わが父文鮮明の正体 – 洪蘭淑

▲ わが父文鮮明の正体

蘭淑(著、原著)、林 四郎(翻訳

文夫妻と子供たちの愛情なき親子関係、長男の酒・ドラッグ・女・暴力など、統一協会・文鮮明の後継者と目される長男の妻として、14年間「奥の院」で暮らした著者が、「聖家族」の恥ずべき行状を暴いた告発手記。

  • 単行本: 306ページ
  • 出版社: 文藝春秋(1998/11)
  • 言語: 日本語
  • ISBN-10: 4163546103
  • ISBN-13: 978-4163546100


日本についての記述もある、(p219~)

日本は帝国的カルト発祥の地と言ってよい。十九世紀、日本の天皇は神性を宣言され、日本の民衆は古代の神々の子孫であると宣言された。第二次世界大戦後の一九四五年、連合国により廃止された国家神道は、日本人にその指導者たちを崇拝することを要求した。権威に対する従順と自己犠牲は、最高の美徳と考えられた。
したがって、文鮮明のようなメシア的指導者にとって、日本が肥沃な資金調達地であることにはなんの不思議もない。
(引用以上)

 

そして、統一教会=文氏が日本をターゲットにする理由がここにある。(p221)

文師は日本との重要な金銭関係を神学用語で説明した。韓国は「アダム国」で、日本は「エバ国」である。妻として、母として、日本は「お父様」の国である文鮮明の韓国を支えなければならない。この見方にはちょっとした復讐以上のものあがある。文鮮明や統一教会におけるその信者も含めて、日本の三十五年間にわたる過酷な植民地統治を許している韓国人はほとんどいない。
(引用以上)

 

その他、興味深い個所(p206)

私は両親と娘と一緒にソウルに二ヵ月間留まっていた。孝進は「イーストガーデン」に帰った。彼は自分の両親に、私の留守を私のわがままと説明した。あいつは頑固で、反抗的だ、あいつを殴らねばならなったのは、口答えをしたからだ。彼らの見方では、このような妻への体罰は正当化できるものだった。私は朝五時の家族の敬礼式で「お父様」が、妻たちを慎ましくさせておくために、ときどき殴らなければならないと説教したことを覚えている。「夫から平手打ちを喰らわされたり、殴られたりした妻は手を挙げなさい」彼は一度ベルベディアの日曜説教で指示した。「おまえたちは、ときにはその口のために殴られる。肉体の最初の犯罪者は唇だ――その二枚の薄い唇だ!」
(引用以上)


“月たちの陰で” カルト宗教は如何にして始まるのか?を知る上でも貴重な資料。

本書は教祖の長男へ15歳で嫁いだ少女が文一族と共に暮し、29歳になったときに子供達と共に家より長期の下準備をつみ脱走する話です。自分の家より脱走?というと奇妙に聞こえますが、秘密を知る者が家を出るには生命の危険があるということです。

一見、サスペンス小説のような出だしになっており読みやすいです。
また、本誌には教祖や教団に悪意のある言い回しや罵倒などはありません。自分の見聞きした通りを客観的に記録しています。


統一教会の真実を知るための良い資料かと思い、中古で購入しました。
筆者の知的で誠実な文体は、単なる暴露本や批判本とはかけ離れた、説得力のあるものでした。

統一教会の神学のまとめや、文鮮明氏の背景なども、この宗教団体を理解する助けとなりました。

値段以上の価値のある一冊です。


わが父文鮮明の正体

ブック献金 : 子供たちのために


目次

プロローグ 暁の脱出    7

第1章 統一教会の誕生  21

第2章 迫害と飢えと信仰と  43

第3章 「真の子女様」と兄の結婚  65

第4章 十五歳の花嫁       93

第5章 「イーストガーデン」で見たもの       117

第6章 苦しい陣痛の未に       141

第7章 投獄された教祖  171

第8章 日本への随行ツアー  197

第9章 脱会を決意したとき  229

第10章 新しい人生への旅立ち  265

エピローグ 埋まらなかった座席  287

訳者あとがき  304

これは真実の物語である。プライバシー保護のため、文鮮明の長女及び私の兄・長女の実名は割愛した。
- 著者



▲ 最初の子を抱く私。孝進が抱いているのは文鮮明(中央)の末つ子


7

プロローグ 暁の脱出

ビービーとなるポケット・ベルの音で私は飛び起きた。混乱した頭のなかで、すでに夜が明けているのに気づく。格子窓から流れ込む光線が子供部屋の青い縞の壁紙の上で踊っていた。一九九五年八月八日、どうやら夜明け直前に、信勳のサークル・ベッドの足元で眠り込んでしまったらしい。床の上から望む窓の外に、丘の輪郭がはっきりと浮かび上がっていた。

マデレーンが私と連絡を取ろうとしている。それはわかっていた。時計をちらっと見る。思ったとおり約束の午前五時に遅れていた。よりによってこの日にかぎって、どうしてこんな不注意なまねができたのだろう?何力月ものあいだ、ひそかに会合を重ね、注意深く計画を立ててきたあげく、最後の瞬間にすべてを台無しにしてしまうのか?

私は広い廊下を主寝室へとこっそり近づいた。私の裸足の足は紅色の力ーぺッ卜の上で音を立てない。ほとんど息を止めるようにして、私は暗い色のラッカーを塗ったドアに耳を押しつけた。聞こえてきたのは、夫が一晩中コカィンを吸うときに定期的な間隔で立てる咳払いの音だけだった。

私たちが望みをかけているのはただひとつ、孝進がハィになっていて、その朝もう一度だけいつものようになにも気づかずにいてくれることだった。彼の父親、統一教会の教祖であり、自称「再臨の主」、文鮮明師の敷地内で私たちが住む煉瓦造りの邱宅の二階から、家具や衣類、おもちゃが消えていくのに、彼は何力月ものあいだ、ほとんど気づかなかった。

孝進の血走った眼が、いつもは私の長女の部屋の隅にあるIBMのコンピュー夕ーがなくなってるのに気づいたのはほんの一週間前だった。彼は彼女に尋ねた。「コンピュー夕ーはどこだ?」私たちの五人の子供のうち一番年上の娘はまだ十二歳なのに、ごく自然に共謀者の役を演じた。文の屋敷内—霊性よりも宮廷の陰謀に満たされた雰囲気—で暮らすことは、私の子供たち全員に秘密を守るにはどうしたらいいかを、しっかりと教えていた。
「壊れたのよ、アッパ(お父さん)、修理に出しているの」長女はためらうことなく答えた。父親はただ肩をすくめて、彼の部屋にもどっていった。

いま「彼」の部屋と言ったのは、私がずっと前から主寝室を使わなくなっていたからだ。それは寝室というよりは、夫の私的な阿片窟と言ったほうがよかった。クリーム色の力ーペットにはたばこの吸い殼やテキーラの空き瓶が散らばり、ビデオは各種のポルノをエンドレスで流し続けるようにセットされていた。

前年の秋、孝進がコカインをやめると何度も何度も偽りの約束をしたあと、主寝室でコカインを吸っているのを見つけて以来、私はできるだけその部屋から離れていようとした。私はコカインをトイレに流そうとした。彼は私をあまりにもひどく殴りつけたので、私は彼がおなかの赤ちゃんを殺してしまうと思った。私に浴室の床から白い粉をすくい取らせているあいだも、彼は殴り続けた。のちに孝進は妊娠七力月の女性を半ば意識不明にいたるまで殴りつけたことについて、宗教的な正当化をおこなった。彼は私に、メシア(救世主)の息子の前では慎み深くあることを教えたのだ。

ニューョーク市の北四十分にあるアービントンで、私たちが住んでいた、世間から隔絶された十八エー力ーの屋敷は、統一教会の事実上の世界本部であり、「ムーニズム」として世界に知られる宗教運動の教祖の住まいである。文師が私を、文の神聖な使命と地上の帝国の後継者である長男の幼い花嫁とするために韓国から呼び寄せて以来十四年間、「ィーストガーデン」(東の園)と呼ばれるこの屋敷が私の個人的な牢獄だった。そのとき私はまだ十五歳で、自分の神に仕えたいと望む無知な女学生だった。いま私は二十九歳、自分の人生を要求する準備のできた女である。今日、私は脱出する。この結婚において唯一神聖なもの、私の子供たちを連れ、私を殴った男、そして彼が私を殴るにまかせていた偽のメシアをあとにする。このふたりの男にはあまりにも大きな欠陥があった。だからいまの私には、神が文鮮明やその息子を地上における自分の代理人に選ぶことなど、決してありえないとわかっていた。

統一教会の外にいる人間にとって、そもそもこのようなことを信じる人間がいるなどという考えをあざけるのは簡単なことだ。世界のほとんどの人にとって、「ムーニー」の名前は洗脳された若者のィメージ―あるカルトの小利口なカリスマ的指導者を富ませるために、街角で花を売り歩いて人生を浪費している―と対になっている。

この見方にはいくらかの真実はある。だが、あまりにも単純化されている。私は生まれたときからの信徒だった。キリスト教のより正統な教派の子供たちが、ィエス・キリストは神の子であり、人類の罪を償うためにこの世に遣わされたと信じるように育てられるのと同じに、私は日曜学校で、文師はエデンの園を取り戻すというィエスの使命を完結するために、神によって選ばれたと教えられた。文師はキリストの再臨だった。

文師は妻とともに、最初の罪のない「神の真の家庭」の親となるだろう。その子供たち、「真の子女」はこの傷のない基礎の上に建設していくだろう。統一教会の会員は文師が取り決め、祝福する結婚式(いわゆる合同結婚式のこと)において、「真の家庭」の汚れなき血縁につながれるだろう。この結婚式の規模の大きさは世界中であまりにも大きな注目を浴びてきた。

これらの信仰は、それがその一部を成している神学、そしてそれらが生まれてきた文化から孤立させられたとき、確かに奇妙に聞こえはする。だが、キリストの奇蹟はどうだろう?あるいはモーゼの前でふたつに分かれた紅海は?聖書にある処女懐胎や復活の話も同じように荒唐無稽ではないだろうか?すべての宗教は信じるか信じないかの問題である。私の信仰が異なっているとしても、ただ信仰の強さの度合いにおいてだけなのかもしれない。子供の信仰ほどに強力で無垢な信仰があるだろうか?

