7. 統一教会に入信して殺されたわが兄

週刊文春  Shūkan Bunshun   1993729日     38-41頁


瀕死の病床を見守る洋志君と母 ▲

統一教会に入信して殺されたわが兄


十九歳の時、街頭アンケトで統教会に誘われた船木淳志君は、信者と共同生活をしながら学校を卒業印鑑売りや魚の行商をしながらアメリカヘ渡ったそして、昨年街頭でバラ売りをしていて、強盗に襲われ死亡した薄幸だった兄の生涯と最期を弟が告発!


告発手記



▲ 船木洋志        事件が起こった現場で

私の兄は昨年五月、アメリカのフィラデルフィアで強盗に襲われて殺されました。統一教会の経済活動として、街頭でバラを売っている時の出来事です。

三十二歳でした。兄の名は淳志と書いて「あつし」と読み、私は洋志と書いて「ようじ」。三つ違いの、二人きりの兄弟でした。

この事件は、日本では全く報道されないままでした。犯人は捕まらず、真相は今もわかりません。

一年以上たった今、こうして兄のことを世間に訴える気持ちになったのは、私たちの家族だけが悲しんで済む問題ではないと気づいたからです。

統一教会に家族を取られ、苦しんでいる人たちが日本中にいることを、私は知っています。

いつ誰が、同じような事件に巻き込まれるかもしれません。統一教会の活動の実態について、少しでも多くの人に知ってもらいたい。そして、こんな悲劇は二度と起こらないでほしい。そのために行動を起こすことが、兄の死と私たちの涙を、無駄にしないことだと気づいたからです。

私の家は、父、母、兄の四人家族です。兄は大阪府立工業高専(五年制)の四年の夏、街頭アンケートで統一教会に誘われました。

もう十四年も前、七九年のことです。それまでの兄は弟の私から見ても真面目で、よく笑う兄でした。剣道が好きで、全国大会にも出場するほど。その頃は八時には帰宅して夜中の一時頃まで勉強するのが日課でした。それが十二時、一時になるまで帰って来ない。母が尋ねると、「ボランティアをやっている」と言う。「学校とは両立できるんか?」と聞くと、「できる」という答えだった。

しかし「学校をやめる」と言い出すまで、わずか三ヵ月しかかかりませんでした。成績も、みるみる下がる一方。父が激怒すると、

「自分は正しいことをやっている。そのうちソ連が北海道へ上がってきて、お父さんもお母さんもオノで殴り殺されるんやぞ」


▲ 淳志君の墓 () と統一教会式の葬儀 ()

昼食代四百円だけで伝道に

結局、兄は家を出て、統一教会のホームで信者と共同生活をしながら、学校へ通うようになりました。両親としては、退学させないための妥協だったのでしょう。兄の同級生に話を聞けば、「船木君は授業中、いつも寝てる」とのこと。日記を見ると、午前一時に寝て朝は四時に起き、統一教会の活動をしていたといいますから、無理もないことです。五年の夏休みには、キャラバン隊で珍味売りに出かけました。

兄は卒業と同時に、「やらなきゃ一生後悔する」と、献身(統一教会系の企業で働くこと)しました。最初は大阪の京阪沿線で伝道、やがて愛知県の岡崎で印鑑売り。八三年の十一月からは「一心天助」で軽トラックによる魚の行商をするようになります。

普通の信者と違うのは、どこへ移っても、電話や手紙でちゃんと居場所を伝えてきたことです。まだ大阪にいた頃のこと。母宛てに「千円送ってくれ」と連絡がありました。母は心配になってホームまで出掛け、最寄り駅の改札で帰りを待っていたそうです。

