淫教のメシア • 文鮮明伝

淫教のメシア • 文鮮明伝

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▲ 祝禱をする文鮮明夫婦。『 統一教会 一八〇〇 組国際合同結婚式のすベて』より。

卓明煥編著『 統一教、その実相』より。


萩原 遼   (著)        晩聲社        1991

193頁、96枚の写真

ISBN: 978-4891880668


統一教会の集団結婚式とは、 世にも奇怪な秘儀集団であつたのだ。 サ夕ンの血を抜きとり、聖なる神の血を注入するといの血分け教義に基いて、聖血をもつたメシアが女性信徒に性交を通じて尊い血を分けるという ………… 本文より


文鮮明の師 • 金百文は、「神との性的統一」こいう言葉で「性的統一」 を「体礼」と称する贈罪の第式に定め、これを宗教運動として広めることまで提唱した。復帰論という奇怪な理論もまた金百文の復帰原理の完全なうけ充である。師弟ともに……… 本文より

中年女性は、文の相対者となることを懇願した。つまり、夫婦となろうとしたわけだ。だが文には一人の女性ではなく、あまたの女性を復帰させる使命がある。そのことをわからせようとして、迫る中年女性を文は懸命に……… 本文より


統一協会は

キリスト教を自称しているが、初伖の性交時の体位や回数、位置などまで重要儀式として定めたキリスト教がいったいどこにあるのか。統一協会こそ、なにも知らない無垢な青年男女をキリスト教を詐称することによっておびき寄せ、とりこみ、あげくはセックス儀式によって文鮮明に固く縛りつけ、思いのままにあゃつるセックスを教義の中心にすえに秘儀集団であることは明らかであろう。……… 本文より

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▲ 七二家庭 の統一教徒たらがき付い人として立つ中を歩んでいく文鮮明教主夫婦。
卓明煥編著『 統一教、その実相』より

 


目次

第1章 性の饗宴 7

ソウルから届いた一冊の雑誌 / 親泣かせの集団結婚式 / 暴露された韓国絶対主義 / 最高幹部のくいちがう答え / 集団結婚七つの段階 / 奇妙な式次第 / 聖酒式=血分け/「血統の転換」「血肉の交換」/「先生が女達に手を重ねるのは—」聖酒の中身は何か / 可能性を完全に排除できない事実 / 血分けのマスプロ化 / 文の血につながる「神の血族圏」/「女が上、男が下の体位で性交する」/ 初夜の式次第には重要な意味がある / お父様の生殖細胞の一つに / 集団結婚の中味 /「純潔」の実態 / 韓国での内部告発 /「天才的痴漢文鮮明」/「万古の色魔」の淫行記録 / 妻の交換・払下げ / 新版ドラキュラ血の饗宴

第2章 セツクス教の道程 43

虚像と実像の出発点 / 神の啓示を受けた文少年 / 経歴詐称 / 痴漢まがいの“研究”/ 混淫・血分け派の “巨匠” 金百文との出会い / 金百文の現在と過去 / 血分け教の源流 / “神の啓示” の意外な裏側 /「愛の講論」に耽溺した日々/ 極秘文書『主の路程』/ 女性救済の聖なる行為 / 邪恋の清算と経歴の空白 / もう一人の元祖・黄国柱 / 女血分け師・鄭得恩 / 大聖母との密接な関係 / どんちゃん騒ぎの教会 / 逮捕された文鮮明 / ヘラクレス的自己像の創作 / “出た” “すった” “建った” / 劉孝元との出会い/ 梨花女子大事件 / 奇怪な夫婦生活 / もてあそばれた婦人多数 / 姦淫はなかったか / 姦通事件不起訴の理由 / 密室の取引き / KCIAとの接着剤 / ナゾの人物・崔翔翊(日本名・西川勝)/ 好色ゆえの一目ぼれ / 前妻たちの眼と「宇宙的結婚」

第3章 血分け教義のルーツ 93

聖書を信用しない「キリスト教」/『原理講論』の源流 / 血分け教の教祖、金百文の著作 / 広がる勝手な空想の羽根 / 堕落した天使とエバの性交物語 / 肉的堕落 / サタンの血統の源泉 / 死んでも天上地獄でのたうちまわる / 犯した部分はいったいどこか / 蛇の血は肉欲そのもの / 神との性的統一 / メシアは悪の血を抜くために再臨する / 肉的新生とは何か / メシアは文鮮明だ / 女の腹の中へ入れ / 不倫行為の奨励 / 邪淫の母斑を残した子 / 神のなすべき歴史的大業 / 情欲問題の聖化とは / 聖神と一体になって体恤する / 体礼という贖罪の儀式 / キリストと人が一体になるということは / 太初の理想的な姿 / 性交によってのみ可能な神人一体 / “独創的” な金百文のセックス教体系化 /「食べる」ことの実効的な影響 / 血分け教の嫡子=統一協会

資料篇 129

I 実証的研究が明かす統一協会の実態 130

統一教その実相―文教主説教集『御言葉』批判 卓明煥

Ⅱ これが統一協会集団結婚の正体だ 142

宗教祭儀の象徴機能-統一教の祭儀を中心に 鄭鎮弘

Ⅲ 鄭鎮弘教授の「宗教学的観点で」に対して 167

Ⅳ 金明煕氏の訴状 170

あとがき 190


70頁

最初の逮捕は一九四六年八月一一日。文鮮明は、混淫による社会秩序混乱容疑で大同保安署(警察署)に三ヵ月拘留されたのについで、一九四八年二月二二日、またも主婦・金鍾華さんとの強制結婚事件で内務署に逮捕された。……四月七日懲役五年の判決を受け、文は、興南刑務所に服役することになった。


93-127頁

第3章 血分け教義のルーツ

聖書を信用しない「キリスト教」
統一協会では『原理講論』という六〇〇ページの〝大著”を、最高の聖典としている。統一協会はその正式名称・世界基督教統一神霊協会の名のごとく、表向きキリスト教と称している。キリスト教の最高の聖典は聖書以外にはないはずだが、統一協会では「聖書は真理それ自体ではなく、真理を教示してくれる一つの教科書」にすぎず、「従って、我々はこのような性格を持っている教科書そのものを、不動のものとして絶対視してはならないのである」と『原理講論』の総序(三〇ページ)で公言している。

それだけではなく、キリスト教にとっても根本的な問題の一つである神の実在性に対しては、「聖書を如何に詳しく読んでみても明確に知る由がない」(同三一ページ)ともいっている。そして、キリスト教がいかに不備で不完全で無力であるかがことばを尽して強調されていて、解決を迫られている重要問題についてなに一つ問題を解決できなかったと力説している。