しかし、すべての信仰は経験によって試される。文師には罪がない、だって?文家の子供たちには欠点がない、だって?「お父様」?彼は忠実な信仰者から集めた、出所のたどりようがない、申告されない現金で一杯の袋を受け取るたびに、民法に対する軽蔑を示していた。「お母様」?彼女はあまりにも長い時間を高級衣料店で過ごすために、先生から母親の仕事を話してみるよう言われた末の息子が「お母さんは買い物をします」と答えたことがあった。長男?彼は教会の教義を破って、たばこを吸い、飲酒運転をし、麻薬を濫用し、婚前の、さらには婚外の性交渉をもった。この家族が聖家族?それは離れていてのみ維持できる神話である。

文師がいまの私にわかっているような詐欺師であると認めることは、緩慢な、そしてつらいプロセスだった。それができたのは、それを認めても、最終的には神に対する私の信仰が揺るがされることはなかったからである。文師は私を失望させ、人を信じやすい理想主義的な信者たちすベてを失望させたょうに、神をも失望させた。だが神は私を失望させなかった。孤独と絶望のなかで、見知らぬ国の奇妙な家のなかで、ひざまずき、救いを求めて祈っていた十代の私、その私が顔を向けたのは神に対してだった。夫から性的な快楽のためのおもちゃとして、あるいはその乱暴な怒りのはけロとして扱われた、大人になりきっていない女、その私を癒してくれたのは神だけだった。

眠っている子供たちのょうすと、何週間もかかって、ひそかに詰めてきたスーツヶースを確かめているいま、神は私を導いてくれている。文鮮明に対する私の信仰は、二十九年のあいだ、私の生活の中心だった。しかしうち砕かれた信仰は母親の愛にはかなわない。「真の家庭」の毒された閉鎖的世界で、子供たちが私の唯一の歓びの源泉だった。私は彼らのために、そして自分自身のために逃げなければならない。

年長の子供たちに、自分が出ていこうとしていると打ち明けたとき、それがこれまでいつも享受してきた贅沢な生活の終わりとなるのを知っていたにもかかわらず、あとに残ることを選んだ子供はひとりもいなかった。これからいくところには、邸宅も運転手も、オリンピック・サィズのプールも、専用のボゥリング・レーンも、乗馬のレッスンも、私立学校も、日本人の家庭教師も、贅沢なバヵンスもないだろう。

文の屋敷の塀の外では、「メシアの真の子女様」として崇拝されることはないだろう。彼らを敬慕し、彼らに頭を下げ、彼らに奉仕する機会を競い合う教会員はいないだろう。

長女は私に言った。「ママ、私たちはただママと一緒に小さなおうちで暮らしたいのよ」彼女のささやかな夢は私自身の夢を反映していた。

それでもなお、疑問と予期せざる悲しみの感情から、私は夜のほとんどを眠れずにいた。家中が寝静まったあと、私は邸宅の廊下やなじみ深い部屋を、祈りながら、そして静かに泣きながら歩き回った。目を閉じるたびに、私の心は何力月も私にとりついてきた疑問で満たされた。私は正しいことをしているのか?出ていくことは本当に神の意志の顕れなのか、それとも私自身の失敗のしるしなのか?なぜ私は夫に愛してもらえなかったのか?なぜ夫を変えられなかったのか?私はここに留まり、成長した私の息子が、いつの日か、統一教会を正義の道にもどすことを祈るべきなのか?

私にはさらに差し迫った恐れがあった。文鮮明師の勢力圏を離れることは、私と私の子供たちを霊的な追放者とする。だがそのことはまた私たちの生命をも危機にさらすのだろうか?もし私が逃げたら、教会は私のあとを追いかけて黙らせようとするだろうか?しかしもし留まっても、そのほうが安全と言えるだろうか?孝進は、私や子供たちを「殺してやる」といったい何度脅しただろう?彼がドラッグやアルコールで恍惚状態になれば、脅しを実行しかねないのはわかっていた。そのための銃は確かに何丁ももっている。教会の資金で購入した本物の兵器庫を、彼は私や、私のほかにもだれであろうと、自分の前に立ちはだかろうとする者を脅すために使っていた。

私は自分に言い聞かせた。私は拙速に行動しているのではない。前年の冬以来、私はこの日のために計画を練ってきた。この冬、孝進のもっとも新しい、そしてもっともずうずうしい不貞には、文師さえいつもの無関心から目を覚ました。「お父様」が相変わらず、夫の罪のために非難されるべきは妻であるこの私だ、自分の息子が不安定な道をいくのは、妻としての私の失敗のせいだと強調したとき、私は出ていかねばならないと悟った。

私はあらゆる用心を重ねてきた。脱走を決意するとすぐに貯金を始めた。私は子供の教育に備えて銀行に預けてあったお金を引き出した。経費として文夫人が定期的に手渡す何千ドルもの現金の一ドルードルをとっておいた。彼女は私の赤ん坊の誕生を讃える教会の儀式に着る洋服を買うために、私をイェーガーのブティックに連れていった。私は彼女が買った千ドルの洋服を、値札を見えないようにつけたまま着た。翌日、その服をもっていって返金してもらった。

兄と文師の長女であるその妻の助けを得て、私はマサチューセッツ州の町にある小さな家を見つけた。ふたりはすでに文家から離れ、マサチューセッツ州のその町で暮らしていた。彼らが最初に統一教会を出ていったとき、私はとてもうらやましかった。わずか数年後に、今度はその私が、彼らを頼り、彼らが見つけ出した自由へと、私を導いてもらっていた。私は同じころ、愛想をつかして統一教会を放棄した私自身の両親を心配したように、彼らのことを心配した。私の両親は、創設当時からの韓国人幹部信徒の一員だった。彼らは韓国にいて、私は自由の身だという兄からの連絡を待っていた。

私はとても感謝している。私は、子供のときでも、なにかと言えば兄の助けを当然のものとして頼ってきた。よくあることだったが、私たちの意見が一致しなかったときでさえ、兄はいつも私のためにそこにいてくれた。兄は、私と子供たちが自由になったあと、自分たちの身を守る方法を助言してもらうために、弁護士を見つけてくれた。彼らの忠告は、私たちが決行の日を正確に決める参考になった。私たちは火曜日に脱出する。なぜならば、私たちが住むことになるマサチューセッッの家庭裁判所は、虐待の被害に遭っている女性からのパートナーに対する接触禁止命令申請を水曜日に受けつけるからである。

私はまた、私があとに残していく人びとも守ろうとした。クミコは五年間私のベビーシッ夕ーだった。彼女と「ィーストガーデン」の庭師をしているその夫とは熱心な日本人会員だった。何週間ものあいだ、彼女は私が荷造りをするのを見ていたが、なにも言わなかった。どんな会員も、「真の家庭」のひとりに質問をするような差し出がましいまねはしないだろう。しかし、彼女は何年間も、私の人生の苦しみをすぐそばで見てきた。私は、文師が私たちが出ていったと知ったあと、彼女を呼びだして説明を求めることを恐れた。

逃亡一力月前に、私はクミコとその夫に、世界中で一番住みたいところはどこかと尋ねた。彼らは日本にいる夫の両親のもとに帰りたがっていた。両親は年老いており、夫は一人っ子だった。ふたりは親たちの世話をするために、故郷に帰りたがっていた。

「ィーストガーデン」では、文夫人、私たち呼ぶところの「お母様」の同意がなければ、人員の交替はありえないことを私は知っていた。彼女は老いつつある文師よりも二十三歳年下で、王座のうしろに控えて、しだいに権力を増大させていた。私と彼女が親しくしたことは一度もないが、それはひとつには、彼女が権力に飢えたおべっか使いたちに囲まれていたからである。彼らは自分自身の立場をよくするために、妻あるいは母としての私の過ちに気づくと、それを告げ口した。それでもなお、長年の経験から、私は「お母様」からちょっとした好意をうまく引き出すこつを学んでいた。

私は話を進めながら、だんだん物語を潤色していった。私の説明では、彼の両親は年老いているだけでなく、病気だった。夫婦は彼らの看病をするために日本に帰らなければならない。彼らにその義務を果たさせずにいるくらいなら、私はべビーシッ夕ーなしですませるほうがいい。「お母様」相手には、この最後のひとことが的を射ることを私は知っていた。「お父様」は何度文句を言ったことだろう?うちの職員は数が多すぎる。食べさせ、住まわせるのに金がかかりすぎる。ベビーシッ夕ーひとりと庭師ひとりが減ることは、「お母様」のお手柄になるだろう。彼女はふたりを帰国させるのに喜んで同意し、文師の個人的側近ピー夕ー・キムに必ず旅行費用を出させるようになさい、と言った。ふたりは私たちが逃亡する二日前に、日本行きの飛行機に乗った。

赤ちゃんの世話を手伝っていてくれたもうひとりの若い女性は、まもなく祖国の韓国で「ィーストガーデン」の警備員と結婚することになっていた。私は彼女に韓国滞在を十月まで延長するように言った。それだけの時間があれば、私たちの逃亡と彼女の帰米のあいだにある程度の距離をおけるだろう。

文師が「ィーストガーデン」の敷地内に二千四百万ドルの屋敷と会讓場を建設したあと、私たちは十九室あるもう一軒の邸宅を、孝進の妹、仁進とその家族と一緒に使っていた。幸運―あるいは神のご意志―によって彼らはその前の週末に出かけて、まだ帰っていなかった。たとえ私が逃亡を計画していると警告されても、仁進はそれを本気にはしなかっただろう。彼女は考えただろう。私は子供たちを連れ去ることによつて、孝進を脅して正しい振る舞いをさせようとしているのかもしれない。彼に教訓をあたえようとしているのかもしれない。私は帰ってくるだろう。仁進だろうと文家のほかのだれであろうと、私が永遠に出ていくなどとは決して信じなかっただろう。

真実は、彼らのだれひとりとして、私の行動を予測しうるほど、私をよくは知らなかったということだ。彼らのだれひとり、まったく私をわかっていなかった。私が文家のまっただ中にいた十四年間、だれもなにかについて私がどう思っているか、あるいはどう感じているかを尋ねなかった。彼らは命じた。私は従った。今日、私は彼らの無知につけ込む。

私は信動を静かに起こした。彼は生後九力月で、この朝、本当にいい子だった。私が彼に半袖のジャンパーを着せ、それから上の子たちをそっと起こしているあいだ、彼は泣かなかった。私は子供たちに、私がマデレーンを迎えにいっているあいだに、音を立てずに服を着ておくよう注意した。

この一年、マデレーン・プレトリウスは私の初めての本当の友になっていた。いま、ポケット・ベルの反対側で、彼女は私の脱走の手段だった。マデレーンは、十年前、サンフランシスコで休暇中に、釣り桟橋の上で、たまたまひとりの「ムーニー」(文鮮明は「文」を英語で MOON と表記している。そこで彼の活動を「ムーニズム」、信者を「ムーニー」と呼ぶ )と出会い、統一教会に勧誘された。家から遠く離れてひとりで旅行している若者と親しくなることは、典型的な教会の勧誘手法である。会話はすぐに冗談から教会の哲学へと向かう。旅行者がレクチャーかミーティングへの出席に同意すれば、出会いは成功である。そのうちの何人かは二度と家に帰らない。

この三年間、マデレーンは教会がニューョーク市にもつ録音施設、マンハッタン・セン夕ー・スタジオで孝進のために働いてきた。彼女は、私の夫のコカイン濫用と気短な性格をその眼で見てきた。私が逃亡計画を打ち明けたとき、彼女は助けを申し出た。それは危険なことだった。もし手伝ったことを夫が知ったら、彼はマデレーンにも襲いかかるかもしれない。