夜遅く電車から降りてきた兄を捕まえると、「実は腹が減って腹が減って、仕方ないのや」と言う。近くの焼き肉屋へ連れて行くと、兄の食べる恰好は、それこそ餓えた子供のようだったと聞きました。「肉なんか食べたことない」と。いい匂いが漂う焼き肉屋の前を、腹を空かせながら朝晩通り過ぎ、貧し食事をしていたのでしでしょう。話を聞いてみると、「伝道に行くのに、毎日ちょうどの電車賃と、昼食の四百円だけもらってホームを出るんや」

「四百円いうたら親子丼にも足りん。玉子丼くらいしか食べられへんやろ?」

「うん」

「暑いさなかやのに、缶コーヒーも飲めへんやないか。のど渇いたらどないすんねや?」

「公園で水飲むんや」

……。千円貸してくれ言うたかて、返されへんやろ。くれ言うたらどないや」

母は、二千円渡して別れたそうです。その後の人生で兄は腹一杯焼き肉を食べることがあったのかどうか。

その頃は、三、四ヵ月に一度くらいは帰宅していました。数時間しかいないのですが、帰りにはそうめんだのスイカだの、家にある食べ物を持って行きます。自分で食べるのではなく、「ホームの近くでおばさんたちに売るんや」と言うのです。

父は「こいつ、階段から突き落としたろか。足の一本でも折って入院でもしてくれたら」と、何度も考えたと言います。

「一心天助」では横浜、次いで杉並で働いていました。魚のことなど何も知らない兄は、お客さんから「今の季節の旬は何?」と尋ねられ、「シュンて何ですか?」と聞き返すほどだったそうです。

それでも頑張ったのでしょう。売り上げが一位になって記念のアルバムを貰い、教会の指示だったのでしょうが調理師の免許も取っています。

 

同居することがなかった結婚

その調理師免許を手にアメリカへ渡り、統一教会が経営する日本食レストランのコックとして働くことになったのは、八六年八月。それから六年、一度も帰国しないまま、兄は死を迎えたのです。

母に言わせると、海外で働いてみたいというのは幼い頃からの希望だったようです。中学生時代には、青年海外協力隊に入りたいと言っていたとか。

アメリカ生活は二年だけの予定でした。フロリダ州ジャクソンビル、サウスキャロライナ州コロンビア、ノースキャロライナ州イーストメイナード、ワシントンD.C. のレストランを転々としました。

統一教会員としての生活は日本ほど過酷でなく、釣りなどをして遊ぶ余裕もあったようです。「ジョーイ」という愛称で呼ばれて、アメリカ暮らしをエンジョイしているようでもありました。料理の腕も認められ、常連のアメリカ人客から「店を一軒任せるから、やってみないか」と誘われることもあったようです。

それでも二年たつと帰国するつもりで、飛行機まで押さえたのです。ところが家から送った荷物が遅れ、乗るはずの便を見送った。そこへ、違う店を手伝うようにという指示が出て、また働くことになったのです。

バージニア州リッチモンド、再びサウスキャロライナ州コロンビア、ウエストバージニア州チャールストン、ニューハンプシャー州ポーツマスと東海岸を移動したのち、最後の職場となったニューヨークのニューヨーカーホテルの日本食レストラン「SONOBANA」へたどり着きます。

その間、八九年には合同婚。相手は東京に住む四つ年下のK子さんです。送金の依頼を両親が断ったので兄はソウルへ行けず、K子さん一人が兄の写真を持って参加しました。二年後、K子さんはアメリカの兄のもとを一週間程度訪れました。

結局二人は同居することなく、結婚生活はその一週間が全てとなりました。

兄は、アメリカの永住権を取るつもりでした。昨年六月、その手続きのため、今度こそ帰国する予定でした。事件は、その一ヵ月前に起こったのです。

五月十日、兄は他の教会員A氏B氏の二人と、車でフィラデルフィアヘバラの花売りに出掛けました。

三人は、別れてパラ売りをしていました。十九時頃、A氏が車で迎えに行くと、兄は後片付けの最中でした。

現場の向かいにあるケンタッキーフライドチキンでトイレを借りたA氏が、数分後に出てくると救急車が来ていて、兄が応急処置を受けている。目撃者の話によると、二人組の若い黒人男性が背後から金属製の棒でいきなり兄の頭を殴りつけ、時計から売り上げから免許証から、身ぐるみ剥いでいったそうです。

