28年間、統一教会やKCIAと戦った卓明煥の証言


▲ 卓明煥


28年間、統一教会やKCIAと戦った卓明煥の証言

卓明煥先生は1994年2月18日にカルトメンバーによって殺害されました。卓明煥先生はその数日前にこの証言をしました。

ソウルの日曜日、昨日までの車の渋滞が消えて、漢江の流れも休んでいるかに見える、そんなある日、私は柄にもなく韓国の教会巡りをした。
「韓国では茶店の数より教会の方が多いと言われますが、事実この国は宗教国家で、5千万人□のうち4分の1がキリスト教徒だと言われています。」「仏教徒は2千万で数はクリスチャンを上廻っていますが、その活動たるや年に一、二度形だけの儀式に参加する仏教徒と違い、クリスチャンは自ら通う教会を持ち、毎日曜礼拝に参加しますから熱が違います。」「金泳三大統領もクリスチャンで毎日曜協会に通っています。北朝鮮からやって来た金賢姫もクリスチャンになりました。」ソウル取材で出会った人達は口々にそう語ったが、事実、日曜日ソウルの教会を巡ると、いずこも超満員、中でもH教会などは劇場かと思うような豪華さで、数千人の信者が壇上の人気牧師の説教に聞き入っている図は、これが韓国人のレジャーかと思わせるような錯覚におちいる。説教の終わり頃廻っててくる献金袋に全員がなにがしかのウォン紙幣を入れる。韓国はキリスト教国、そう思って間違いない。
このキリスト教隆盛の韓国で誕生した統一教(韓国では統一教会のことをこう呼ぶ)は言うまでもなくやはりキリスト教系宗教である。しかし長老派と呼ばれる韓国の正統キリスト教会から見ればこの統一教は邪教、異端ということになる。この統一敏の異端性を28年間主張し、統一教と戦ってきた男が韓国宗教問題研究所々長の卓明煥である。今年56才になる。
この卓明煥、日韓の統一教会研究者で知らない者はいない有名人である。特に1979年に彼が著した「統一教の実像と虚像]は統一教会ウォッチャーのバイブルともなって今日に至っている。
私がこの卓氏にソウルで接触しようとした時、統一教元信者のAという人物からこんな忠告を受けた。
「卓明煥なる男は「統一教その実像と虚像」の出版前にも血分けなどについて論文を発表し、その中で梁充永女史とその子息李栄氏のことを書き、文鮮明とは梁の夫が生きている時から普通の関係ではなかったと書いて1978年に名誉毀損で拘東されました。その時朝鮮日報他ソウルの五大新聞に謝罪文を掲載しています。私が統一教にいたその当時、卓明煥は統一教の犬となったと統一教の内部で言われていました。会われても収穫はないでしょう。」
しかし私はこのAの言葉を信用しなかった。卓明煥の著作を何冊が読んだ印象で、それが長年の研究によって書かれたものであり、その内容に多くの真実があるとの感想を持つたからである。
最初この卓は私の接触に警戒感をあらわにした。人を介して彼に会うまで数日間を要したが、会ってみると気さくな好人物であった。
「失礼しました。初対面の人を警戒する習性がついています。」そうして卓は顔の傷、背中の傷、足の傷を次々と見せてくれ、襲撃された時の血痕のついた衣服など見せてくれた。「私が統一教やエセ宗教と戦ってきた28年間の集大成がこの傷跡であり、この衣類です。暴徒に襲撃された数はギネスブックものですよ。」と寂しく笑った。私はこの人物に好感を持った。

▲ 京都  1983年10月223日    宗教弾圧を糾弾する     信教の自由を守ろう
卓明煥による宗教迫害を糾弾する


私など一度でも襲撃を受ければ、そんな取材やウォッチングにはハイサヨナラである。それがこの男ときたら28年間も一一。私はその日から何度も卓を訪ね、食事を共にして「卓明煥」なる人物を知るように努めた。日々の経過と共に護身用に身につけている拳銃を見せてくれ、そして他人を初めて入れるという卓の秘蔵の資料室にも入ることができた。そこには日本で出版された数多くの統一教会関連の本や資料も保管されており、私は羨望のため息をついた。
卓は1937年、全北扶安で出生した。統一教に強烈な印象を持つのは1955年、高校生の時である。この年、統一教の一大スキャンダルといわれる梨花女子大事件が発生している。