孝進はすでに私たちの友情に疑いを抱いていた。ほんの数週間前、彼はたまたま台所にきて、私たちがお茶を飲みながら静かに話しているのを見つけた。彼は私に二階にあがるように、マデレーンには「イーストガーデン」から出ていくように命じた。二階で、彼は、私が教会の会員との個人的な友情をあえて続ければ、私の指を一本一本すべてへし折ってやると脅した。この種の脅迫は、支配的で独占欲の強い彼の典型的な態度だった。

私を支配しようとする夫の行動を思い出して、私は寒気を覚えた。私は庭師や警備員に手を振り、「イーストガーデン」の鉄門を通って、友人と会うために、ひとり車を運転していった。彼女は町の軽食堂の前で待っている。何週間ものあいだ、持ち物をそっと運び出していたときと同じように、私は彼女を後部座席に隠して、屋敷に連れ帰る。ほとんど毎日のように、私は椅子や電気スタンド、ポール箱やスーツケースを積んで、あちこちにある監視カメラの前を通ってきた。ただ家具の模様替えをし、古い衣類を道を下ったところにある文のもうひとつの邸宅べルべディアに保管しているのだという話を、警備員たちはなんの疑問もなく受け入れた。文夫人はしょっちゅうそれをやっていた。

本当のところ、私は新生活のための家具を保管しておくのに借りていた町の倉庫へと、急いでいたのだ。今日は、私たちがいく番だ。マデレーンと兄が待っている。

アービントンと夕リー夕ゥンの町は静かだったロ真夏ゝヮシントン·アービング(アメリカ人作家。1783-1859作家。)のスリーピーホロー(アービングの作品『スリーピーホローの伝説』で有名になった谷)の精霊を求める観光客が、この田園を地元の人びとと分かち合う時期だ。けれども観光客も地元民も目を覚ますにはまだ時間が早すぎた。私は約束の街角でマデレーンと会い、子供たちの世話を手伝ってもらうために、彼女を毛布の下に隠して屋敷に連れ帰った。私たちはあとでこの同じ街角にもどって、彼女の車を回収し、兄と会い、一列縦隊でマサチューセッッへと旅をする。

スーツケースの最後の一個をバンに積み込んでしまうと、マデレーンと私は裸足の子供たち五人を連れて、主寝室の前を通り、中央階段から正面玄関の外に出た。彼らの父親は一度も目を覚まさなかつた。

マデレーンは、子供たちのひとりひとりを荷物で一杯のバンの隙間という隙間に押し込み、それから助手席に滑り込んだ。自分や子供たちが見えないように、注意深く毛布をかぶった。私は、楡の老木の立ち並ぶ曲がりくねった長い坂道をバンをゅっくりと走らせ、数日前に仕事についたばかりの警備員にほほえみかけながら正面ゲー卜を出た。私は「ィーストガーデン」からサニーサィド・レーンに出た。うしろは振り返らなかった。




▲「イーストガーデン」の邸宅の外で。最初の子と


21

第1章 統一教会の誕生

文鮮明師はがっしりした体格の小柄な男で、薄くなりかけた灰色の髪を靴墨のような黒に染めている。もしソゥルの街角ですれ違っても、彼とは気づかないだろう。外見にはそれほど特徴がない。

彼は電気技師の教育を受けた。その話し方で特徴的なのは、カリスマ性よりも耐久力である。彼は韓国語でなら何時間でも話し続けることができる。英語で説教をするときは、なにを言っているのかようやく理解できるかどうか。よくあることだが彼が言葉遣いを間違えるたびに意図されぬ笑いが起こる。

それでは、この一九二〇年生れの七十八歳の農民の息子が、どのようにしてひとつの宗教運動の指導者として浮上してきたのか?彼の宗教運動は、世界中で何百万人もの人びとを誘惑し、彼らの労働のおかげで運動自体に金を集めてきた。その答えは、この男自身にあるだけでなく、統一教会が登場してきた時代と土地とも関係している。

文鮮明のメシア信仰のメッセージは、ニューョーク・タィムズスクェアの街頭演説で話されたのなら、頭のおかしな男のうわごとに聞こえるかもしれない。しかし文師は朝鮮の土から、わが祖国の精神的伝統と、外国による占領・内戦・政治分裂を経験した動乱の一世紀という特定の状況から生まれたのである。

朝鮮の国土は地理的条件によって境界を定められ、東アジア大陸に付属する半島でありながら、同時に長白山脈と鴨緑江・豆満江によって大陸から隔てられている。これら自然の障壁が私の祖国を何世紀ものあいだ、外の世界から孤立させてきたように、その二十六の高峰がわが民族をおたがいに分裂させてきた。われわれが国民的アイデンテイテイーと共通の言語を作り上げたのは奇蹟のようなものである。

朝鮮半島に外国の影響が浸透してくるとき、それは北の山道を通って中国から、あるいは日本からやってきた。日本最大の島、本州は日本海の東わずか百二十マイルに横たわっている。朝鮮の歴史は、その戦略的な地理から「鯨たちの戦いのなかでもてあそばれた小エビ」にたとえられてきた。朝鮮の港と天然資源を利用しようとした外国人は、朝鮮に自分たちの商業と文化を—そしてあまりにも多くの場合、自分たちの銃をも—運んできた。彼らはまた自分たちの宗教も運んできた。

朝鮮固有の宗教は一種の原始的シャーマニズムである。シャーマンは「巫堂」と呼ばれ、霊界と交わる特別な力をもつと信じられている。彼らは運勢を占い、豊作や、たとえば病気などの苦しみからの救済のような恩恵を精霊に乞う。また森や山、あるいは個々の木々や岩に住むと信じられている精霊と交流する。

四世紀に中国人が半島に仏教をもたらしたとき、この民俗伝承は消滅もしなかったし、中国の道教や日本の神道のように独自の宗教に形式化されることもなかった。朝鮮人はただ、われわれの古い信仰を仏教の教えに接ぎ木し、朝鮮では仏教が十四世紀まで支配的な影響力をもつ宗教に留まっていた。同様に、儒教が興隆し、次の五百年間、宗教生活の頂点にあったとき、儒教は民俗の伝統と置き換わったわけではなく、それと併存していた。

固有の信仰をほかの宗教教義に組み入れていくこの過程は、十九世紀、仏教が復興し、キリスト教が朝鮮に導入されたときも続いた。いまだに仏教が支配的な国において、キリスト教がもっとも急速に成長している宗教である現在でも、民俗伝承は、最先端をいく現代的韓国人の想像力にさえ、強い支配力を行使し続けている。日曜の朝、教会の礼拝に出席するキリスト教徒は、その午後、家の神に捧げ物をして、なんの矛盾も感じない。

先祖崇拝と霊界への古い信仰に加えて、私たちの文化には強いメシア信仰の傾向がある。メシア、あるいは「正義の道の使者」が朝鮮に出現するという概念は、百年前のキリスト教導入に先駆け、その根を仏教の弥勒の概念と儒教の「真の人間」つまり仁人、そして『鄭鑑録』のような朝鮮の啓示の書にものっている。

神授権によって統治する王という概念も、わが国最古の伝説に登場する。子供のころ、私たちはみんな、古い朝鮮民話「檀君の神話」を教えられる。檀君は神霊桓雄の息子で、桓雄自身は天主桓因の息子である。伝説によると桓因は息子に天から下って地上に天国を作ることを許した。桓雄は朝鮮にきて、虎と雌熊に出会う。虎と熊は桓雄にどうしたら人間になれるか尋ねた。桓雄は彼らに神聖な食べ物をあたえた。熊は従い、人間の女に変身した。虎は従わず、獣のままに留まらねばならなかった。桓雄はこの女と結婚し、この神霊とかつての雌熊の婚姻から檀君が生まれた。檀君は王宮を平壌に建て、地上における自分の王国を「朝鮮」と命名した。

二十世紀後半に、文鮮明師のメシア思想が根を下ろしたのは、この豊かな土壌のなかだった。彼の公式の伝記が歴史的にはどこまで正確で、どこまでが作り物の神話なのか、これは私が子供のころ、一度も自分に尋ねたことのない疑問である。私は米が水を吸収するように、文師の物語を吸収した。生まれたときから、彼がただの一聖人、あるいは一予言者ではないと教えられてきた。彼は神によって選ばれた。彼は「再臨の主」、世界の宗教をその指導のもとに統一し、地上天国をうち立てる神聖なる道案内である。正統の諸宗教が彼をカルト・リーダーと糾弾することはイエスの迫害と同じだ。文師は、このイエスの使命を完遂するよう神から霊感を得たのである。

文鮮明師は、一九二〇年一月六日、朝鮮半島北西部の平安北道の海岸線から三マイルはいった農村に、八人兄弟の五番目として生まれ、文龍明と名づけられる。これは「輝く龍」と訳され、のちに問題になった。龍はサタンの象徴なので、彼は伝道師となったとき、名前を文鮮明と変えた。

文師の誕生当時、わが国は日本の占領支配に苦しんでいた。日本は朝鮮を一九一〇年に植民地とし、占領は第二次世界大戦終了まで続いた。キリスト教徒は朝鮮の人口の一バーセント以下だったが、キリスト教はわが国の階層化された社会に熱心な支持者を開拓していった。プロテス夕ントの宣教師は一八八〇年代半ばにョーロッパから朝鮮にやってきた。先祖崇拝に反対したにもかかわらず、彼らは存在を続けえたが、それはひとつにはキリスト教がすべての人間は神の子だと教えたからだった。これはいまだに厳格な封建社会においては、革命的な考え方だった。

古代朝鮮の王国、新羅の貴族でさえ、「骨品制」として知られているものによって分類されていた。エリートは三つの階層に分けられた。聖なる生まれ、つまり「聖骨」からは聖なる王たちが生まれ、真の生まれ「真骨」からは上流貴族、頭の階級「頭品」にはその他の全貴族が含まれた。これは文鮮明自身の宗教組織に影響をあたえたようである。

もちろんほとんどの朝鮮人は貴族ではなく、貧しい農民だった。キリスト教は彼らに、たとえ地上に平等はなくても天国にはあるといぅ希望をあたえた。キリスト教会は数は少なかったものの、占領軍に対する抵抗の中心となった。文鮮明が生まれる一年前の一九一九年三月一日、日本植民地からの独立宣言が、プロテスタントの牧師、仏教の僧侶、そして当時朝鮮で人気を得つつあった多くのメシア信仰宗派の指導者たちの連合によって起草された。署名者は逮捕、投獄された。

この敗北にもかかわらず、一九二五年に植民地政府が朝鮮の国語として日本語を押しつけ、神道の神社を建立したあと、多くのキリスト教指導者たち—対日協力をしなかった者たち—は、日本の占領を終わらせるための運動をさらに活発化した。朝鮮人生徒には、日本の天皇を神と認め、天皇の祖先のための神聖な儀式に出席することが要求された。朝鮮の全家庭には、家に神道の社を祭るよぅ命じられた。拒否した二千名のキリスト教徒は投獄され、数十人が処刑された。