そのままペンシルベニア大学付属病院に担ぎ込まれました。所持品がなく、身元不明の兄に名付けられた仮の名は、「ジョーイ」。不思議なことですが、アメリカ生活での愛称そのまま「ジョーイ」と呼ばれたのです。運ばれた時、すでに意識がない状態でした。が、何事か口にしたようです。でも日本語だったので意味がわからなかったと、後で主治医の先生は悔しがっていました。

大阪の我が家に事件の第一報が入ったのは、それから十二時間もたった日本時間の十一日午後九時頃。B氏からの電話で「淳志さんがアメリカ人の男性に殴られて、病院に入っています」。この時点では、まだ重大性はわかりません。

しばらくしてまた電話があり、「脳内出血をしているので、血を抜く手術を受けています」。ここで家族は青ざめました。午前一時に三度目の電話。

「危篤状態に陥ったので、至急来ていただきたい」

事件が起こる日の朝、私は夢を見ました。ハイキングしている夢です。草原を歩いていると、男の人が痙撃を起こして倒れています。そこへ救急車が来て、注射を打とうとするのです。安楽死させるための注射だと言います。私は「まだ死ぬかどうかわからんのに、何するんや!」と叫ぶ。そんな夢でした。

一夜明け、私たちは渡米の準備にかかりました。飛行機や宿の手配は、全て統一教会任せです。父は仕事の関係で大阪に残らねばならず、母と私は成田でK子さんと合流。ニューヨークに着いた十三日の夕方、すぐに病院へ直行しました。

頭を剃られ、マネキンのように横たわった兄には、脳の血を止めないように呼吸を早める処置が施されていました。呼吸が早いせいで、兄の体はベッドの上でバウンドしています。それは夢の中で見た男性の、痙撃の姿そっくりでした。

これが兄との、六年振りの再会です。

通訳は全て、教会員のB氏が務めました。主治医の説明では「頭部の損傷が大きく、呼吸以外の殆どの機能は失われています。回復の可能性は全くありません。この若い命を救うべく全力を尽くしましたが、ほぼ絶望です。」というお話でした。

十五日には、決断を迫られました。

 

発泡スチロールの冷蔵庫

「今は薬物投与などにより、延命している状態です。これから先、薬の副作用が出てきて、その副作用を抑えるため、違う薬を投与するという繰り返しになります。もちろんご家族の希望を最優先しますが、人道的に、呼吸器を外し、静かに最期を迎えさせてあげることを考えて下さい」

K子さんも交え、「一日考えさせて下さい」と答えました。話し合った結果、翌日、人工呼吸器を外してもらいました。 兄の目はわずかに開いたままですぐ乾くので、時たま看護婦さんが目薬を注入してくれます。それを知らない母は、涙が溢れるように潤んだ兄の目を見て、「淳志、泣いてるんかなあ」 と呟いていました。 十七日、兄が滞在していたニューヨーカーホテルへ行き、荷物の整理。アメリカに来て六年たつのに、兄の荷物は驚くほど僅かでした。衣類の多くは以前私が着ていたもので、パジャマには穴があいていました。

部屋の隅には、プラスチックでできたオモチャのような一人用炊飯器。その横に、発泡スチロールの中に水の入ったコップニつと微びたミカンにパンの食べかけ。これが即席の冷蔵庫だと気づくまで、時間がかかりました。水は氷の溶けたもので、そのせいでミカンは徽びてしまったのでしょう。

この日の夜九時十六分、兄・淳志は息を引き取りました。統一教会に入って家を出てから十三年、あの即席冷蔵庫が、兄の生活の全てを象徴しているようでした。

翌日は警察の検死。十九日は、統一教会による葬式。「昇華式・元殿式」というのだそうです。葬儀のやり方もニューヨークの墓地に埋めるということも、全て統一教会の主張のまま。