それほどお粗末なキリスト教なら、なにもキリスト教を名乗ることはないはずだが、それとこれとは話が別のようだ。この不備にして不完全かつ無力、無能なキリスト教に代わって「今や新たな光を発する新しい真理が現われなければならない」と『原理講論』はいい、その新しい真理をついに発見したのが「文鮮明先生」だというのである。
「人間を生命の道へと導いて行くこの最終的な真理は、如何なる教典や文献による総合的研究の結果からも、また如何なる人間の頭脳からも、編みだされるものではない。(中略)この真理は、あくまでも神の啓示をもって、われわれの前に現われなければならないのである。しかるに神は、既にこの地上に、このような人生と宇宙の根本問題を解決されるために、一人の御方を遣わし給うたのである。そのお方こそ、即ち、文鮮明先生である。先生は、幾十星霜を、有史以来誰一人として想像にも及ばなかった蒼茫たる無形世界をさ迷い歩きつつ、神のみが記憶し給う血と汗と涙にまみれた苦難の道を歩まれた。人間として歩まなければならない最大の試練の道を、すべて歩まなければ、人類を救いうる最終的な真理を探し出すことはできないという原理を知っておられたので、先生は単身、霊界と肉界の両界にわたる億万のサタンと闘い、勝利されたのである。そうして、イエスをはじめ、楽園の多くの聖賢達と自由に接触し、密かに神と霊交なさることによって、天倫の秘密を明らかにされたのである。
ここに発表するみ言はその真理の一部分であり、今までその弟子達が、あるいは聞き、あるいは見た範囲のものを収録したにすぎない」(同三七~三八ページ)

『原理講論』の源流
だが、このどえらい「真理」も、実は文鮮明の師である血分け教の開祖・金百文の教義の盗作、剽窃でしかなかった。『原理講論』の構成や教義の核心部分は金百文の著作とウリニつといっていいほど似ている。
文鮮明が十代なかばで血分け教のもう一人の祖・李龍道のひきいる「イエス教会」にはいって、その道の開眼を経験し、ねんごろになった女性とのごたごたで日本に逃れ、一九四四年帰国。まもなく金百文のもとで六ヵ月間修業をつんだことは第2章で詳しくのべた。文は、経歴上からはまごうかたなく血分け教の直弟子として歩んできたのである。
同時に文とそのとりまきのつくりあげた統一協会の教義、すなわち『原理講論』の記述や文鮮明の説教などもまたまぎれもない血分け教のそれであることが、金百文の全著作を入手することによってはじめて全面的に明らかになった。金百文の著作とは『聖神神学』『キリスト教根本原理(三大原理)』
『信仰人格論』。
彼の主張は、つまるところエデンの園での人間始祖の性的堕落によって淫乱の血が人類にうけつがれるようになったため、聖血をもった救い主が現われ、性的統一をなしとげることによって堕落人間を救うというものである。あからさまな性行為を教義の核心にすえた醜悪な教義である。
統一協会の『原理講論』と金百文の著作とを比較、検討することによって、統一協会の教義のルーツを明らかにすることが可能である。

血分け教の教祖、金百文の著作
『原理講論』が金百文の著作の剽窃であることは、韓国では早くから学者やキリスト教関係者によって指摘されていた。が、具体的に引用文をあげて指摘したものは筆者の知るところでは金景来著『社会悪と邪教運動』、邦訳名『原理運動の秘事』(韓国書籍センター刊、一九六七年)だけである。したがって、日本でもこの書によって金百文の血分け教義と文鮮明の教義との類似性が論じられてきた。
だが、この金景来氏の著書は、血分け教にたいする批判に急なあまり、金百文のいっていないことを勝手につけ加えたり、筆者の金景来氏のことばを金百文のことばとして引用符でくくったりする文筆家の守るべき初歩的なルールに反した部分が少なくない。したがって、せっかくの鋭い批判もその効果を減殺している。
しかしながら、今回、その全著作が入手できたため、はじめてそうした不備もふくめて金百文の血分け教義の全体系をつかむことが可能となった。同時に、それによって統一協会の教義の出自をも白日のもとにさらすことができた。
以下に金百文の著作の簡単な説明を加えて内容の比較、検討にはいりたい。
まず『聖神神学』。一九五四年三月二日発行。発行所平文社(ソウル特別市鍾路区鍾路六街二一五の六)。四六四ページ。
第一課聖千系路、第二課新生論、第三課聖神神学、第四課救済論、第五課礼拝学、第六課聖体論、第七課基督観、第八課信仰結果論、第九課創世前世界。
この『聖神神学』には、まだ完全に発酵しない状態ながら、金百文の理論体系のすべてがもりこまれている。統一協会の聖典『原理講論』のもとになった『原理解説』の発行が一九五七年八月だから、それに先立つ三年半前の一九五四年三月に出された『聖神神学』がオリジナルであることはいうまでもない。
ついで、『キリスト教根本原理(三大原理)』。一九五八年三月二日発行。発行所一成堂(ソウル特別市中区乙支路一街一六二番地)。八四四ページの大著である。
目次は序解、総論序、第一篇創造原理、第二篇堕落原理、第三篇復帰原理の三部からたっている。

それぞれが章と節に小分けされているが、各章を示すとつぎの通りである。
第一篇創造原理 第一章創造起源論 第二章創造原理論 第三章創造世界論。
第二篇堕落原理 第一章悪の起源論 第一節悪の根本定義 第二節天使堕落論
第二章堕落原理論  第一節悪霊の三位一体論 第二節エデンの堕落史 第三節太初人間の定罪史 第四節堕落の法理的段階 第三章堕落の世界論 第一節肉体論
第二節罪の定義論 第三節死亡の定義論 第四節審判の定義論。
第三篇復帰原理 第一章基督観 第一節成肉論 第二節キリストの職性論 第三節十字架論 第二章基督教教理原論 第一節信仰論 第二節救贖論 第三章復帰原理論 第一節復帰弁証 第二節復帰世界。
この『キリスト教根本原理』は、文鮮明の『原理講論』と構成や用語までおどろくほど似かよっている。『原理講論』もその核心部分は創造原理、堕落論、復帰摂理である。ただ、発行年月日が一九五八年であり、『原理講論』のもとになった『原理解説』が一年早い。ために盗作うんぬんはなりたたないという統一協会側の反論も予想されるが、本書第2章でものべたように、金百文が同書を起稿したのは一九四六年三月であり、一二年間後にようやく完成したのである。その間に、金百文は内容について弟子にゼミナール形式で説明をしており、このなかに文鮮明もいたといわれている。金百文の著作の骨子について、文は知りうる立場にあった。師の著作の出版前に抜けがけ的に核心部分を盗みとって『原理解説』という。〝盗作本″を出版したというのがもっとも事実に近いといえよう。
最後の『信仰人格論』は一九七〇年一〇月三日刊。発行所大地出版社。三六六ページ。信仰人格者とは一ロにいって聖血をもった救い主と性的に一体となることによって悪の血を抜き、贖罪した人間のこと。ここでは詳細は省略する。
まず『原理講論』の核心部分の「堕落論」からみていくことにしよう。