一九三〇年に、文一家が長老派教会に改宗するころには、日本の占領による経済困難は、宗教迫害と同様に明白になっていた。ほとんどすべての朝鮮人農民は小作人で、記録的な量の米を生産したにもかかわらず、そのほとんどは日本に輸出され、地元民は飢えていた。日本人は労働人ロの五パーセントにすぎなかったが、彼らが産業の上級職のほとんどを占領していた。たとえば、日本の会社は一九三二年に鉱山の九二パ–セントを所有していたが、地下では苦役につき、地上では暖房のない掘っ建て小屋に住んだのは朝鮮人の鉱山労働者たちだった。役所の仕事を確保できるほど幸運だった朝鮮人も下級職に限られていた。

このような抑圧が文鮮明の子供時代の背景だった。彼は勤勉で信心深い子供で、十歳のとき改宗した家族に従い、熱心な長老派教会員だったと言われている。一九三六年の復活祭の朝、文鮮明が十六歳のとき、すべてが変わった。彼は語っている。ある山の中腹で祈りに熱中していたとき、イエスが彼の前に現れた。イエスは彼に告げた。神は、イエス自身が地上でし残した仕事を文鮮明が完遂することを望んでいる。十字架上のイエスの死は人類に霊的救済をもたらした。だが、磔刑は、地上にエデンの園を取吵戻すことによって、人間に肉的救済をもたらすというその使命を、イエスが完遂する前に起きてしまった。

最初、文少年は聞くことを拒否した。しかしイエスは文鮮明を説得した。朝鮮は新しいイスラエル、神が再臨のために選んだ土地である。地上に「神の真の家庭」を建設するのは文師の義務である。文師はのちにこの幻視について言っている。「私が若いとき、神は私をご自分の道具として、ある使命のために呼ばれた……私は真理の追究に断固として専心し、霊界の丘や谷を探った。天国が扉を開いたとき、時は突然私に訪れ、私はイエス・キリス卜と生きた神と直接交信する特権をあたえられた。それ以来、私は多くの驚くべき啓示を受け取っている」

文鮮明は正式な神学教育は一度も受けていない。その原点となる幻視の二年後、彼はソゥルに出て、電気技師の教育を受けた。一九四一年にはソゥルから日本に渡り、早稲田大学でこの方面の勉強を続けた(正式には章稲田大学付属高等工学校卒業)。教会の歴史家たちにょれば、そこで彼は朝鮮占領を終ゎらせるための地下活動に加わったという。彼は霊界に旅し、イエス、モーゼ、ブッダ、サ夕ンそして神自身と直接話すことによって、真理への個人的探求を続けた。彼がこの変容をどう遂げたかは、統一神学の神秘のひとつである。

文師の教えは『原理講論』に書かれている。これは、文師によれば、祈りや聖書の研究、神や偉大な予言者たちとの会話を通して受け取ってきたという啓示の数々によって、長い歳月のあいだに形作られてきた文書である。『原理講論』は統一教会の中心的文書だが、実際には文鮮明が書いたのではない。教会の初代会長で文師の最古参の弟子のひとり劉孝元が、啓示についての文師のメモとふたりの会話に基づいて書いた、といわれている。

統一教会員の伝記作家柳光烈は文師は神の啓示を充分に早く書き取れなかったと言っている。「彼はノートに鉛筆でとても早く書いた。彼の横にいた人間が鉛筆を削った。だが、その人間は彼の書くスピ—ドについていけなかった。お父様の鉛筆の芯が丸くなってしまうまでに、横にいた人間は別の鉛筆を削ることができなかった。彼はそれほど早く書いた。これが『原理講論』の始まりである」

天の啓示によって書かれたにしては、『原理講論』はひどく模倣的である。約五百五十六頁からなる統一教会の神聖なテキストは、シャーマニズム、仏教、新儒教、キリスト教の合成だ。聖書、東洋哲学、朝鮮の伝説、そして文師の若いころの大衆宗教運動から借りて、文師を中心にした一枚のパッチヮーク神学に縫い合わせたものである、と各方面の研究家は書いている。

統一教会の現代的なルーツは天道教という十九世紀の宗派に見いだすことができる。天道教はもともとは東学、つまり東洋の学問と呼ばれ、朝鮮の伝統宗教と密接に結ばれていた。統一教会と同様に、天道教はすべての個人の霊は神に作られたのであり、われわれの魂は永遠で、すべての宗教はいつの日か統一されると教えている。
「人間の堕落」はエバ(イヴのこと)が禁断の木の実を食べたからではなく、悪魔と性的に交わったからだという統一教会の中心的教義さえも、文師が創設した考えではない。彼はこの理論を、一九四六年にイスラエル修道院で金百文という名の予言者の下で六力月間勉強していたときに教えられた。金はエデンの園は血を清めることによってのみ取り戻すことができると教えた。この理論では、エバの罪はサタンの血統を通じて新世代に伝えられたと考える。結婚して、罪なき子供たちを生み出すことで、人間の血を清めるのもイエスの使命の一部だった。イエスは神の意図を実現する前に殺された。その結果、イエスの死は世界に霊的救済をもたらしたが、肉的救済はもたらさなかった。

こう信じていたのは金ひとりではない。金聖道は一九三五年に北朝鮮のチュルソンで聖主教団を創設した。彼女はイエスが彼女の前に姿を現し、「人間の堕落」の性的性格について、同じような説明をあたえ、新たなメシアが朝鮮に再来するとの約束をしたと主張した。彼女は自分の追随者たちに、再臨の主を迎えるのに充分に清らかな環境を作るためには、結婚においてさえ性的な禁欲が必要なのだと説いた。彼女の死後、その追随者たちは統一教会に加わり、文師をメシアとして受け入れた。

『原理講論』は朝鮮の宗教思想における長いメシア信仰の伝統に借りがあることを認めている。

第三のイスラエル(統一教会では旧約聖書の時代を第一、新約聖書の時代を第二、現在の統一教会を第三のイスエルと称している)として、朝鮮の国は丑覃にわたる李王朝の統治以来、正義の王はこの土地に出現し、そして千年王国を確立することによって、世界のすべての国から称賛を受けるだろう、と信じてきた。この信仰が人びとに、きたるべき時を待ちながら歴史の苦い流れを耐え忍ぶよう励ました。これは朝鮮の人びとが予言の書『鄭鑑録』に従って信じた真にメシア的な思想である……正しく解釈すれば、正義の王、鄭の若様は再臨の主の朝鮮名である。キリスト教が朝鮮に導入される前に、神は『鄭鑑録』を通して、メシアはのちに朝鮮に再来することを明らかにした。今日、多くの学者は、この本に書かれた予言のほとんどが聖書の予言と一致することを確認しているという。

統一教会は、神は文鮮明をメシアに選んだと教える。統一教会によって刊行された『原理講論』の総序(序論)は、この点について明確である。「予定の時がきて、神は生命と世界についての基本的な問題を解決するために、使者を送った。使者の名前は文鮮明である。何十年ものあいだ、彼は究極の真理を求めて広大な霊界をさまよった。この道の上で、彼は人類史上だれも想像しなかった苦しみに耐えた。神だけがそれを覚えているだろう。もっともつらい試練を受けなければ、だれも人類を救うために究極の真理を見つけることはできないと知って、彼はひとり霊界と物質界の両方で、何千何方ものサ夕ンの軍隊と戦い、最後には彼らの全員に勝利した」

文師の使命はィエスの使命を完成することだった。彼は「完全な女性」と結婚し、エデンの園に存在していた完璧な状態に人類を復帰させるだろう。彼と彼の妻は世界の「真の父母」となるだろう。彼らも、彼らの子供たちにも罪がない。文師に祝福された夫婦はその純粋な血統の一部となり、天国に場所を確保される。

個人として、私たちはみんなこの復帰のドラマに積極的な役割をもつ。メシアが地上に天国をうち立てる前に、人類は過去の罪を償わねばならない。統一教会員の用語では、彼らは人類の過去の過ちを神に償うために「蕩減」を支払わねばならない。統一教会の厳格な行動規範—喫煙の禁止、飲酒の禁止、賭事の禁止、婚外の性交渉の禁止—は個人がこの義務を果たすのを助けるためにもうけられている。
「原理の結論は、あなたがあなた自身、あなたの配偶者、あるいは子供たちよりも、真の父母を愛する決心をしなければならないということである」と文鮮明は言っている。「究極的には、真の父は、そのまわりにすべての子供たちと子孫が集まる軸である」

文師自身の生活は、犠牲を喜んで受け入れ、受難に忍耐強く耐えた模範だと言われている。統一教会の歴史家たちによれば、彼は一九四五年に、彼を南のスパィではないかと疑っていた共産党幹部からリンゴを買うために、贋金を使用した容疑で逮捕されたという。

彼が平壌で公に宣教を始めたとき、彼の思想はキリスト教の聖職者から異端として否定され、地元の共産党当局から告発された。一九四六年のことである。市はソビエト軍に占領されていた。朝鮮はまもなくふたつの国家、ソビエト支配下にある北の共産主義国家と、アメリカ合衆国の影響下にある南の民主国家に分断された。共産党当局は文鮮明を拷問にかけ、その身体を監獄の門の外に投げ捨てたと言われている。彼はそこで助けられ、初期の弟子のひとり金元弼の手当を受けて、健康を取り戻した。文師は共産党当局による宣教禁止にもかかわらず、説教を再開した。

自由は長くは続かなかった。文師は一九四八年に、今度は「社会秩序混乱罪」でふたたび逮捕された。彼は有罪となり、興南刑務所に送られた。これは強制労働収容所で、囚人たちはしばしば死ぬまで働かされた。彼自身の話によれば、文師は囚人第五九六号として、ろくな食事もあたえられずにこき使われ、百ポンドの袋に肥料を詰めて、貨車に積み込む作業をした。肥料に含まれる硫酸アンモニゥムが両手の皮膚を焼いたが、彼は収容所にいた二年八力月のあいだ、一度も泣き言を言わなかった。
「私は弱さから祈ったことは一度もない。私は助けを求めたことは一度もない。わが父である神に、私の苦しみを訴え、その心をさらに悲しませることが、どうして私にできるだろう。私はただ神に、私は決して自分の苦しみにうち負かされないと言うことができただけだ」と彼は言っている。

国際共産主義に対する統一教会の極めて強固な反対は、文師の個人的体験に根を張っている。彼の反共的政治信念はその宗教哲学の基本教義になった。これらの信念から、彼は二十世紀の残りの期間、たとえそれがどんなに抑圧的な政府であっても、韓国の反共政府と提携してきた。

彼が投獄されているあいだに、北朝鮮が韓国に侵入して内戦が勃発、半島を正式な政治的分断へと導いた。国連軍が共産軍を三十八度線の北に押しやり、一九五〇年十月、文本人によると、処刑されることになっていた日の一日前に、国連軍が興南刑務所を解放した。自由になったとき、文鮮明とふたりの弟子金元弼と朴正華は韓国へと長い徒歩の旅を開始した。教会の言い伝えによると、朴が脚を怪我したあと、文師は朴を背負って何百マィルも運んだという。この偉業を写し