天に召されることは新たな旅立ちだからと男性は白いネクタイ、女性は赤いカーネーションを付けた服装や、埋葬の際に両手を挙げて「万歳(マンスエ)」と叫ぶのは、それがやり方なら仕方ありません。ただ、せめて日本へ連れて帰りたいという母と私の願いが、どうして無視されるのでしょうか。日本へ持ち帰ったのは、わずかな遺髪と爪だけでした。

帰国して二十四日に大阪・阿倍野教会で行われた「昇天祈祷会」も、家の親戚も集まるというのに、ずいぶん勝手なやり方でした。この時、兄を街頭アンケートで伝道した「霊の親」と呼ばれる女性が来ていて、父と私に挨拶していきました。後でその事を母に話すと、

「どうして教えてくれんのや!ほっぺたの一つや二つ、張り倒してやったのに」

と叱られました。

統一教会のやり方に我慢がならないのは、式典の方法だけではありません。

六月上旬、統一教会の総務部長と阿倍野教会の副会長、それに「家庭教育コンサルタント」という名刺を持った人物が家を訪れました。母が、「死亡診断書には『就業中に事件に巻き込まれた』とある。労災は適用されないのか」と尋ねると、統一教会の人間でもないコンサルタント氏は「信徒活動中の事故です」と言います。

今もって、彼がどんな立場で家を訪れ、どんな権限をもってそう言ったのか、納得できません。また、「健康保険や年金はどうなっているのか」との問いは、次に訪れた統一教会アメリカ事務局の人によると、「若い信者は保険や年金には入っていない」とのことでした。

結局、統一教会からは香典として二百万円あまりが出ただけです。その無責任さに、一時は損害賠償の裁判を考えたこともありました。

 

なぜ日本で報じられないのか

しかし一年たった今となっては、お金の問題はもういいのです。私たち家族の願いはまず、兄の遺体を日本へ引き取りたいということです。

次に、事件の真相を知りたい。現地の教会員に、「テレビで公開捜査をしている」と聞いたが本当なのか。本当なら、どう進展しているのか。

真相といえば、事件発生から家に連絡があるまで、十二時間もかかったのは何故なのか。A氏の話では、兄は救急隊に囲まれていたので近づけず、どの病院に運ばれたのかを突き止めるまで時間がかかったということでした。

しかし友人なら、人をかき分けて近寄り、「彼は私の友人だ」と名乗り、救急車に同乗するものではないでしょうか。

アメリカでの埋葬にこだわったことといい、事を表沙汰にすまいとする統一教会側の意図のようなものが感じられてならないのです。今思えば、当時の私たちは統一教会の実態について、まだまだ認識が甘かった。それが残念です。

またこの事件は、なぜ日本で報じられなかったのか。外務省に問い合わせても、海外で亡くなった日本人の中に兄の名前はありません。

そしてマスコミを通じて訴えたいことは、統一教会の信者の悲惨な生活と危険です。身内に信者がいない人にも、ここに述べたような実態を知っていただきたいのです。

今も夢を見ます。この前はこんな夢でした。―兄から電話が入ります。

「今、大阪空港にいるんや。車で迎えに来てくれ」私が二階の窓を開けると、迎えに来いと言ったはずの兄が歩いてくるのです。部屋へ入れると、うれしそうにアメリカの話をします。そのうち、「台所で魚さばいてやるわ。うまいんやで」と立ち上がります。そこで私が我に返り、「兄貴は死んだはずやのに」と思った瞬間、兄は寂しそうな表情になって、やがて顔がぼんやりと消えていきます―。

思い出を辿るのは辛く、私たち家族の無力さは情けない限りですが、兄の死を無駄にしないためです。どうかこの現実を、わかっていただきたいのです。