99頁

広がる勝手な空想の羽根
文鮮明と統一協会の教義がキリスト教を自称しながらそれとは似ても似つかぬ淫乱な集団であることは、すでにみた通りである。
キリスト教とは無縁の彼らの教義を、事情をよく知らない人にキリスト教だと思わせる仕掛けは、その教義の根幹の「堕落論」が旧約聖書創世記第三章の有名なエデンの園のアダムとイブ(統一協会はエバというので以下エバとする)の話を独特に解釈して、彼らなりにつじつまを合わせているからである。
エデンの園の話はキリスト教徒でなくてもよく知られている有名なエピソードである。 園の中央に、命の木と善悪を知る木とがあった。「善悪を知る木からはその実を取って食べてはならない。食べるときっと死ぬであろう」と神に命じられていた。狡猾なへびはエバをそそのかした。
「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを神は知っておられるのです」
エバは、その実を取って食べ、またともにいた夫アダムにも与え、食べさせた。すると、二人の目が開け、自分たちが裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて腰に巻いた。
禁を破ったことを怒る神の詰問に女は答えた。「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました。」
神は怒って、へびをすべての獣のうちでももっとものろわれた存在におとし、女には産みの苦しみを与え、男には一生苦しんで地から食物をとらせる運命を背負わせ、エデンの園から追放したー。
このエデンの園の話を、統一協会の聖典『原理講論』はつぎのように。〝創造的解釈″を加えるのである。
「多くのキリスト教信徒達は今日に至るまで、アダムとエバが取って食べて堕落したという善悪知るの木の実が、文字通り何かの木の果実であると信じてきた」(九二ページ)
「或る信徒達は、神がそのみ言に対して人間が従順であるかどうかを試すために善悪知るの木の実を創造し、それを食べてはならぬと命令されたのであると信じている。しかし、全き愛の方であられる神が、人間に死を伴なうような方法でもって、かくも無慈悲な試みをされたとは到底考えることができない」(九三ページ)
既成のキリスト教の解釈では理解できない、というのである。『原理講論』はつづけてこういう。
「アダムとエバは、彼等が善悪の実を取って食べる日には、必ず死ぬであろうと言われたみ言のように、それを食べるときには死ぬということを知っていたはずである。それにもかかわらず彼等はこれを取って食べたのである。飢えてもいなかったアダムとエバが食物などのために、死を覚悟してまで、かくも厳重な神のみ言を犯したとは到底考えられないのである。それ故に、善悪知る木の実は何かの物質ではなく、生死にかかわることさえも問題視しないほどの強力な刺激を与えることのできる、他の何ものかであるに相違ない」
『原理講論』はこの実を「何ものかを比喩したものであると見なければならない」という。このへんからつぎのように奇想天外な比喩のオンパレードとなるのである。
「善悪知るの木」とは「創造理想を完成した女性」-すなわちエバを象徴し、「善悪の実」とは「エバの愛」を意味するという。そしてエデンの園にあるもう一本の木「生命の木」とは「創造理想を完成した男性」-すなわち完成したアダムを比喩したものだという。
さらに、エバをそそのかして木の実を食べさせた蛇とはー。
「人間と会話を交わすことができたと記されている。そして、霊的な人間を堕落させたという事実を見れば、これもまた、霊的な存在でなくてはならないはずである」(九七~九八ページ)
「神から創造された霊的存在であって、人間と会話することもでき、神の目的を知ることもでき、また、その存在は天にあり、そして、それがもし堕落して悪の存在に転落した場合には、時間と空間を超越して人間の心霊を支配し得る能力を持つ、そのような条件を備えた存在」である「蛇は、天使を比喩したものであると見ることができる」(九九ページ)
まるで飴細工のように自在にこじつけて、結局へびは天使に仕立てあげられた。それも普通の天使ではなく「堕落した天使即ちサタン」(一〇二ページ)だという。そこからさらに空想の羽根を広げる。

堕落した天使とエバの性交物語
統一協会の教義の核心部分である禁断の木の実を食うという行為についての解釈をきこう。「それでは、善悪の果を取って食べたということは、一体何を意味するのであろうか。我々が何かを食べるということは、それをもって自分の血肉とするという意味である。エバは神を中心とする善なる愛をもって、善なる果を取って食べ、善なる血肉を受け、善なる血統を繁殖しなければならなかったのである。それにもかかわらず、彼女はサタンを中心とする悪なる愛をもって悪なる果を食べ、悪なる血と肉を受けて悪なる血統を繁殖し、罪悪の社会をつくったのである。従って、エバが善悪の果を取って食べたということは、彼女がサタン(天使)を中心とした愛によって、互いに血縁関係を結んだということを意味するのである」(一〇三~一〇四ページ)
彼らは、蛇=堕落した天使とエバとの性交という奇想天外な物語を創作して、こう断定する。 「我々は聖書によって明らかにされたことにより、罪の根は人間始祖が果実を取って食べたことにあったのではなく、蛇に表示された天使と不倫なる血縁関係を結んだところにあったということを知るようになった。従って、彼等は神の善の血統を繁殖することができず、サタンの悪の血統を繁殖するようになったのである」(一〇四ページ)
彼らは、このエバと蛇との不倫の行為を「霊的堕落」と呼んでいる。
統一協会の対米議会不正工作の大がかりな調査をおこなったフレーザー委員会(米下院外交委員会国際機構小委員会)が、この統一協会の珍説を「聖書のセックス風解釈」と呼んだのは至言である。この〝セックス風解釈″、には、ごていねいにも説明までついている。
「罪を犯す前、アダムとエバは、裸でいても恥ずかしく思わなかった。しかし、彼等が堕落した後には、裸でいることを恥ずかしく思い、無花果の葉をもって下部をおおったのである。もし、善悪の果という或る果実があって、彼らがそれを取って食べて罪を犯したのだとすれば、恐らく、彼等は手かロを隠したはずである。何故かといえば、人間は恥ずかしいところを隠すのがその本性だからである。しかるに彼らは、手や口を隠しだのではなく、下部を隠したのである。従って、この事実は彼らの下部が科となったために、それを恥ずかしく思ったということを現わしているのである。ここから、我々は彼等が下部で罪を犯したという事実を推測することができるのである」(一〇一ページ)

肉的堕落
エデンの園のアダムとエバのエピソードは、統一協会の手によって荒唐無稽なセックスの園の物語につくりかえられた。宗教学者の七里和乗氏が「珍無類の聖書解釈である。……統一協会のように、蛇の正体が天使であり、姦淫によって堕落したといった珍論は、世界のどんなキリスト教の異端派にもない解釈であり、聖書そのものにまったく根拠をもたないつくり話にすぎない」と指摘する通りである。したがって、普通のキリスト教が一笑に付してまともに相手にしてこなかったのも無理はない。
統一協会発祥の地の韓国においても同様で、キリスト教界は一致して統一協会をキリスト教ではないと糾弾している。七九年八月五日には、韓国キリスト教界を網羅する代表的な指導者二一氏が「文鮮明集団はかくて異端である」と題した長文の声明を発表して、キリスト教の教えにてらして彼らのエセ教義ぶりを糾弾した。そのなかで、このエデンの園の歪曲をこう指摘している。
「文鮮明集団は、人類の堕落を性的な血縁関係としてみる。しかし天使の堕落は、神にたいする故意的、自己決定的反逆によるものであり、神に対抗して己れを高くし、最高の権威を野望したものであって、決して血縁的関係の愛による姦淫の堕落ではなく、またアダムとエバがいちじくの葉で下部を隠しだのは、エバと蛇との姦淫によるものではなく、神のみことばの誡命にたいする不従順として(創世記三章六節)、彼らの目が開かれて、裸であることを知ったために隠したのである」 統一協会は、エバと蛇との淫行というこのセックス風解釈に加えて、もう一つ同様の珍解釈をこのエデンの園の話から引きだしている。すなわち、統一協会の教義がエバと蛇との淫行を霊的堕落と規定したことはさきにのべたが、禁断の木の実を食べたエバが、その実をさらにアダムに食べさせたこともまた性行為を意味するとしてこれを「肉的堕落」とよんでいるのである。