たざらざらの写真は、統一教会におけるィコンのようなものである(のちにこの写真は偽物だと指摘され、統一教会はすベての書物からこの写真を削除した)。

文師は一九五一年、港湾都市釜山に居を構え、小さな丘に手作りで、最初の教会を建てた。土間と泥壁、屋根は木ぎれと軍の配給品の箱、教会は泥小屋以上のものではなかった。市は兵隊と戦争難民とであふれかえっていた。文師は昼間はドックの労働者として働き、夜にふたたび説教を始めた。

文師の公式な伝記は、文鮮明が一九四五年四月に二十五歳で結婚したという事実をとばしている。妻の崔先吉は一年後に息子聖進を産んだ。彼らがソゥルで暮らしていた一九四六年六月六日、文師は市場に米を買いに出かけた。現在彼が語っているところによると、途中で神が彼の前に現れ、すぐに朝鮮の北のほうに説教にいくよう指示したという。文鮮明は、自分はすべての神の子の理想の父親だと教えている。その彼が説明もなく、妻と三力月になる息子を放棄した。ふたりは六年間、彼と会いもせず、消息も聞かなかった。

崔先吉がふたたび夫と一緒になるのはようやく一九五一年、文師が弟子たちとともに釜山に到着したときである。夫妻が一緒にいた時間は長くはなかった。妻と息子は文師とともに一九五四年にソゥルに移り、そこで彼は正式には世界基督教統一神霊協会として知られている統一教会を設立する。しかし結婚生活はまもなく破錠した。文師はこの結婚をひとことで片づけている。「キリスト教徒がわれわれの運動に反対しており、私の最初の妻はその影響を受けた。そして彼女は弱かった。それが原因で、私の家庭は決裂した。そして私は離婚した」まるで崔先吉と聖進は存在しなくなってしまったかのようだった。

「文師の妻は、文師がその身を運動に参加した会員たちに捧げることで、しだいに不幸になっていった。そして最後には離婚を要求した」とある外国人は語っている。「文師はこのことを望まなかったが、しまいに状況は解決不能となった。そこで彼は彼女に離婚を許した。彼女は彼に従うべき位置にいた。しかし、自分にはそうできないと気づいた。彼女はまた彼と神学的に異なっており、メシアは雲に乗って再臨すると考えていた。彼女はキリスト教諸派による否定的主張に強く影響されていた」

彼の妻が出ていったのは、統一教会における性的虐待が初めて公に報告されたのとほぼ同じ時期である。文師は、宗教的ィニシエーション儀式として、女性の新信徒たちに自分とのセックスを要求しているという噂が広まった。当時のカルトのいくつかは、儀式として裸体を遵守しており、また伝えられるところによれば、「ピガルム」(血分け)として知られる禊ぎの儀式で、メシア的指導者と性的な交わりをもつことを、信者たちに強制していた。文師はつねにこれらの報道を否定し、それは正統宗教の指導者たちによる統一教会の信用を落とすための試みの一部だと主張している。

初期の統一教会では、会員たちは二部屋ある小さな家で会合を開いた。それは「三つの扉の家」として知られている。噂では、最初の扉で外套を脱がされ、二番目の扉で服を脱がされ、三番目の扉でセックスの準備として、下着を脱がされたという。真偽のほどは疑わしいが、服を脱がせようといういかなる試みも妨げようとして、衣類を七枚も重ね着して教会にいった女性の話もある。

一九五五年七月、こういった話が広く流布し、文師は風俗壊乱と徴兵忌避で逮捕された。どちらの告発も最終的には放棄されたが、教会が「血分け」を実践しているという噂はしつこく残った。

統一教会の初代会長—『原理講論』を書いた劉孝元—の妻、史吉子夫人は、大学当局が統一教会にまつわる噂を信じたために、梨花女子大学を追放された五人の教師と十四名の学生のうちのひとりである。


▲ 金聖道

一九八七年の演説で、劉夫人は、こういった話の出所を金聖道の聖主教団までたどっている。劉夫人は言った。献身的に祈ったあまり、「そのグループにいた多くの人びとは、自分たちは、堕落前のアダムとエバの位置に復帰させられたと感じた。だから彼らは完全に清められ、罪がないと感じた。彼らは言った。『私たちはアダムとエバのょうなものだ。アダムとエバは裸でいて恥じなかった!』そこであるとき、大いなる歓びから、彼らは服を脱ぎ、裸で踊った。この事件が韓国中に広まり、統一教会とは非常に遠い関係しかないにもかかわらず、それは私たちの教会が他のキリスト教徒から迫害される原因のひとつとなった」

こういった初期の日々の記録は、一九九三年、朴正華が『六マリアの悲劇』という題の本を出版したとき、ますます混乱してきた。朴は文師がー九五一年に韓国まで背負ってきたことで知られる弟子である。この本のなかで、彼は文師は確かに「血分け」を実践していたと述べ、文師の最初の妻が彼のもとを去ったのは、彼と他の女性たちとの性関係のためだと主張している。朴によれば、一九五三年、文師はまだ結婚しているあいだに、女子大生金明熙を妊娠させた。韓国では、姦通は刑事犯だったので、文師は愛人を日本に送って出産させた。息子喜進が一九五四年に生まれ、文師の子供と認知された。少年は十三年後、列車事故のため死亡した。

朴正華はこの回想録を出版したあと、文師から教会にもどるよう説得された。彼は統一教会草創期についての記述を否定した。私はいつも、この否定の代償はいったいなんだったのだろうと思ってきた。

私の両親は、ソゥルで別々に入信を勧誘されたが、その当時、性的な淫行の証拠はなにも見ていない。一九五七年までに、統一教会は韓国の三十都市に拠点をもつようになっていた。私の両親は異なった土地、まったく共通点のない背景からきたにもかかわらず、同じ理想主義的感覚から統一教会に魅了された。ふたりのどちらの子供時代も、宗教は生活の中心ではなかった。彼らは一九五〇年代後半の多くの韓国人青年と同じように、内戦からよろめき出てきて、自分たちの分断され、貧窮した国土のために役立つ道を探していた。私の母も父も、それぞれのやり方で、できるだけ大きな人生目標を求めていた。

私の父、洪成杓は一九五七年に教会に入信した。彼は全羅南道の小さな町から両親によってソゥルに送り出され、薬学を勉強していた。父の家族はその町の小さな農場で米と大麦を作っていた。伝統に従って、この農場は父の兄が相続することになっていた。そこで父と三人の姉妹は別に生活の道を求めなければならなかった。

父はこの都会が好きだった。彼はよい学生で、恩義を知る息子だった。だから彼が新興宗教への興味を語ったとき、両親がいい顔をしなかったのには、身を引き裂かれる思いがした。彼は、多くの新入会員と同様に、街頭で統一教会に勧誘された。彼と友人とは文師の初期の弟子のひとりから、講義に出席するよう誘われた。父は興味をそそられて帰ってきた。

すぐに父は定期的に講義に出席し、教会の世話係として活動するようになった。夏休みや学校の休日には、新しい会員を勧誘しようと、説教に出かけた。彼は文師のために、疲れを知らずに働いたが、多くの新入会員と違って、勉強を放棄はしなかった。

私の母、柳吉子は現在は北朝鮮となっている吉州で育った。彼女の家族は一九四〇年代に韓国にきた大量移民の一部だった。母は大学の入学試験準備中に、やはり統一教会の講義に誘われた。宗教生活は母が計画していた生活ではなかった。母は才能あるクラシックのピアニストで、演奏家としてのキャリアを夢見ていた。

文師とその教会に反対することでは、母の両親は父の家族よりもさらに断固としていた。私の祖母はとくに激しく反対した。祖母は母が教会にいくことを禁じた。それでも母はこっそりと家を抜け出して、礼拝に出席した。捕まって、反抗の罰に兄弟たちからたたかれたことも一度ならずあった。

ほとんどの韓国人は私の祖父母と同じだった。彼らは統一教会を危険ではないとしても奇妙なカルトとして見ていた。一九六〇年、文師が人類の家族の「真の母」となるべき花嫁を選んだとき、彼らの不安はさらに強くなった。四十歳になる文師から妻に選ばれたとき、韓鶴子はまだ十七歳だった。彼女の母親は金聖道の熱心な信者で、文師が「再臨の主」だと信じていた。彼女は自分の娘を神にあたえ、娘が「真の家庭」の「真の母」となることで幸せだった。
「人間の堕落は、自らの両親を失ったというひとことに集約できる」と文鮮明はアダムとエバの楽園追放について言っている。「人類の歴史は両親の探求だった。人びとがその真の父母に出会う日は、彼らの最高の日である。なぜならば、それまでは、何人も孤児院で暮らす孤児のょうなものだからだ。真の家庭と呼ぶべき場所はどこにもない」

文師は私に自分自身の父親の話をしたことは一度もなかった。しかし自分の母親と、彼女がいかに働き者だったかについては、大いなる敬意をこめて語った。彼のいとこは、「真のお父様」が六人姉妹と二人の兄弟のなかで、頭のいい、お気に入りの息子だったと回想している。あと双子が一組いたが、幼いとき死亡した。文師のいとこのひとり、文龍起は一九八九年に文師の母親金承継の誕生を記念して韓国でおこなわれた追悼式でこう語っている。文師は「少年のころ、とてもいたずらっ子だった。ある日、彼が六歳のとき、偉大なるお母様は彼がほとんど気絶するくらいの平手打ちを喰わせた。この一件で、偉大なるお母様は衝撃を受けたと思う。私は偉大なるお母様が彼を怒るのを二度と聞かなかった」

いとこにょれば、文鮮明の知能に気づいたのは彼の母親だったという。彼女は、なんとしても彼に大学教育を受けさせたがった。「彼はさらに勉強するために、日本にいかねばならなかった。けれども彼を送り出すための金がなかった。だから彼は故郷の町に帰らねばならなかった」といとこは回想する。「偉大なるお母様は真のお父様の日本での授業料を払うために、私の父親名義の土地を売りたがった。すべての土地が私の父の名義になっていたので、偉大なるお母様にはそれを売ることができなかった。そこで彼女は私に、土地を売って、真のお父様を日本の学校に送れるょうに、私の母の印鑑を借りてこいと言いつけた」この策略は、メシアのための神の計画の一部だった。メシアのための神聖な計画を支援するために、文家の他の家族は苦しまなければならなかった。

韓鶴子の子供時代は、彼女の母親が夢中になっていた霊的運動を中心にしていた。彼女は一九五五年に母とともにソウルに引っ越すまでは、済州島でひっそりと守られて暮らしていた。母親が自分の宗教生活に没頭していたあまり、彼女は祖母に育てられた。父親は、彼女がまだ幼いときに家族を捨てていた。韓鶴子が十一歳のとき、母親は文鮮明の賄い人になった。メシアが初めて韓鶴子を見て、結婚を決めたとき、彼女はまだ子供だった。

のちに文師はこう回想している。

統一教会創成期の女たちは命の危険を冒しても私を愛したがり、夜遅くであっても、私に会いに来た。だから人びとは私たちのことを噂した。女たちは、神を中心とし続けているとわかっている男のところに、自分たちがどうしてこんな訪問をするのかさえ、わからなかった。そして「聖婚」(一般の合同結婚式と区別するため「聖婚」と呼ばれる)のときがきたとき、老いた未亡人たちさえも、お母様の場所に立つことができるょう望んだ。ある女たちは、瞳を自信で輝かせて、自分が真の母だと主張した。七十歳の老女は、自分が私の妻となり、十人の子供を産むと言った!もちろん彼女には、自分がなぜそんなことを言うのかわからなかった。娘をもつ女たちは、神に心から祈り、自分たちの娘が真の母となるという啓示を受けたと言った。

しかし真の母となる女は予期されずに登場した。彼女と会ったことのある人間はほとんどいなかった……私は四十歳で、十七歳の娘と結婚しようとしていた。もしこれが神の意志でなければ、私以上に頭のおかしい者はいなかっただろう。ちょっと考えてみたまえ。そのときからお母様の大きな責任は、統一教会の重荷すべてを背負うことだった。多くのすばらしい、大学教育を受けた女たちが、一列に並んで、その資格を並べ上げていた。しかし私は彼女たち全員をはねつけ、十七歳の無垢なこ女をお母様に選んだ。なんという驚きだったことか!老女や母親たちは叫び、目をむいた!