「梨花女子大事件もそうですが、その頃全州で名の知れたある弁護士の娘が統一教におぼれ、それを悲観した弁護士が自殺するという衝撃的な事件が起きました。一体統一教という宗教は何なのか、それが私と統一教との接点の始まりです。」
長老教神学大学を卒業して牧師になる夢を捨てて基督信報の記者として働くようになった1965年から本格的に統一教と対峙するようになり、その後28年間今日までその戦いは続くことになる。
「統一教が超教派運動という名目を立ててキリスト教牧師を表面に立て、裏では統一教幹部が実権を握るという形で信者を獲得しようとしていたのです。当時、今もそうですが韓国で統一教の人気はガタ落ちで、そうでもしなければ信者が集まらなかった。その内幕を私が記事にしたことから統一教との本格的な戦いが始まったのです。記者生活を通じ私、は統一教の異端性を訴え続けました。その後、私は講演にも呼ばれるようになりました。私の講演会場には統一教徒が押し寄せ、会を妨害したり、暴力を振るうなどの脅迫を繰り返しました。その数は30回を越えています。」
そして遂には卓はKCIAに連行されるのである。
1972年8月31日の年来です。3人の男が家にやって来て私を無理やりKCIAの施設へと連行したのです。最初警察までと言うので安心していたのですがKCIAの施設だと知った時には正直恐ろしく思いました。それまでにKCIAの残虐性についてよく聞いていましたから。」
1972年はKCIAによって白昼東京グランドパレスからら到されたあの金大中事件のあった翌年である。KCIA活動の全盛期であったと言っていい。
「彼らは反共活動をする唯一国家的な団体である統一教を批判し、その活動を弱めさせようとするごとき行勣は共産主義者、金日成を利するスパイの手法であるといって拷問を加え、私の背中をこん棒でたたき続けました。12時間ぶっ通しの拷間で釈放されはしましたが今でもその後遺症で両肩が痛むのです。」と卓は語り、私が「しかしそれをもって統一教がKCIAと結託していたとの証拠とするのはむつかしいでしょう。」と言うとこんな話をしてくれた。
「当時軍隊での兵に対する反共教育は統一教が担当していたというK軍幹部の証言を聞いています。事実、その教育を受けた兵の中でもあの教育は統一教によるものだったと証言できる人は何人もいます。」
統一教会は否定するのだが、統一教会とKCIAの関連については今日まで何度も指摘されてきたことである。
アメリカのコリアゲート事件が発生するのは、1969年から70年代にかけてである。朴正煕政権が朴東宣や統一教会の朴晋煕などを便って米政界へのロビー工作を大々的に行ったとされる事件である。
「朴正煕の側近でKCIAの幹部であった朴普煕らが統-教に転じた背景には朴正煕が統一教を世界の世論操作の先兵にしたてようとした目論みがあったとされています。今、金大中事件の20年目の真相が間われていますが、いずれ統一教とKCIAの関連についても問われる日がやってくると思います。」ソウル取材で会った統一教ウォッチャーの話だが、「統一教に反対することは共産主義者である」「統一教が。軍の反共教育を行った」とする卓の証言は卓自身がKCIAの拷問を受けた超本人であるだけに、その意味するところは大きい。
1977年10月、朴正煕が暗殺され全斗換の時代となったが、その後も卓の話によると統一教は卓を懐柔しようとしてあらゆる手段と方法を駆使したという。
「3億ウォンを出すから批判を止めるよう要諦してきたが私はこれを拒否しました。
1978年になって、統一教会側から幹部を通じて会いたいと言ってきた。朴正煕大統領が死んだことで出版した私の「統一教会での実像と虚象」や後出しようとしていた「写真から見た続一教の実像」についての講義でした。約束の場所に行くと事前に統一教会に謝罪文に署名するよう脅迫した。写真集にも文教主と女性の関係についての内容が多く含まれていた。前年に朴正煕は死んでいてもKCIAの無言の圧力もあった。結局その写真集は印刷費300万ウォンを印刷所側が賠償することで絶版となったのです。