サタンの血統の源泉
「肉的堕落」―。
これまた〝想像力″豊かな人士が奔放にめぐらした空想の産物であるが、これが今日の人間にまでつながるサタンの血統の源泉だといわれると笑いごとではすまなくなる。そして、お前の血管のなかにはサタンの血が流れていて堕落地獄から逃れられないのだとおどされると、気の弱い者はおろおろしてしまう。それを統一協会は組織的、計画的に仕組んだ修練会という洗脳の場でおこなう。何日間も連続して、ほとんど眠らせず、ろくに食事も与えず、自身の血への憎悪と恐怖をくり返したたきこみ、戦慄させるのである。そして、その洗脳のもとになっているのがこの「肉的堕落」という独特の創作である。

『原理講論』はいう。
「エバは天使との霊的な堕落によって受けた良心の呵責からくる恐怖心と、自分の原理的な相対者が天使長ではなくアダムであるということを悟る新しい知恵とを受けるようになったのである。ここにおいて、エバは、今からでも自分の原理的な相対者であるアダムと一体となることにより、再び神の前に立ち、堕落によって生じてきた恐怖心から逃れたいと願うその思いから、アダムを誘惑するようになった。これが肉的堕落の動機となったのである」(一一〇ページ)
「アダムとエバは、共に完成して、神を中心とする永遠の夫婦となるべきであった。エバが未完成期において、天使長と不倫なる血縁関係を結んだのも、再びアダムと夫婦の関係を結んだためにアダムもまた未完成期に堕落してしまったのである。このように、時ならぬ時にサタンを中心としてアダムとエバとの間に結ばれた夫婦関係は、そのまま肉的堕落となってしまったのである」(同)その結果、数千年の今日まで、大いなるわざわいを及ぼしているというのである。
「アダムは、エバと一体となることによって、エバがルーシェル(注 堕落した天使、すなわちサタン―引用者)から受けたすべての要素を、そのまま受けつぐようになったのである。そのようにして、この要素はその子孫に綿々と遺伝されるようになった。エバが堕落したとしても、もしアダムが、罪を犯したエバを相手にしないで完成したなら、完成した主体が、そのまま残っているが故に、その対象であるエバに対する復帰摂理は、ごく容易であったはずである。しかし、アダムまで堕落してしまったので、サタンの血統を継承した人類が、今日まで生み殖えてきたのである」(一一一ページ)
これによって人類は、人間始祖の霊的堕落と肉的堕落の両面の堕落の血統をうけつぐことになったという。これを「原罪」と称して人間の祖先の犯した血統的な罪であり、すべての罪の根だというのである。
しかも、この罪はどんなに人間が努力してもぬぐいきれない罪だというのだから始末が悪い。ぬぐいさることのできる人はただ一人、再臨のメシア(救い主)だけだという。その罪のぬぐいさり方もまたおどろくべき‶セックス風″であるが、それはのちにくわしくみる。

死んでも天上地獄でのたうちまわる
人類の祖先の「堕落」によって、今日の子孫たちは救いも得られず、地上の地獄でのたうちまわっているのだという地獄絵図を画くのが統一協会の教義である。すなわちー、
「堕落性を持った人間達が悪の子女を繁殖して、悪の家庭と悪の社会、そして悪の世界を造ったのである。これが即ち、堕落人間達が今まで住んできた地上地獄だったのである。(中略)人間は地上地獄に住んでいるので、肉身を脱ぎすてた後にも、そのまま天上地獄に行くようになる」(一三七ページ) 死んでもまだ天上地獄でのたうたねばならぬとは因果なことである。
統一協会の聖典『原理講論』の堕落論をかなり長く紹介してきたのはほかでもない、これが文鮮明の師である血分け教を理論的にまとめ上げた金百文の血分け教典『聖神神学』と『キリスト教根本原理』の盗作だといわれるほど酷似しているからである。
つぎにその師の教えを紹介しつつ、文鮮明の教義のなりたちをみることにしよう。

犯した部分はいったいどこか
統一協会の教典『原理講論』が、エデンの園の物語を性的堕落の物語に仕立てたのは、彼らの〝独創性″でもなんでもなかった。文鮮明が日本での数年間の遊民生活から帰国して、一九四六年一月から六ヵ月間金百文の主宰するイスラエル修道院で学んだことは第2章でのべたが、そのとき教えをうけた師の教義の盗作にすぎなかったのだ。
まず『聖神神学』のいうところをきこう。「エデンの園で善悪の実を蛇がエバに食べさせたということは、それが植物性の果実を意味するものではなく、エバの肉体上の貞操を蛇に奪われたことを意味し、人類は(カイン)以来蛇の血統性をうけついでおり、カインは蛇の子孫だというのである」(三六四ページ)禁断の実を食べたことをエバと蛇との淫行と解釈する源流はまさにここにあった。それだけではなく、その〝セックス風解釈″の証明もまた同じくアダムとエバがいちじくの葉で下部を覆った例のくだりをもちだす。
「エバ自身、肉体上の血統に影響をおよぼす直接的な罪を犯したために、彼らは罪を犯したあと、ただちに人間の性的行動にたいする良心的な呵責としての恥ずかしさを感じて、それを示したことなども確実な証明問題となる」(三六二~三六三ページ)
このエデンの園のエピソードについて、金百文は「(すでに)キリスト教三原理書の中で罪の原理を論じた中で根本的証明問題を例にあげて説明したため、本書(『聖神神学』-引用者)では紙面の都合上、題目程度にしかふれられない」(三六二ページ)と割愛している。
キリスト教三原理書とは金百文の〝大著″『キリスト教根本原理(三大原理)』であり、そこにはつぎのようにのべられている。

蛇の血は肉欲そのもの
果実を食べたことを性交だと強弁する論拠はここでもいちじくの葉である。「人間は肉体のどれかの部分で罪を犯したならば普通はその部分にたいする恥ずかしさを感じるのが良心的反証である。彼ら(注 アダムとエバー引用者)が口と食道で罪を犯したのであれば、その部分に表示があるべきであるにもかかわらず、犯行後の態度に現れたものは男女の生殖器部分に異性の羞恥心を示した。ということはやはりロで犯した行動の実証とみることはできない」(四七八ページ)
「彼らが口で行ったのであれば、マスクをするべきだったろうが、木の葉で陰部を覆うようになったその時から人間の生殖器は性欲の享楽器具として悪用された」(四八五ページ)
蛇とエバとの淫行から、さらにエバとアダムとの淫行へと発展し、二人の間に生まれたカインが蛇の血統をうけつぎ、それがさらに全人類におよぶという統一協会の教義とウリニつの論が展開される。
「また、男性であるアダムにも女性エバが受けたと同様の罪悪の性欲感を伝えたために、従ってエバに誘惑されたアダムの犯罪もまたエバと同一の罪悪となったのである」(四八五ページ)「カインは、やはり、エバが蛇の悪霊体から性欲を伝えられた犯罪の結果であり、人間本来の愛による繁殖ではないことを意味すると同時に、極論すれば悪霊の性欲的遺伝のみならず蛇の血をうけており、エバと蛇との結合の結果とみることを聖書は語っている」(四八六ページ)
聖書はそうは一言もいっていないのに、金百文は厚顔な結論を下す。この蛇の血こそ肉欲そのもので諸悪の根源だと。
「ここにおいて問題は、神の作り給うた聖愛の人間性品を、性欲による情欲の罪悪性に変えたそのことが、なににもましてあらゆる人間罪悪の根本であり、千万種の罪悪性がそれから発する罪悪の根本となっているのである」(四八八ページ)