文師は信者たちに言った。「若さは結婚の障害にはならないだろう。あなたたちが自分たちの子供が青年になり、性に目覚めたと認めるとすぐに、彼らは結婚において祝福される。なぜ彼らは結婚に失敗しなければならないのか?神が、あるいは天が、地上のそれぞれの人間に、食をあたえ、教育し、結婚させる責任を負っている。今日、人びとは熱心に働き、それでも充分な食料がない。人びとは結婚の準備ができている。しかし結婚はできない……愛の衝動を持ち始めたあと、なぜ置いてきぼりにされねばならないのか?適切な時を決定するのは父母の責任である」

文鮮明と韓鶴子は一九六〇年三月十六日、ソゥルの本部教会で結婚した。一ダースほどの会員が、その直前に教会を脱会し、自分がメシアであるという文師の主張と、弟子たちの結婚相手を彼が決める習慣について話を広めた。文鮮明と韓鶴子が「御聖婚」において結ばれたとき、街頭では憤慨した教会員の親たちが抗讓していた。

文師の見方では、反対されることも結婚と同様、神の摂理だった。「ィエスは国家により、司祭により、すべての人により迫害された。私たちがィエスと同じ状況にいないかぎり、復帰はなされない。だからこそ、韓国全体が、私たちを迫害するために動いているのだ。門の外から私たちに反対する声を聞きながら、私たちは聖婚式をおこなった。こうすることによって、統一教会は闘いのただなかで勝利を勝ち取った。もし私たちがこうしなかったなら、神はお喜びにはならなかっただろう」

一週間後、文師はもっとも近い弟子三名—金元弼、劉孝元、金栄輝—を自分が選んだ教会の女性と結婚させた。これらの結婚から一年のうちに、さらに三十三組の結婚が取り決められ、そのなかには私の両親もいた。文師は私の父に、花嫁を自分で選んでもよいと言った。これは例外的なことだった。教会は、結婚は霊的な結びつきであり、肉体的な魅力のような気を逸らせるものに影響されてはいけないと教えていたからである。父は文師の判断に従った。

文師が組合せを決めたとき、私の両親はおたがいを知らなかった。しかし彼が、おまえたちを組み合わせたのは、おまえたちが、おまえたちと統一教会とに名誉をもたらす子供たちをもつとわかっていたからだと日ったとき、ふたりともそれを信じた。

差し迫った結婚の噂を聞きつけた祖母は、母の靴を隠し、部屋に閉じこめた。母は弟に助けを求めた。彼は靴を見つけ、扉の鍵を開けた。母は教会まで走っていった。祖母はすぐにあとを追った。けれども間に合わなかった。私の両親が祖母の叫び声と教会の扉をたたく音を聞いたとき、文師はすでにふたりの結婚を祝福していた。

文師は、その日、祖母が教会に飛び込んできて、彼の胸を拳でたたきながら、彼が自分の娘を自分の知らない男と自分が信じていない教会で結婚させた、と告発したょぅすを決して忘れなかった。時が経つにつれて、文鮮明と私のどちらもが、私は祖母の魂を受け継いでいると信じるょぅになった。



▲「イーストガーデン」で開かれた文家の誕生パーティで歌う私。文鮮明師は、家族や教会の集まりで、私たち一人一人に歌わせた。声が悪いので、私はこの習慣が大嫌いだった


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第2章   迫害と飢えと信仰と

私の一番古い記憶は、長く狭い廊下の隅の小さな暗い部屋だ。窓があったとしても、私の心の眼には見えない。家具があったとしても、それを思い描くことはできない。私にはただ、暗闇に取り巻かれ、むき出しの床にすわる小さな自分の姿しか見えない。

私はひとりぼっち。この家は空っぽだ。だが奇妙なことに恐怖心はない。私が感じているのはもっとあきらめに近いもの。ようやくよちよち歩きができるかどうかという幼女から連想するには奇妙な感情だ。だがそのときでさえ、それが私の感じていることだった。世界における私の居場所は運命で定められており、人生における私の役目は耐えることだ。

だれを待っているのかはわからない―学校から帰ってくる兄か、教会からくる子守か―だが、長く狭い廊下をこちらにくる姿が見えると期待はしていない相手がだれかはわかっている。私の母は、私の子供時代のほとんど家をあけていた。私は幼児期を母を求めて過ごした。母を求める気持ちは深いところにあって、明確な形をなしてはいない。それは私の心のうつろな中心部に肉体的な痛みとして感じられた。父と同様に、母は新たなる宗教的回心に対する情熱で満たされていた。文鮮明師の初期の弟子として、私の両親は、「再臨の主」が訪れたことを世界に広め、巣立ちしたばかりの統一教会のために、新たな、さらに熱狂した会員を勧誘することが、自分たちの使命だと考えていた。

私たちの存在そのものが、その使命のひとつの表れではあっても、子供はそれを複雑にした。文師は最初の「三十六家庭」に、「神の真の家庭」の基礎を建設するため、できるだけ多くの子供をもつよう命じていた。同時に、彼らが韓国中を、そして将来的には世界中を旅して、彼の代理として説教し、「証言する」ことも期待していた。文師はその信徒たちに、彼らが彼の世話をすれば、神が彼らの子供たちの世話をするだろうと教えた。文師の使命は緊急であり、それは母親と子供との個人的な絆を無効とした。

私たちをこの世にもたらしたのは、両親の宗教的な義務だった。しかし、ごく幼いころから、私には、彼らが第一に責任を果たすのは私たちに対してではなく、文師に対してなのだとわかっていた。両親は私たちに食べさせ、衣服を着せ、屋根をあたえた。私たちを愛していたことも知っている。しかし子供たちが渴望するただひとつのもの―両親の時間と心遣い―を両親は私たちにあたえられなかった。



▲ 私の母・柳吉子(左)と文夫人の補佐マルスク・リーにはさまれた私。プラカードは文鮮明師が脱税でダンべリー連邦刑務所に収監されたことに抗議するもの


柳吉子と洪成杓の結婚後士一年間に生まれた七人のうち、私は上から二番目の子供だった。私はソゥルにある母方の祖母の小さな家の床の上で生まれた。祖母は、祖母本人やほとんどの韓国人がクレージーなカルトと考えているものに娘が入信したことを、決して許さなかった。しかし、私の母を追い払ったことは一度もない。

教会自体には分配すべき金はなく、文師は弟子たちに生存への熱情だけをもたせて、国のあちこちに送り出した。両親はふたり一緒に旅をしたわけではなかった。彼らの影響を最大にするために、文師は弟子たちに別々になって、ひとりで「証言する」よう命じた。私の父と母は別々の方向に分かれ、韓国の小さな町へ、さらにもっと小さな村へと出かけていった。

私たちの世話は祖母やおばたち、あるいは私たちが「兄弟姉妹」と呼んでいた女性たちに託された。「兄弟姉妹」とは未婚の教会員で、既婚の弟子の子供を子守することで文師に奉仕した。自分たちの赤ん坊を他人、しばしば見知らぬ他人に任せきりにしておくなど、自分の両親にどうしてそんなまねができたのか、私自身母親になってみると、それはますます不可解なことである。どうしてこれが完璧な家族の模範でありえようか?

確かに、自分や自分の兄弟姉妹が一部の子供たちよりも幸運だったのはわかっている。文師の信者のなかには、説教をするために娘や息子を孤児院に置き去りにする者もいた。少数の人びとは二度と子供のところにもどらなかった。

かつて文師は、子供を育てる理想的環境について、こう語っている。「私たちは会員子女のための寄宿舎を考えたい。そこでは数名の責任者が少なくとも数年間、彼らを育て、教育する。これによってあなたがたは束縛なく必要な証言をすることができるだろう。私たちは、私たちのグループのなかに、このような寄宿舎と学校を指揮する資格と意欲のある人びとをもっている。これは、将来、私たちにこのような寄宿舎と子供たちを支援するための金ができたときの話だ。とても子供たちのためになり、両親のためになり、そしてとても運動のためになる。だれも個人としては天の王国には入れない。家族として入るのである」彼は私の両親も含めた初期の弟子たちに「このような学校のためにわれわれに資金援助をするほど裕福な人びとを見つけてくるよう」促した。

私にとって母と別れているのはつらかったが、母にとっても人生は楽というわけではなかった。旅行をするのは大変だった。母は汽車の切符を買うために、お金を恵んでもらったり、借りたり、干し草を運ぶ馬車に乗せてもらったり―田園に新しいメシアのお告げをもたらすのに必要なことはなんでもやった。母の報酬は、しばしば聴衆からの敵意だった。初期の統一教会員は、ばかにされ、石を投げられ、唾をかけられ、あざけられた。耳を傾けてもらえることはめったになかった。

母は熱心な祈りによって、自分の霊にしかけられる絶えざる攻撃と闘った。祈りが彼女の魂を満たしはしても、腹は満たしてくれなかった。母の腹はしばしば飢えと赤ん坊の両方で膨らんでいた。彼女は米と水、妊娠したその姿を見て哀れに思った農婦たちの慈悲で生きていた。自分の妊娠中の旺盛な食欲を思うと、母が黙って飢えに苦しんでいたのには驚異を覚える。

母の一日は長く、同じことの繰り返しだった。母は村の家に部屋を借り、日中は街角で説教をし、夜はほとんど空っぽの集会場で講義をした。娘時代には内気だったが、これらの歳月を経て、力強い語り手になった。スポットラィトを楽しめるようには決してなれなかったが、時とともに恐怖心を克服し、話すときには人を引きつけるようになった。

