや間違いがいくつかあり、明らかなものについてはできるかぎり訂正を加えたが、不明確な箇所については原文を優先させた。(編集部)



わが父文鮮明の正体 – 洪蘭淑 1

わが父文鮮明の正体 – 洪蘭淑 2

わが父文鮮明の正体 – 洪蘭淑 3

TV番組「60分」で洪蘭淑インタビュー

文鮮明「聖家族」の仮面を剥ぐ – 洪蘭淑


英語で   English


▲ Nansook Hong: In The Shadow Of The Moons: My Life in the Reverend Sun Myung Moon’s Family (1998)
洪蘭淑:『月たちの影で– 私が過ごした牧師文鮮明一家との日々』 (1998)

In the Shadow of the Moons book, part 1


In the Shadow of the Moons book, part 2

In the Shadow of the Moons book, part 3

In the Shadow of the Moons book, part 4

Nansook Hong ‘60 minutes’ and radio interview with Rachael Kohn


フランス語で   Français

L’ombre de Moon par Nansook Hong (Auteur)
(1998)
    Editions N° 1    
ISBN-10: 2-86391-883-4

« L’ombre de Moon » par Nansook Hong – Part 1

« L’ombre de Moon » par Nansook Hong – Part 2

« L’ombre de Moon » par Nansook Hong – Part 3

« L’ombre de Moon » par Nansook Hong – Part 4


ドイツ語で   Deutsch

Ich schaue nicht zurück    Hong Nansook (Autor)
(2000 und 2002)
Verlag: Bastei Lübbe
ISBN-10: 3404614461    
ISBN-13: 978-3404614462

Nansook Hong – Ich schaue nicht zurück – Teil 1

Nansook Hong – Ich schaue nicht zurück – Teil 2

Nansook Hong – Ich schaue nicht zurück – Teil 3

Nansook Hong – Ich schaue nicht zurück – Teil 4


スペイン語で   Español

Nansook Hong entrevistada

‘A la Sombra de los Moon’ por Nansook Hong


ドナ · オルメ · コリンズ氏の証言

統一教会女性信者が自殺した 「四千人」南米大移働の謎