神との性的統一
これまでみたように人類の祖先がエデンの園でおかした淫行によって蛇の血を受けた今日の子孫たちは、体内を流れる罪の血で淫乱の塊と化し、地上地獄を築いてしまった――というのが統一協会の教義の核心の一つである堕落論であり、文鮮明の師・金百文のうけうりであった。
この堕落人間は地上地獄でのたうつばかりか死後も天上地獄で責苦を受けねばならないという、どこにも救いのない教えである。
本当に救いはないのか。実はただ一つだけあることになっている。教祖に、ある行為を施されれば救われて天国に行けるというのである。この行為が血分け、すなわち教祖との性行為であることはいうまでもない。これが、血分け教の教義のもう一つの核心である復帰論である。
文鮮明の師・金百文は、「神との性的統一」ということばでこれを表現し、この「性的統一」を「体礼」と称する贖罪の儀式に定め、これを宗教運動として広めることまで提唱した。これはのちにくわしくみる。
統一協会のこの復帰論という奇怪な理論もまた金百文の復帰原理の完全なうけうりである。師弟ともにキリスト教の教義で巧みに粉飾し、厚顔にも血分け教の復帰論をキリストの教えであるかのように装っている。
キリスト教では、十字架上で死んだイエスが復活し、人びとの救済のためにふたたび地上に再臨するとしているのは広く知られているところである。このキリスト教の再臨を、血分け教では淫乱の血の流れる地上地獄でのたうつ堕落人間に、聖なる血を分け与え救いをもたらすためにメシア(救い主)はやってくるというセックス教の救い主にすりかえてしまうのである。

メシアは悪の血を抜くために再臨する
まず統一協会がそれをどうのべているか、からみることにしよう。『原理講論』はつぎのようにいう。
「罪の根が血縁関係によってつくられたので、この原罪は、子々孫々に遺伝されてきた。そして、罪を取り除こうとする宗教は、みな姦淫を最大の罪として定め、これを防ぐために、禁欲生活を強調してきたのであるが、これも罪の根が淫乱にあるということを意味するものである。また、イスラエル民族が神の選民となるため、贖罪の条件として割礼を行なったというのも、罪の根が淫乱によって悪の血を受けたところにあったために、堕落人間の体からその悪の血を抜き取ることを条件として、聖別するためであった。(中略)従って人間社会から、この犯罪を根こそぎ取り除くことができない限り、決して理想世界を期待することはできないのである。故に、再臨なさるメシヤは、この問題を根本的に解決し得るお方でなければならない」(一〇五ページ)
血分け教のメシアは悪の血を抜くために再臨するとはっきりのべている。
「人間は堕落した状態に留まっている限り、何らの価値もない存在であるが、真の父母としてイエスによって新生され、原罪を脱いで善の子女となれば、イエスのように創造目的を完成した人間に復帰
するのである」(二六一ページ)
「(イエスによる)十字架の贖罪による救いは霊的な救いだけで、篤信者といっても、原罪は肉的に依然として残っており、それがひきつづきその子孫達に遺伝してきたのである。このために、信徒達はその信仰が深くなればなるほど、罪に対して熾烈な戦いをするようになる。このようにイエスは十字架で清算できなかった原罪を贖なって、肉的救いを完成し、霊肉共の救いの摂理の目的を完遂なさるために、地上に再臨されなければならなくなったのである」(一八七ページ) 霊的な救いだけではだめで、肉的救いを経なければ原罪は消えないというのである。

肉的新生とは何か
「父母の愛がなくては、新たな生命が生まれることはできない。それ故、我々が聖霊の感動によって、イエスを救い主として信ずるようになれば、霊的な真の父であるイエスと、霊的な母である聖霊との授受作用によって生ずる霊的な真の父母の愛を受けるようになる。そうすればここで、彼を信じる信徒達は、その愛によって新たな生命が注入され、新しい霊的自我に新生されるのである。これを霊的新生という。ところが、人間は霊肉ともに堕落したので、なお、肉的新生を受けることによって、原罪を清算しなければならないのである。イエスは、人間の肉的新生による肉的救いのため、必然的に、再臨されるようになるのである」(二六六ページ)
この『原理講論』では、文鮮明がメシア(救い主)であるとか、文鮮明が血分けをおこなうといったあからさまな叙述はない。もしそう書けば、よほどの狂信の徒は別にして広い層に浸透することはできないからである。『原理講論』は「人間の犯罪を根こそぎ取り除く」とか「原罪を脱ぐ」とか「肉的新生」といった抽象的な表現でしか語っていない。
血分け教義は、キリスト教まがいのことばで巧みに粉飾されたきわめて知能的手口といえる。
だが、いくら隠してもその醜悪な本性が隠しおおせるものではない。文鮮明は、内輪の説教ではそのものズバリで語っているのである。入手した文鮮明の秘密説教集には、おどろくべき本音が語られていたのだ。

メシアは文鮮明だ
『原理講論』は、大道香具師的な文鮮明が書いたのではなく、ソウル大学医学部出身の多少インテリジェンスをもつ劉孝元が書いたため、さほどあからさまにいわないだけの才覚ははたらかせている。
が、文鮮明の説教となると生地丸だしで、文鮮明こそ血分けのためのメシアであると語っているのである。
一九七〇年一〇月一三日、韓国の水沢里でおこなった文の「血統的転換」という秘密説教をみよう。
「原罪を取りのぞくには血統的問題のそれが根本的なものとしてその中にある。これをいかに抜きとるか。これは堕落した人間としてはとうていできないというんだね。だからここにおいてメシアが必要である。そのメシアたるものは我々の教えの先生(文鮮明の自称-引用者)じゃないの」
見られる通り文鮮明自身メシアだとはっきりと語っている。
「(血統転換は)どこに行ってその交叉点をつくらなければならないか。それは女の腹の中だよ。そうだろう。女の腹を向ってず一と歴史はもと返しの運動をしたという条件をたたせなければならない。
そうしないといけないよ。そうだろう。そうすると女の腹の中にはらむとしても、はらんだ子供はメチャクチャではいけない。そのはらむべき女がいると共に、はらませる男がいなけりゃならない。結局ある家庭を中心として、神はそういうことをやってきた」「イエス様は男だろ。本当は堕落しないおおもとのアダムだよ。結局は霊的でありながらも霊的においてお父さんだよ。だからこのお父さんと一つにならなければ再び生まれかおる道は全然ないというんだね。そうだろ。だからキリスト教は、イエス様の全ての骨髄の中にまで入ったという慕いこがれる愛情にふれ合う、そういう生活圏を体恤するたった一つの教えだ」
統一協会によると、文鮮明はキリストの再臨だから、ここでいう「お父さん」とは文鮮明。したがって文と一つにならないと生まれかわれないというのだ。