結婚当初、両親が苦しんだのは貧窮と別離だけではなかった。私がまだ母乳を飲んでいたころ、私の家族がソゥルに借りていた小さな部屋に兵隊がなだれ込んできた。兵隊たちは父に家から出るよう命じ、脅えて見つめる母の目の前で、刑務所に連行した。父の罪は軍への登録をしなかったことだった。韓国では、兵役は青年の義務である。のちに父が私に語ったところによれば、父は意図的に兵役を逃れようとしたわけではなかった。免除の話がついていると、保証されていたのだ。

その日、父をどこに連れていくか、兵士たちは母に教えなかった。私を腕に抱き、二歳になる兄の手を引いて、母は父を見つけるまでソウル中を刑務所から刑務所へ、警察署から警察署へと歩き回った。母の頭には、まっすぐ文師のところにいって助けを求めるという考えは一度も浮かばなかった。たとえどんなに緊急のものであろうとも、彼女の個人的な問題で騒がせるには、文師はあまりにも重要な人物だった。父の留守中、私たち三人を住まわせ、食べさせるために、母は超人的な奮闘をした。

そのあいだずっと、私の両親は決して文句を言わなかった。彼らは神の仕事をしていた。彼らは自分たちの貧しさを気高く思っていた。統一教会創成期に文師が耐えた苦しみに比べれば、自分たちの艱難辛苦など微々たるものだと、それを受け入れた。入獄、神なき共産主義者の手による迫害、南への長い徒歩の旅、文鮮明の試練の話はすでに伝説の域に達していた。しかしながら、そのころには文師はいい暮らしをするようになっていたのである。とくに弟子たちと比べれば、確かにいい暮らしだった。

文一家は、ソウル高級地区のひとつにあった本部教会の広い数部屋に住んでいた。彼らはその信者たちの労働に支えられていた。信者たちは文師とその家族の食事の世話をし、子供たちの面倒をみて、家を掃除し、衣類を洗濯した。

私が幼いころのほとんど、私たちはムーン夕ウンとして知られるソウルのスラムに一部屋を借りて住んだものだ。ムーン夕ウンという名前は文師とも統一教会とも関係はない。この地区は韓国の首都を見下ろす樹木のない丘の上に位置し、したがってより月に近かった。それは、狭く曲がりくねった道沿いに密集する小さな荒れ果てた家々のゲット—で、家はどれも同じ―平屋で暖房は煉炭ストーブ―だった。どの家の屋根も瓦葺きで、門のある石塀に囲まれており、この地域をうろつく泥棒よけに、塀の上には割れた硝子の破片が埋め込んであった。

私たちはムーン夕ウンで、次から次へとあまりにもあちこちの部屋に住んだので、それらは私の記憶のなかでみなごっちゃになっている。私は一軒の家の外の石段を思い出す。そこで兄と私は「家族」ごっこをし、幼い妹忠淑に小石のごはんを食べさせた。妹は教会の「兄弟姉妹」が私たちを止めるまで、おとなしくそれをなめていた。また別な一軒も覚えている。私たちは長い廊下の両側に二部屋を借りていた。ひとりの「兄弟姉妹」がー方の部屋で私たち子供と暮らし、両親は自分たちだけで狭い部屋を使っていた。ある日、家主夫妻が、私の両親が石炭を盗んでいると非難した。両親が疑われたことでかっとなった「兄弟姉妹」が激しく抗讓したので、家主夫妻は私たち全員をすぐに通りに放り出した。

一番よく覚えている部屋は、私にとって父の一番大切な思い出の舞台となった場所である。それは広い部屋で、小さなたんすでふたつに分けられていた。母は五人目の子供を産んだばかりだった。おばのひとりが手伝いにきていた。私たち年上の子供四人は、たんすの一方の側でおばと一緒に眠り、両親は反対側に布団を敷いて新しい赤ちゃんと眠った。

私たちは部屋の暗い側にいた。私は両親のそば、明かりのそばで眠りたかった。ある晩、暗くなってきたとき、私はたんすの両親の側で眠ったふりをした。私は彼らが私をそこに、その夜一晚、彼らとくっつきあって眠らせてくれるよう祈った。

そうはならなかった。父は私を抱き上げ、部屋の暗い側に運んでいった。これは覚えているかぎりで、私が父ともった、もっとも肉体的な接触だった。父が私を軽々と床から抱き上げた感じ、頸に触れるシャツのやわらかな感触をいまでも感じることができる。父に抱かれたことでとても幸せだったので、父と母からこんなに離れて、明かりからこんなに離れて眠らなければならない悲しみも和らいだ。

身近で接した瞬間をこれほど生き生きと思い出すのは、こういった瞬間があまりにも少なかったからだと思う。私たちは気の遠くなるような繰り返しと赤貧の生活を送っていた。身近な接触があったとすれば、それは貧者同士によるいや応なしの接触だった。ムーン夕ウンには屋内の配管設備はなかった。私たちは家の裏にある公共の給水栓で顔を洗い、歯を磨いた。近所中が使う、腐臭の漂よう便所で用を足した。

便所の汲み取りトラックがムーン夕ウンをまわっていたが、その回数は充分ではなかった。私は便所にいくのをできるだけ我慢した。もう待てなくなると、屋外便所の扉を押しながら、息をこらえた。凍えるような冬のあいだでも、人間の汚物の悪臭は圧倒的だった。夏には、そこいらじゅうに蠅がいた。蠅を追い払うのに、鼻をつまんでいた指を離せば、げぇっと吐きそうになった。私は空気を求めて、便所を飛び出した。

週に一度、家族全員が身体をきれいにするために、並んで公衆浴場へいった。ひとりひとりが石鹼、シャンプー、夕オル、清潔な着替えを入れた小さな金物のバケツをもった。私たちは小銭を払い、男の子は一方の扉、女の子は反対側からなかに入った。内部には広い部屋が二室、それぞれに湯気を立てる巨大なお湯の槽があった。いまでも、何十人もの女や少女が一列に並び、裸の皮膚がお湯のなかで桃色に染まっていくのを目に浮かべることができる。銭湯に雇われ、わずかの料金で、多少は金のある隣人の背中をこする女たちがいた。私たちは共同のシャヮーで身体を流し、肉体的に清められて家に帰り、次の一週間を過ごすのだった。

私たちは子供で、子供にはものごとを経済的に測る感覚はない。私たちは自分たちがとくに貧しいとか、窮乏しているとか思ってはいなかった。いずれにせよ、私たちは右や左の隣人たちと違わなかった。私たちは階段で紙の人形で遊び、崩れた歩道でジャックスをした。混雑した通りから、さらになお混雑した教室へと、たがいに追いかけっこをした。そして、私たちよりも裕福な子供と同じようにけんかをし、笑いもした。


▲ ジャックス

私たちを彼らと分けていたのは金ではなく、信仰だった。私には最初からわかっていた。私たちの宗教は私たちの家族を異質にし、統一教会の会員であることは、長老派教会員や仏教徒であることとは違っていた。私は自分の宗教について、教会の友人たちとしか話さなかった。ほかの人びとが、私たちの信仰を奇妙だと、危険だとさえ思っていることを知っていた。幼い子供のころ、私は自分の宗教が他人の注意を引かなかったことに満足し、とくにそれを恥ずかしく思ったり、誇りに思ったりしたことはなかった。おそらく例外はクリスマスだろう。クリスマスには、自分の家族が、教会外の友人たちの家族のようならいいのにと思った。

ムーン夕ウンの生活を支配していた貧しさのために、この地区には、クリスマス・ツリーや手の込んだィエス様誕生のお祝いは珍しかった。けれどもソウルでは、サン夕クロースは貧者をも訪れる。しかし、私たちの貸間には決してこなかった。毎年、クリスマスィブになると、私は心ひそかに、今年こそサン夕クロースが友人たちみんなにするように、私の枕元にも小さなおもちゃをおいていく年なのだと信じて寝床に入った。毎年、クリスマスの朝になると、今年もまた、サン夕は私や私の兄弟姉妹のことを思い出さなかったと気づいて、苦い涙をこらえるのだった。

これは私の両親が冷酷だったからではない。いまになって母は、教会を確立させるのにあまりにも忙しく、頭と心は文師のための使命に集中させていたので、子供たちにクリスマス・プレゼントを買うという考えは、心に浮かびさえしなかったのだ、と言っている。私たちはクリスマスを、ィエスの教えに自分自身を託す日として尊重した。ィエスが、神が彼に意図した使命をまっとうできなかったと教えられてはいても、私たちには、彼の生誕の日を銘記することで、その数多くの霊的達成を確認するよう勧められた。文師によれば、大人にとってそれをする最良の道は、その日を統一教会のために勧誘をして過ごすことだった。

サン夕クロースを私たちの部屋にこさせることはできなかったが、私たちは見つけられるところに娯楽を見つけて、それを楽しんだ。兄はムーン夕ゥンを歩き回って、窓辺に秘密を告げる青い輝きを探した。その青い光はテレビをもつ数少ない家のありかを示していた。彼は扉に鍵がかかっていないことを願い、そんな家を見つけると、一家がテレビのまわりに集まっている部屋に抜き足差し足で入っていった。ときにはだれかが、見知らぬ人間が入り込んでいるのに気づき、彼を通りに追い出す前に、ひとつの番組全部を見ることができた。

私は兄の大胆さに驚き、同時にそれを称賛もした。そんなに図々しくすることなど、私には想像もできなかった。おそらくは幼いとき、いつもひとりでいたために、私は自分の親類であっても、人と一緒にいると落ち着けなかった。私が四歳、兄が六歳のとき、私たちは二百マィル離れた韓国第二の都市釜山に送られ、母方のおば夫妻のところで暮らした。両親は増えつつある家族に食事と住まいを提供できなかったのである。おば夫妻には子供がなかった。ふたりは小さな薬局を経営し、一部屋だけの二階で生活していた。

彼らは私たちに優しかったが、兄も私も家を懐かしんだ。店の裏に部屋があり、私たちはおば夫妻が働いているあいだ、そこでふたりだけで遊んだ。私はいまでも兄が学校から帰ってきて、そこで私と一緒になったときの幸せな気持ちを覚えている。私たちはちよっとしたごちそう、とくにパッカスという健康飲料を店からこっそりもちだし、裏の部屋でひそかに味わった。そんなごまかしを、私ひとりでする度胸は絶対になかっただろう。

妹の忠淑も同じころ、ソゥルに住む母方の祖父母の家に預けられた。ニ寝室の家には、母の兄夫婦も住んでいた。彼らには子供がなく、おばは妹をかわいがって、姪というよりは娘のように扱った。

のちに母が告白したところでは、母は私たち全員をそんなにも長いあいだ、遠くに預けるのを悲しく思い、文師に仕えながら、家族一緒に暮らせる方法を見つけられればいいのにと考えていたそうだ。しかしながら、当時母が優先したのは文師であり、私たちではなかった。両親が文鮮明とその教会の名で子供たちに期待した犠牲のなかで、彼らはこのことを一番後悔しているわけではないし、またこのことをもつとも深く悔いているわけでもないだろう。

