週刊ポスト Shūkan Post 1993.10.15 212-215頁
文鮮明教祖の「血分け」ルーツで浮上した「女子大事件」
当時の学生処長・金貞玉女史
ほかに直撃取材
[発堀 スクープ] 第3弾 ●レポート/大林高士(ジャーナリスト)
朝鮮戦争勃発から5年後―内戦で荒廃した人々の心をとらえ、ひとつの新興宗教が急成長していった。現在の統一教会である。その急成長の裏側で何があったのか。必ず直面するのが「梨花女子大事件」である。文鮮明教祖も逮捕されたこの事件の実相を、当時の関係者の証言から追う。
▲ と当時の梨花女子大学処長・金貞玉女史にインタビューする大林氏
「もて遊ばれた女子大生婦人」
初秋を迎え、華やいだ衣装を身につけた女子学生たちがキャンパスを行き交っている。秋晴れの名門・梨花女子大学は、ソウルでも別天地の感がある。
いまから38年前。朝鮮戦争で半島が南北に分断された後の1955年4月、このキャンパスで統一教会(世界基督教統一神霊協会)の一大スキャンダル事件が発生した。
世にいう「梨花女子大事件」である。統一教会のルーツをたどる取材の過程で、私は、この梨花女子大事件に突き当たったのである。
統一教会の草創期にあったとされる「血分け儀式」すでに2回にわたってレポートしてきたように、今回の取材で得た証言・資料には、その「血分け儀式」の実態が赤裸々に語られていた。
多くの謎に包まれた、この「血分け儀式」の実態を明らかにすることは、統一教会と文鮮明教祖自身のルーツに迫ることでもある。
では、文鮮明自身も逮捕された、この梨花女子大事件とは、いったい、どんな事件だったのか。梨花女子大歴史研究室のA教授(女性)は、こう語る。
「昔、そんな事件がこの大学であったことなど、いまの学生たちは知らないでしょう。 でも私は当時、この大学の女学生でしたから覚えています。新人の韓忠婢という英語の女性教授が女子寮でも教室でも統一教(韓国では、一統一教会のことをこう呼ぶ)の原理を教え、女子寮ではろうそくを灯し踊っているとかで、それが他の教授や多くの女子学生に伝染して大事件になったのです」
当時の新聞を見ると、「もて遊ばれた女子学生婦人」「女子大生の不法監禁」といった見出しが躍り、一大猟奇事件として日韓で報じられている。朝鮮戦争が終わった直後の政情不安のさなか、全国民が刹那主義に陥っていた、とA教授はつづける。
「北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)がソウルを占領し、梨花女子大も釜山へ逃げて分校
を作りました。韓先生らは、その頃、釜山にあった統一教で原理の本(原理講論)を作るのを手伝っていたと聞いています」
同じ頃、延世大学でも統一教会騒動があった。韓国神学研究所理事長で韓神大学名誉教授の安柄茂がいう。
「延世大学で信者を獲得しようと活動していたのが、Bという女性教授だった。私のところにも勧誘に来たが、なんともいえぬ美人で、こんな人がなぜ新興宗教に、と思ったものった。彼女はその時「文教祖は女性信者とは必ず部屋にこもって一対一でお話しになる。語り始めると非常に高いトーンで何時間でも話しつづけ、女性は熱心な信者になってしまうのだ」といっていた。結局、この教授は退職処分となり、学生も何人かが退学処分となりました」
梨花女子大と延世大学での統一教会騒動は、ついに文教祖の逮捕にまで発展した。容疑は、「兵役法違反」と延世大学の22才の女子学生を3日間不法監禁したとする「不法監禁罪」だった。
55年7月4日に逮捕された文は、以後3か月間を獄中で過ごす。逮捕者は文ひとりにと どまらず、当時の教会幹部の金元弼や劉孝元、劉孝敏、劉孝永の3兄弟らも逮捕されている。文以外の逮捕容疑は「姦淫媒介」だった
(文は後に無罪、劉孝敏らは有罪となっている)。この劉3兄弟(孝元はすでに死亡。他の2人は後に脱会)には劉信姫という妹がいる。すでにこのレポートで報告した通り、信姫は文鮮明教祖元側近の血分けの相手でもある。
❖ 写真の追加
▲ 1955年梨花女子大學校。劉景圭 유경규(左)と黄煥菜 황환채(右)