女の腹の中へ入れ
「聖霊がイエス様を助けて、堕落させたエバを引き出してサタンの方に譲ったのを引き入れて、それから自分がもらって、本来の愛情を中心として生んだ条件をたてないというと完全復帰の条件にならないんだよ。これは条件だよ、条件、完全復帰はできないよ。それは悲しいもんだ。そのことわかった(ハイ)。そうするとイエス様を生まらせるには歴史的内縁の心情基準を結合させるための摂理の配合はどうなっているかというと(黒板)、ここまで入るんだよ。女のお腹の中へ入る。ここにおいて間題を解決しなければならない」
この文鮮明の説教は、察するに、黒板に女体の絵を描いて、それを指しながらしゃべっているもののようだ。それにしてもなんとも卑わいな説教ではある。出席した、これから集団結婚が予定されている若い男女の会員が、それに「ハイハイ」と素直に耳を傾けているのである。

不倫行為の奨励
そればかりではない。血統を残すためと称して、不倫の関係を結んだ男女を称賛し、不倫行為を奨励しているのである。
「あんた達タマルについて研究すれば原理すべてがわかるよ。説明してやろうか。タマルは誰と関係してできたの。舅だね。何故舅と関係して生まれた子供がいかにしてイスラエルの血統を受け継ぐことができたか。(中略)タマルは舅と関係するにも、その精神が立派だというんだね。そのときの掟によると、淫行の女は石で打ち殺すというんだね。こういうような時代圏において、自分の第一の夫、第二の夫が死んでしまった。どうせこの血統は神が愛するということを知っている。この血統をまもらねばならない。……神が願う血統をいかに残すかという、愛するかという問題である。血統を愛する。わかる。血統を愛したから血統を復帰しなければならない神の摂理の圏に立ち返る。心情的に立ち返る条件になるというんだね。それにおいて舅と関係した。これを見た場合に舅はどういう立場か、自分のお父さんだよ」
彼らの説く血統転換のためなら近親相姦の不倫行為すら称賛し、これを研究すれば原理の奥義のすべてがわかるという文鮮明のことばに、彼らの本音が如実に示されているではないか。

邪淫の母斑を残した子
文鮮明の説教のいかがわしさは、その師・金百文の血分け理論の直伝のゆえであった。金百文の著した血分け教の聖典『聖神神学』は、より詳細に、より直截にメシアとの性交によってしか堕落人間を救う道はないとのべている。
文鮮明の卑わいな説教は、まさに師の直伝であったのだ。また、統一協会の聖典『原理講論』は、さまざまの〝政治的配慮″によって、本音が抽象的にぼかされたり隠されたりしているが、金百文の『聖神神学』をみることによって、その部分がまごうことなく明らかにされている。
『聖神神学』こそ、『原理講論』の源であり、今日の統一協会は、この血分け教を母体とする邪淫の母斑を残した子にほかならなかったのだ。『聖神神学』のいうところを全面的に暴露する段階にきた。

神のなすべき歴史的大業
まず同書は、アダムとエバの堕落によって、本来は聖なるべき「男女間の性的交際」が、ある「不潔不快感」を伴うようになったとして、これを「聖化」することこそ最大の問題であり、これこそ「神のなすべき歴史的大業」だとしてこうのべている。
「アダムの堕落内容とは、すなわちエバとの夫婦間の性的交際をさしおいて、エバが蛇と姦通したという問題からおきだ犯罪であった。キリスト人を、聖神が最後的には聖化するものではあるが、救いの再創造的人格問題とは、いまのべた堕落の根本となる男女間の性的交際にともなう肉性の情欲性を聖化すること、すなわち人間のあらゆる情欲の根本問題となる肉的性欲を、神が太初に創造し給うた時にもっていた本性、本質に聖化し、復帰させるというのがキリスト人の最後の聖化問題であり、これが聖神の歴史的事業となるものである。この事実がキリスト教の最終末と個人の信仰の最高にして最後の聖化問題となるであろう。ゆえに必然的にこの問題にたいし、宗教的信仰運動の教義的条件のように信仰の全幅的な力を注ぐ時期がくるであろうし、これを割礼や洗礼のような宗教儀式的問題の端緒としたいというのが、本論の主題である」(二一八ページ)
割礼は、旧約、すなわちモーゼの時代にイスラエルの民が宗教的儀式の一つとして男子性殖器の包皮を切りとったこと。創世記一七章には、神と人との契約のしるしとして、男子はみなこれをおこなわねばならないと記されている。
金百文はこれを堕落の血を浄化するための贖罪の儀式であったと定義する。また、洗礼は知られているように、新約、すなわちキリスト以来、頭上に水を注ぎ原罪を洗い浄めて新たな生命によみがえらせるための儀式。金百文はこれをキリスト時代の贖罪の儀式と規定する。金百文は、現在を聖神時代と呼び、この時代にふさわしい贖罪の方法として、神による信者との性交という独特の論を展開し、これを宗教儀式としておこなうことが『聖神神学』全体の主題だというのである。

情欲問題の聖化とは
もう少し同書の説くところをつづけよう。
なぜ性交問題をとりあげるのかについて金百文の『聖神神学』はこうのべている。「誰でも、キリスト教信仰人格を受霊したのも本格的聖化段階に進もうとする時、この問題(夫婦性交)がなにかわけのわからない不潔不快感をよびおこすとともに、神霊生活にも障害となるため、人によってはこの問題をあれこれ考えて苦悶するむきもあるが、これにたいする原理的神意を発見しえず、また根本的解決をみることもできないままに中絶状態で関心すらむけずに終ってしまうという事実がある」(一二八~一二九ページ)
それがわからなくて人びとを苦悶させている「原理的神意」とはなにか。金百文は、大昔の神の愛だという。それは、今日の男女の肉的結合による一体の境地と同じものであったとしてつぎのようにいっている。
「堕落した今日の人間は、肉体的異性である男女の肉的結合のみが瞬間的でかつ影像的なものと感じている。人間の肉的愛が、男女間の異性の肉的結合を目的とし、その瞬間に二体一心の一体的境地を感じる事実、ならびに男女がたがいに愛する相手の性品を理解しようとしてその性格に合わせようとする愛の本能を感じる事実、これらすべての事実は、太初におこなわれた神の愛の名残りであり、その影響なのである」(四一六ページ)
「原理的神意」などというもってまわったいい方も、なんのことはない。男女の肉的結合による一体無二の境地と同じだというのだ。つまり大昔には神と人は自由奔放な性行為をなんのてらいも恥じらいもなくおこなっていたということをいいたいわけだ。ところが、それがエデンの園の人類始祖の堕落によって不潔不快感をともなうという、ありうべからざる事態にたちいたって人びとを苦悶させているから、太初の神の意のままの人間に戻すべく聖化しなければならないというのである。『聖神神学』の説くところを続けよう。