このことで私は統一教から300万ウォンを貰ったと誇張され、その後この件は統一教の宣伝用具として悪用されてきました。朝鮮日報他に出された謝罪文章は統一教が書き、その莫大な広告費用も統一教が出したのです。」
この謝罪広告の反響は大きかった。既存のキリスト教会の多くが「卓は統一散に寝返った」と糾弾してあらゆるデマが流布される。その時卓は韓国社会とキリスト教会から完全に埋葬されたのである。
「私は完全に地に落ち、凄絶な気持ちでした。死のうとも思いましたが私はキリスト教徒です。自殺は許されません。」
元統一教会員が私に忠告した「卓は統一教の犬と言われている」の言葉もこの時代に流布されたものであったに違いない。
私は卓のこの時代の苦悶の話を聞いて、自らの体験を思い起こさずにはいられなかった。今年4月、「山崎浩子統一教会脱会騒動」があった時、私は統一教会の霊感商法を糾弾することは続けるが、いかに邪悪な宗教の信者をいえどもその山崎浩子の自由を一瞬とも奪い、強制改宗させることには人権上の問題があって反対だとの主張をなしたことがある。その時一部のマスコミからバッシングを受けた。私も又「統一教会の犬?」と評された時があったのである。卓の苦しみの日々は理解できた。私の「本当に統一教から金を貰わなかったのか」とのぶしつけな質間に卓は、「もし貰っていたら私のその後の統一教との戦いはなかったはずです。」と答えている。
卓のその後の運命もまた過酷である。1985年、何者かによって家の前に止めてあった車に時限爆弾が仕掛けられ、それが爆発し重傷を負っている。
「失明の恐れがありましたが6時間に渡る手術の結果、奇跡的に視力を回復することができました。警察は捜査しましたが犯人は捕まえられなかった。」と語り、その2年後に話は進んだ。
「あいつを殺せ、と統-教の頭目が叫び、その後ろから数十人の統一教の特攻隊員が飛びかかってきました。教会の講壇にいた私は避ける間もなく1人の強靭な特効隊員の手にあい講壇から2メートル下に引きつり下ろされてしまいました。彼らは目つぶしの唐辛子を撒き、殴る蹴るの乱暴を働いたのです。」
1987年10月18日、観光地として知られるソクリ山近郊のボワンという都市で開かれた講演会に講師として呼ばれた時のこの襲撃を卓は今も昨日のごとくに思い出すと言う。
「約20分間集団暴行を受けた後、誰かが私の首を絞めていました。服が破れ、時計が落ち、顔から血が吹き出していました。ああこれが最後か、こうして死ぬのかと思った時、誰かが私を絞め殺そうとしていた特効隊員の手の甲を噛んでくれたのです。」
卓は駆けつけた警官や教会関係者の青年たちに担がれ救急車へと運ばれる。
「その時統一教信者のマンセ(万歳)との声が聞こえました。その瞬間私の目から涙が溢れ落ちたのを覚えています。病院へ運ばれ、特効隊員の手を噛んで私の命を救ってくれたのが女子高校生だったことを知らされました。」
そして、昨年10月、韓国で終末論が騒がれたその終末の日深夜、家に戻った卓を暴漢2人が前後から襲い、30cmの刃物で横腹と背中を刺し重傷を負わせた。
「私のこうした28年間の衝撃がすべて統一教によるものだと断じてはいません。証拠もありません。他のエセ宗教の信者かもしれません。しかし今28年間を振り返ると私にはどうしても統一教の狂信者たちの顔が脳裏をかすめます。今神学を勉強している息子が私の後を継ぐと言うのですが、絶対に私の後継者などいりません。息子には平穏な人生を送るよう勧めています。」
卓は自らの眼や、死後の身体を医科に提供する登録を済ませていると言い、ある曰の日
曜日私を自ら通う教会へと誘ってくれた。そこは既に見ている粗末な教会で、身体の不自由な人々の通う教会であった。
「私が毎日曜礼拝する教会はここなのです。ここの身体の不自由な信徒の2人を養子にしています。」
卓は子供たちと交わりながらこの教会でこうつぶやいた。


▲ 卓明煥