「家や土地もすべて捧げた」
梨花女子大事件当時、学生処長だった金貞玉(82)は、いまはソウル城北洞で悠々自適の日々を送っている。だが記憶は鮮明だ。
「当時の梨花女子大の総長は金活蘭で、私の叔母にあたります」
金は、当時、統一教会の伝道で名前を上げていた英語の女性教授、韓忠嬅(前出)についてさらにこう語った。
「韓忠嬅は、夫が北朝鮮に拉致され、2人の子供はいずれも重い病に冒されていた不運な人でした。
その彼女が釜山で文鮮明に出会い、統一教に全精根を捧げれば夫は帰り、子の病も治るといわれ、以後、狂信的な信者になったと聞いています。寮でも教室でも統一教を講義していると聞き、私は韓を呼んで叱責した。
彼女は「信仰の自由です」というから、私はメソジストの教室や寄宿舎で統一教の講義は許されない、といった。お寺でキリスト教を教えますかともいいました。その翌日、彼女は辞表を提出したのです。「統一教を信じないあなたは、いつの日か地獄に堕ちるでしょう」と私にいったが、10年ほど後、私の家を訪ねてきました。
みすぼらしい姿で、統一教をやめたと告げて、「家や土地、預金すべてを統一教に捧げたのに、夫は帰らず、子供の病も治らなかった」と泣いていました。それから数年後に彼女は亡くなったのです」
彼女の「教え」を受けて統一教会に入っていった梨花女子大の信者たち。彼女たちの
「その後」には、どのような運命が待ち受けていたのだろうか。
梨花女子大事件の真相を知ろうと、私は何度かソウルの自宅に事件の一方の当事者でもある劉孝敏を訪ねた。だが、孝敏の口は重く、統一教会を脱会したいまも、真相を語ろうとはしない。
だが、文鮮明が、逮捕されながら後に無罪になったことに対して、私が「それは巷間伝えられるような政権との何らかの取引があったのですか?」と確認を求めると、それを否定はしなかった。
そして、こんな話をしてくれた。梨花女子大事件で劉が逮捕された時、連日のように差し入れがあった。差し入れをしていたのは、やはり留置場にいた某子女の父親だった。
「その娘のお父さんが夜10時、11時になるとビールやらいろんなものを差し入れてくれた。そんな時、牢屋から私たちを呼び出してもくれた。
7月の一番蒸し暑い時だったからホッとしたのを覚えています」その父親は、現在、韓国人なら誰もが知っている有名ビルを持つ財閥の大物になっているという。
その娘もまた、梨花女子大事件の被害者だったはずと、当時の関係者のひとりはいう。 すでに脱会しているにもかかわらず、劉孝敏の口が重いのは、なぜなのか。ソウルで会った会元信者のひとりはいう。
「統一教の文鮮明は、多くの女性と交わることによって一大家族集団を作り、その強固な結びつきによる天下制覇を目指したのです。
いま統一教幹部の相関図を作り上げたら、それは韓国を揺るがす一大スキャンダルとなるだろう。だが、いまでは多くの人が成功者となり、その事実が表面化することを嫌がっている。文鮮明の「血分け」は、多くの成功者を生み出したのです。その意味で、「血分け」は成功だったのかもしれません。
劉家は一時、統一教の中核ファミリーでした。すべてを知る者は、同時にすべてを知らないと装うことしかできない立場にあるのです」
全てを知りすぎた男・劉孝敏の口が重いのも無理はないと指摘するのだ。
合同結婚式と聖婚式の「違い」
現在の統一教会では。「血分け儀式」は行なわれていない。だが、私が今回の取材で得た証言、または資料に書かれた内容が事実であるとするならば、草創期には「血分け」が活発に行なわれていたことになる。では、いつ頃、統一教会は「血分け」をやめたことになるのか。やめた理由は、何だったのか。
「なぜ統一教会は『血分け』をやめたのですか?」
統一教会の内情をよく知るある事情通は、こう質問をぶつけると、一瞬、私をにらみつけるような表情をした。それから意味深長な、こんな言葉を洩らすのだった。
「梨花女子大事件で文鮮明が無罪釈放されたのも、その後、統一教を脱会して内幕を暴露
した人々が相次いで投獄されたのも、統一教と当時の政権との間に結びつきがあったことが一番の理由でしょう。