聖神と一体になって体恤する
「したがって、いまや聖神の主導的事業とともに最高かつ最後的に聖化されるべき人間の情欲問題を、エデンにおける人間本性である愛に本能的に回復することによって人間の情欲を聖化させるのである。
そして聖化されたその人格は愛の化身となるのである。この愛は、十字架上で示し給うたその愛に起因する愛ではあるが、キリスト時代の贖罪問題をめぐって感じる愛とは異なった原始的本能の問題である。したがって、すなわちキリスト時代の十字架の愛は洗礼的贖罪の恩寵に報いる程度の感じしか与えない」(一三二ページ)
金百文のいう聖化とは、ひらたくいえば旧約のエデンの昔に還ることである。奔放な性行為がすべて神の愛の名でおこなわれていた過ぎしよき日に似せて、今日の堕落人間をつくりかえようという教えである。だから二〇〇〇年前に出現したキリストではこの聖化の役に立たないというのである。
文鮮明と『原理講論』が強調するように、キリストの十字架の贖罪だけではまだ罪はぬぐえないという彼らの主張のルーツも、この金百文の教義からきたものだ。ではどうすればいいのかー。
「聖神時代のこの愛とは、その愛がしだいに成長して人格的復活において抱かせるエデンの愛である。
ゆえにキリスト人が新生したのちに復活的信仰をもつようになると聖神と一体になって体恤させることによって人格的復帰をみると同時に情欲を聖化する愛である」(一三二ページ)体恤とは統一協会もしばしば用いる独特の用語であり、朝鮮語にしかない朝鮮製漢字である。『大漢韓辞典』によると、普通の意味は「上位にいる者が下位の者の困難な事情を理解して面倒をみてやり助けてやること」。血分け教ではこの言葉をもう少し別の意味、すなわち「神の心情を体位する」という用法のように「血肉化する」とか「心に抱く」という意味に用いているようだ。
このくだりでのべていることは、要するに聖神とキリスト教信者が肉体的に一体となることによって人格的復帰と情欲の聖化を同時に得ることができるというのである。

体礼という贖罪の儀式
『聖神神学』はつづけてこういう。
「ゆえにいまや聖神の時代となると、この愛を聖神がキリストの前で新生した人にたいし、人格的現実において、人と人の世界において直接的に体験させるものである。(中略)この体験をもった者こそ、キリスト時代の洗礼を受けた者が贖罪を公認されるように、聖神時代の最後的復帰事業によって公認される信仰人格者となるのである」(一三二圭二ページ)
なんとももってまわったいい方ではあるが、要は聖神時代には神によって直接に行為された者が、キリスト時代の洗礼のように公認の贖罪行為となるというのである。「したがって、いまや実際的問題となるのは、その愛を現実的に体験することによって、その愛を原動力として人間の情欲を聖化する上において、情欲世界の性欲問題を愛の世界では、まず最初にキリストと、ついで人と人との一体的統一性をもつ聖化人格の内質に化せしめるのである」(一三三ページ)
第1章でふれた統一協会の集団結婚の聖酒式と新生式の儀式を思いおこしていただきたい。メシヤである文鮮明がまず新婦に血分けをし、ついでその新婦が新郎に血分けをするという奇怪かつ醜悪な儀式の淵源はここにあったのだ。
『聖神神学』の言うところをもうすこしつづけよう。
「『遊女につく者はそれと一つのからだになるように、主につく者は、主と一つの霊になるのである』(コリント人への第一の手紙)というみ言葉の通り、キリストと一体となり、キリスト人同士一体となって統一する一体の原理を性欲によるものとばかり思っていた人間が、永遠の真の世界の原理による聖化、すなわち、その原動力となった愛を体験することによって情欲は聖化され、人格は統一をもつようになる。聖神はこの事実をその時代の宗教運動として、洗礼の儀式的条件のように持たせ給うたのである」(一三三ページ)
性欲によって一体化するのではなくて、愛による一体化でなくてはならないというのだ。
先にもふれたが、文鮮明の師・金百文は、「神の歴史的大業」を説く前提として歴史を三つに区分し、これを聖三位とよぶ。すなわち、モーゼの時代を父性時代、キリストの時代を子性時代、今日を聖神時代とよぶ。そして、それぞれの時代に、悪の血を浄化し堕落を贖罪する儀式が存在したとしてつぎのようにいう。
「神の聖三位のなかで、旧約は父性時代でありその時代の律法宗教においては『割礼』が、その時代とその宗教の内容的象徴であったように、新約の『洗礼』は三位のうち子性時代の救贖宗教の象徴的な聖体であった。このように三位に時代的区分をおこなうとき、しからば最後の聖神時代にいたって聖神が示し給える儀式的問題がなければならない」(一二六ページ)
割礼や洗礼に相当する「絶対的な儀式」が必要だというのである。
「ゆえに、いまやこれにたいする儀式的名詞を、父性時代の『割礼』、手性時代の『洗礼』のように聖神時代の役事を定義するならばこれは『体礼』と称するのがもっともその内容に合致したものとなる」(一三四ページ)
「体礼」なる贖罪の儀式が登場してきた。「これはすなわち人格的体験として、聖神がなし給うと同時に、その体験をもつことによって聖神の事業にかなった者であることを儀礼として認定せしめるのである」(一三四ページ)
これを受けると罪が浄められたことが公認されるというのである。

キリストと人が一体になるということは
「体礼」という新たな贖罪の儀式。金百文の独得の血分け理論にもとづく。独創的〝儀式″であり、これこそ血分け儀式にほかならない。これを通過せずしては、太古の人類始祖の性的淫行による堕落の血を浄化できないという。この体礼なる儀式についてもまたさまざまの意義づけや説明がある。
金百文の『聖神神学』はキリスト者はみな「キリストの聖体」、すなわち「キリストの血と肉」を食べねばならないと教える。「この聖体の血と肉を食うことによって新生するとともにキリストの血統で新生し、キリストとの血統的生命関係を結ぶように」ならなければ堕落人間は救われないという。
では、キリストの肉と血を食するとは――。
これは「けっして観念的でも、理解して意識する問題として解決される事実ではなく、どこまでも実在的内容性をみいだしうる体験的な実際的事実である」(三四八~三四九ページ)としてこうつづける。
「この食するということの事実的問題は、いま、血、肉が物体として存在するということではない。といって象徴的な、なんらかの葡萄酒のたぐいで代用することもできない、あくまで意義的であると同時に抽象的な理解とは異なった事実的内容性がなければならない問題だというのである」(三五六~三五七ページ)。キリストの聖体、すなわち「キリストの血肉は、食べる前はキリストの聖体であり、食べたあとはその者の生命であることを教えることである。ここにおいて、食べるということは、いまや彼と一体となる事実を意味するものとなるとき、キリストと人との一体的意義は、食物と肉体とのように生命一体をいうものである、すなわち肉体の生命は食物に依存していることをじきじきに教え給うように人間生命は血肉に依存しなければならないことを知らせ給うたのである」(三五六ページ)
キリストと人とが一体となることによって人間生命を維持するというのである。それでは、キリストと人とが一体になるとはどういうことか。

太初の理想的な姿
キリストとキリスト教徒との一体の説明にもまた聖書のつぎのくだりが引用される。
「枝が葡萄の木に付かなければ自然に実も結べない」
この「本体と枝との関係は一種の比喩問題としてのみ意義的価値があるのではなく、キリストとキリスト人との全体的問題を指示したもの」だと『聖神神学』はいう。すなわち、本体と枝とを連絡する原動力的生命内容が実在するというのである。その原動力的生命内容がすなわち「キリストの聖愛」だというのである。
「ここにおいて、植物の問題として解説するようになったこの問題においては、そこに真液的生命連絡が実在することによって所期の結果を実現するように、キリストの愛のみが樹木の真液のように信仰結果の主管的現実内容としてキリストとの生命関係となった本体と枝において連絡をたもつということである」(四一四ページ)
この生命真液であるキリストの聖愛とは、「神にあっては神の属性であり、人にあっては生命の本性」である。太初の人間はこの愛を本性としてつくられたにもかかわらず堕落によってこの本性を失なってしまった。それによって「人間は、この愛の本質ではない情欲という肉性の異性的な悪の質をもつようになり、人が手にする収穫のいっさいを愛に結実できず、情欲としてもたらされるようになった」(四一五ページ)
だから、これを本来の神の聖愛がみちあふれる状態に帰さねばならないのだとも言う。そのためにはー。
「人をしてつねにその生命の本性となるこの愛の性能に従い、またその生涯を神の帰属的目的によって生きるようにすることである。これによって愛の本体は神であり、その本体を人間の本性とし、人をして神との生命連絡をなすには帰属のみならず、帰来的に人間本性をして神との性的統一性をなさしめることである」(四一五ページ)
この神との「性的統一性をなすことによって人は常に愛の帰属、帰来的性格によって神の性品を本性にもつようになる」(四一五~四一六ページ)
「太初のこのような愛が、人間をしてつねに神を知り、その性品との性的統一体として生命の結実をみた」(四一六ページ)。
この神との性的統一体こそ太初の理想的な姿であったと『聖神神学』はいい、先にも引用したようにそれがいまなお男女の肉的結合による一体感のなかに名残りをとどめているのだと説く。

性交によってのみ可能な神人一体
彼が、『聖神神学』においてくだくだしく説いてきたことも、つまるところ「神との性的統一」をいいたいがためであった。聖血をもった聖神によって堕落人間を聖化するということは、つまり「神人一体」(四一八ページ) の境地に人を誘導すること、それは性交によってしかおこなえないということをいわんがためであったのだ。
この「聖神との一体化」によってついに「合神一体となった聖化人格なる霊肉統一した現実的神通性をみるようになる」(四五四ページ)。同時にこれによって「人間の肉体機能まで聖化される霊統性の統一」(四五五ページ)を実現できると彼は主張するのである。

〝独創的″な金百文のセックス教体系化
エデンの園の禁断の木の実を食べたことで堕落した人間が、神の聖体を食べることによって本然の人間に復帰するという金百文の〝独創的″理論によって、はじめて血分け教の全体系は確立した。
どちらも「食べる」という行為を性交を意味すると解釈したことが、彼の理論全体をつらぬくモチーフであり、そこに彼の〝独創性″があった。
そのくだりを金百文の別の著書『キリスト教根本原理(三大原理)』から引用することによって、彼のセックス教の体系の紹介のしめくくりとしたい。
「人間が堕落したという事実を『食べる』という問題によって象徴したように、人間の救済の道についても『食べる』という問題で解決した象徴的な比喩がすなわち、救霊贖罪の対象となったキリストの聖体(血、肉)を人間が『食べること』によって永遠の生命を得るであろうとのべ給うたくだり(ヨハネ六~八章)である。
このように、聖体を『食べること』によって永遠の生命を得るだろうとのべ給うたが、それもまたロで『食べる』という問題とは違った別の象徴であった。ゆえに、その本意は、『食べること』対『食べること』の象徴的な比喩をもって堕落人間の救済原理を教えたということは『食べる』ということが意識の問題でもなくかつ観念的な問題でもない実質的体験問題を意味すると同時に血統的影響性を伴う人間の生理的本能問題であったことを意味するものである」(四八二~四八三ページ)
「いまや、結論的に立証される事実をいうならば、すなわち『食べる』という同じ言葉による象徴で示された堕落と救済という相反する結果は、人間が善悪を知る木の実を『食べること』によって悪くなった結果、情欲の罪悪性の発生による堕落を、キリストの聖体を『食べること』によって情欲とは正反対のキリストの愛を性品的に感じるようになることをいう。これをみても、人間の罪悪性が発生した根本を物語る反証的相対問題となり、善悪を知る木の実を『食べること』を、聖体を『食べること』によって解決せしめた情欲対聖愛の結果の現実としてもその実体を論証することが可能となったのである」(四八三ページ)

「食べる」ことの実効的な影響
金百文がとりわけ強調していることは、神の聖体を「食べる」ということもけっして比喩ではなく、実際の体験であり行動だという点である。さきの引用のなかでも、これを「観念的な問題でもない実質的体験問題」であり「人間の生理的本能問題」とのべている。
この言葉の意味を直截に性交だとする記述は注意深くさけてはいるが、これまでの彼の論の展開からみて、まさにこれは神との性交以外のなにものでもない。それを念頭においてつぎの記述を読めば、彼がなにを強調したいかが一目瞭然である。
「そこで(キリストの聖体を)『食べる』ということは、人間の生理的行動のうちの一つとして、それは理論でも意識でもない、どちらでもってしてもおきかえることのできない生存生理の行動問題となり、『食べること』の実効的な影響のみは実在的にその肉体活動に現われざるをえないのである。こうした意義の象徴的な相対留意をもつようにたったことを知ってはじめて、聖体の関連性とその意義の真の意味を理解するようになったということである。そしてなによりもこの事実は、信仰の実際の体験においていっそう共感的に理解するようになるだろう」(六六四ページ)

血分け教の嫡子=統一協会
以上みてきたように金百文の理論は、禁じられていた木の実を食うという淫乱行為によって堕落し、その堕落の血を後世の子々孫々にまでうけつがせた堕落人間を、神が性交によって聖化させると説く血分け教の教義にほかならなかった。この救済の行為を彼は体礼とよび、これを割礼や洗礼と同じような原罪をぬぐうための贖罪の儀式と規定した。
さらに、この性交儀式を一つの宗教運動としておこそうというのが、この章の冒頭で引用したように『聖神神学』全体の主題なのである。と同時に、血分け教の開祖としての金百文の運動目標であったのだ。
こうした教祖の教義と主張の全般を六ヵ月間にわたってその膝下で親しく薫陶をうけたのが文鮮明であった。彼が説教のなかでしばしば強調するように堕落した人間は、堕落と逆の経路を通って復帰しなければならないという主張や、彼ら統一協会の聖典『原理講論』の堕落論と復帰摂理がまぎれもなく金百文理論の剽窃にすぎなかったことが明らかになった。統一協会はまぎれもなく血分け教の嫡子であったのだ。


Kim Baek-moon English translation