統一教の合同結婚式の歴史を振り返ってごらんなさい。なぜ「血分けをやめたのか、との質問に対しては、文鮮明がある人物から「それだけはやめろ」と命令されたからだとっておきましょう」
統一教会の合同結婚式は1960年から始まっている。前号でも触れたが、その第1回(60年)と第2回(61年)の結婚式は「聖婚式」と呼ばれて、それ以後の合同結婚式とは明確に区別されている。
▲「延世大学でも統一教会をめぐる騒動があった」と、韓国神学研究所理事長・安柄茂氏は語る
劉孝敏は、この第2回聖婚式の36組のひとりである。私は、もう一度、劉孝敏を訪ねて、こう聞いた。
「聖婚式とは、文鮮明と「血分け」した人々の結婚式ではないのか。だからこそ、一般信者の合同結婚式と区別されているのではないか」
劉孝敏は、「いつ頃からそう思うようになったんだ」といいながらも、「いまは全容を語る時ではない」と繰り返すだけだった。そして、こうつけ加えた。
「統一教は、信者同士が横のつながりでは知らない場合が多い。文鮮明を頂点とした完全な縦社会なのだ。だからこそ秘密が守られるのだ」
第2回聖婚式の36組のうち9組はすでに統一教会を脱会している。だが、彼らのうちの誰も、おそらく真実を語ろうとはしないだろう。
統一教会の梨花女子大事件についての「反論」参照していただきたいが、梨花女子大事件以降、韓国での統一教会の布教活動は急速に勢いを喪失する。その「難局」を打開するため、統一教会は夏、崔奉春(日本名・西川勝)を密航船に乗せ、日本へ教に旅立たせる。そして翌59年には、金永雲、60年に朴普煕を渡米させ、海外布教に本格的に乗り出すのである。
梨花女子大事件から38年。統一教会のルーツには、いまだ多くのミッシング・リンクが残されている。(文中敬称略)
● 統一教会の「反論」と「見解」
1、梨花女子大事件で文鮮明師が逮捕され、「当時の新聞には『教祖にもてあそばれる女子学生』」などの見出しがあるとのことですが、そのような事実は一切ありません。1955年7月4日から13日にかけて、文鮮明師ほか4人の韓国の世界基督教統一神霊協会(以下当協会という)の幹部が突然逮捕されました。容疑は『兵役嫌否』(兵役法違反)と『不法監禁』で、当時の新聞は事実関係も確認せず、風聞で事実に反する記事を書きました。徹底した取り調べにも関わらず、検察は『不法監禁』容疑については、起訴できず、また、文師は『兵役嫌否』容疑だけで起訴されましたが、「兵役を忌避する目的で年齢を偽った」とされたのは弟子たちが行ったことであり、「文師は無関係」として、無罪判決を受けており、全て濡れ衣であったことは明白です。
2、36組の結婚式までは当教会がまだ規模が小さく結婚式もごく一部の内輪だけで行ったので聖婚式と呼びましたが、72組以降は規模も大きくなり、社会にも広がったので、一般の人が分かるように「合同結婚式」という一般的な表現を使うようになりました。ですから、「合同結婚式」も「聖婚式」であることに変わりはありません。貴誌の質問に「聖婚式は、文教祖と血分けした人々と合同結婚式の一般信者とを区別する意味ではないか」とありますが、当教会には『血分け』など教義上も実際は一切なく、聖婚式と合同結婚式を区別する用語があることをもって、『血分け』した人々と一般信者を区別するなどとはこじつけ以外の何物でもありません。
統一教会広報部の話
English translations:
Pak Chung-hwa interviewed about Moon’s “SEX relays”
Moon’s first wife, Choi Seon-gil, and Kim Deok-jin interviewed
Sun Myung Moon used a ‘Honey Trap’ – Choi Soon-yeong explains
Pikareum sex emerged at Ewha Womans University in 1955
Sun Myung Moon’s “Gigantic lie” by Eu Hyo-min (36 couple)