釜山から帰るとすぐに、母は私を公立学校に入れた。私はまだ五歳で、同級生のだれからもまる一歳年が下だった。長いあいだひとりぼっちで過ごしたあと、乱暴な子供たちであふれかえる騒々しい校舎の光景は、私を恐怖惑で満たした。毎朝、私は登校を拒否した。この戦略は、もちろん不首尾に終わった。先生が私を連れにきて、教室に引きずっていくあいだ、私は望んでもいない注目をいっそう浴びることになった。

私の小学校では、どの教室にも八十人もの子供が詰め込まれていた。私は大勢の生徒たちのなかに埋没し、基本的要求さえ伝えられないほど内気で、惨めだった。私の机の下に、おしっこの池ができたときの同級生たちの残酷な笑いを、いまでも思い出す。私はあまりにも脅えていて、お手洗いにいきたいということを先生に伝えられなかった。

教会にいるほうが落ち着けた。教会は最初の最初から、私たちの生活の中心だった。眠る前おとぎ話をするかわりに、母は私たちに文師の伝記について霊感の物語をした。私たちは彼の伝記を私たち自身の生い立ちよりよく知っていた。文師と「真の家庭」の写真を飾ることは、部屋を借り換えるたびに最初にする儀式だった。部屋にはまた祭壇もあった。中央には「真の御父母様」の写真があり、花や蠘燭に囲まれていた。蠟燭は文師の祝福を受けたもので、サタンの力を弱めると信じられていた。

日曜は統一教会では礼拝の日である。もっとも私たちの一日は、正統のキリスト教諸教派の一日よりも早く始まり、ずっと長く続く。私たちは夜明け前に起きて敬礼式の準備をする。敬礼式は午前五時に始まる。ごく幼い子供も腕に抱かれた赤ちゃんも出席することになっている。ああ、小さいとき、そんなに早く起きるのがどんなにいやだったことだろう!「誓いの言葉」は毎月の一日と教会の祝日にも暗唱された。

私たちはよぅやく目を覚ますと、祭壇の前に集まる。まず、私たちは三拝敬礼―神と「真のお父様」「真のお母様」へのお辞儀―をして、それから「私の誓い」と称する「お言葉」を暗唱する。私は七歳になるまでに、その一語一句をすべて暗唱した。

1 宇宙の中心として、私はお父様の意志(創造目的)と私にあたえられた責任(個性完成)を完遂します。私はお父様に喜びと栄光とをお返しすることによって、創造理想の世界で永遠にお父様に仕えるために、従順な娘、善の子女となります。このことを私は誓約します。

2 私はすべての物を私に相続させよぅとする神の意志を完全に受け継ぎます。神は私に、神の言葉、人格、心をあたえて下さり、死んだ私を甦らせ、私を神とともにあって、神の真の子女になさしめてくれます。このために、私たちのお父様は六千年間、十字架の犠牲の道を耐えました。このことを私は誓約します。

3 真の娘として、私はお父様の性相にしたがい、神が私のために全歴史を通じて敵サタンを破った武器をもち、地のために汗を、人類のために涙を、天国のために血を流すことによって、召使いとして、けれどもお父様の心をもって、サタンに奪われた神の子女と宇宙を取り戻すために、サタンを完全に裁くまで、敵陣に勇敢に攻撃をかけます。このことを私は誓約します。

4 平和、幸福、自由、そしてすベての理想の源泉である私たちのお父様に喜んで仕える個人、家庭、社会、国家、世界、そして宇宙は、その本来の性格を取り戻すことによって、心と体の一体化した理想世界を実現するでしょぅ。これをなすために、私たちのお父様に喜びと満足とをお返しすることによって、私は真の娘となるでしょぅ。そしてお父様の代理人として、心情世界の平和、幸福、自由、そしてすベての理想をこの地上に実現します。このことを私は誓約します。

5 私は神を中心にしたひとつの主権を誇り、ひとつの民を誇り、ひとつの国土を誇り、ひとつの言語と文化を誇り、真のお父様の子女となることを誇り、ひとつの伝統を受け継ぐ家族であることを誇り、ひとつの心情世界を確立するために働く者であることを誇りに思います。私は自分の命をかけて闘います。

私は私の義務と使命の完遂に責任を持ちます。

私は誓約し、お誓い致します。

私は誓約し、お誓い致します。

私は誓約し、お誓い致します。

敬礼式のあと、両親は朝の六時から教会本部でおこなわれる文師の説教を聞くために、私たちをおいて出かけていった。文師はときには何時間も話し続け、それは十五時間におよぶことも珍しくなかった。会衆のだれかが、説教のあいだに手洗いに立つと不機嫌になった。だから教会中央集会場の板張りの床にすわる大人たちにとって、日曜は苦しい試練になりかねなかった。

私はごく小さい子供のうちから日曜学校に通い始めた。ムーン夕ゥンからのバスで通うには時間がかかり、何度もバスを乗り換えねばならなかった。母は兄の片手にバス代と献金のための硬貨を滑り込ませ。もう一方の手に私の手を握らせた。私は赤い手編みの木綿帽をかぶり、ひもをあごの下で結んだ。記憶のなかの私は、手をつないで通りを下りながら、いつも兄の優しい顔を見上げている。

私はいつも兄を見上げていた。少年のころでも、彼は年ょり賢かった。自分には彼のょうな優しさがないことは、私にはわかっていた。学校ごっこでは、兄が先生で、妹と私が生徒だった。忠淑が質問に答えられないと、兄は妹を助けてやった。私は金切り声をあげて、兄さんは不公平だ、忠淑はずるをしている、兄さんは忠淑をひいきしていると叫んだ。そんな自分を思い出すと恥ずかしくなる。兄はなんと忍耐強く、年上の子は年下の子を助け、教えてやらねばならないと説明したことか!私は兄の善良さに対して、ひそかに恥ずかしい思いをした。しかし私は頑固な娘だった。自分が間違っていると認めることは決してできなかった。私自身が始めた言い争いのあと謝るのは、いつも必ず兄だった。

だが、私の兄は聖人ではなかった。兄はいたずらな側面をもっていた。教会にいく途中のバス停近くに市場があった。兄と私はときどき日曜学校のかわりにそこにいき、母がくれた小銭でごちそうを買った。家ではいい食事をしていなかった―米とモヤシが私たちの日々の主食だった。だから兄と私とは、スパィスのきいた餅や魚のスープ、炒めた野菜をおなかいっぱい食べることに抵抗できなかった。

一度こんなふうにずる休みして家に帰ってきたとき、母は私たちに向かって、その日の日曜学校の教えを説明するよう言った。私は心臓が胸のなかでどきどき鳴るのを感じた。私が白状しようとしたとき、兄はにこにこしながら、先週習った聖書の話を思い出しながら話し始めた。私は彼の説得力に目を瞠ったが、私たちはこれ以上、一か八かに賭けるのはやめにした。翌週から、私たちは日曜学校に忠実に出席し始めた。

教会そのものはソゥルの広大な敷地内に建つ、いくつものビルのひとつだった。私たちは飾りたてた警備門をくぐって、広い中庭に入り、正面扉内側の棚に靴をおいた。

私は玄関で待っていて、文家の子供たちが二階の住居からおりてくるのを見るのが好きだった。文夫人が子供たちの先頭に立って階段をおりてきた。全員、教会の「兄弟姉妹」が洗濯した高価な服を着て、こぎれいで魅力的だった。文夫人はあまりにも若く美しかったので、幼い少女にとって、この女王のような女性を称賛せずにはいられなかった。私たちはみんな彼女をオモニム、韓国語で「お母様」と呼んだ。

文師夫妻は最終的には十三人の子供をもつが、私が小さいときは、まだそれほど大勢はいなかった。長女は私より五歳年上だった。長男の孝進は四歳年長。次女の仁進は私より一年足らず早く生まれた。次男の興進は私と同じ年に生まれ、三女の恩進はその翌年に生まれた。四男の国進は私より四歳下だ。文家のほかの子供は、彼らが一九七一年にアメリカに移ったあと生まれている。

私は文家の子供たちに憧れた。私たちはみんなそうだった。私たちは彼らの美しい母親と強い父親を自分のものにしたかった。私たちは、文師の寵を受けようとする大人たちが子供たちを特別扱いしても異を唱えないよう教えられた。私たちは、彼らのひとりを日曜学校の自分の班に誘い込もうと画策したが、それは毎週、献金に一番貢献した班が報奨されると告げられたからだった。文家の子供がひとりいれば明らかなプラスになった。残りの私たちは貧しかった。けれども文家の子供たちは毎週、献金皿に入れるために、手の切れるような新札を握りしめて日曜学校にやってきた。

こういったお札は、私にいつまでも消えない印象を残した。私は小さいとき、ぴかぴかの韓国の硬貨を集めていた。私は一番ぴかぴかの一枚だけを選び、それをさらに磨いて、私の特別の捧げ物として、日曜日、教会にもっていった。私は多くをもってはいなかった。けれども自分のもつ最良のものを神と文師にあたえた。自分自身の子供をもったとき、私はこの子供時代の習慣を続け、お財布のなかから一番きれいで新しいドル札を探して、子供たちに神に捧げさせた。

日曜学校では、私たちは『原理講論』と文師の啓示についてだけ習ったのではない。私たちは、正統のキリスト教諸派の子供たちが教わるものによく似た物語や寓話を聞いた。しかしながら、私たちのお話では、中心的な登場人物はィエス・キリストではなく文鮮明だった。私たちは、私たちの宗教を確立するための彼の霊的闘争の話を聞いた。私たちは、不信心者の手による彼の苦しみと迫害の話を聞いた。私たちは、彼は堕落した人間の重荷をその強い肩に背負う歴史的人物だと教えられた。私たちには文鮮明以上に神聖で、勇敢な指導者を想像することはできなかった。

私たちは「真の子女様」をこれに似た畏敬の念をもって称賛した。私たちは文家の子供たちの名前と業績をすべて覚えた。彼らに話しかけるときは、敬称の「ニム(~様)」を名前につけた。彼らが学業や芸事であげた成績やその存在のレベルの高さは、彼らが卓越している証拠として、私たちに伝えられた。私たちは彼らに平伏さんばかりだった。

私たち自身のあいだにさえ、ヒエラルキーがあった。最古参の弟子三人の「祝福子女」(合同結婚式で結婚した統一教会員の子供)たちは彼らだけでひとつの階層を成し、続いて私たちのょぅな三十三家庭の子供がくる。私たちの親は全員、自分の子供たちを、文家次世代の婿や嫁候補として前面に押し出そぅと激しく競争した。教会内における立場は、文師夫妻との関係と直接結びついていた。義理の関係になることは、自分の家族が内側のサークルに地位を確保することを意味した。

祝福されていない両親の子供たちにとって、教会は残酷な場所になりかねなかった。兄はある日曜の事件をほとんど涙を流さんばかりに語った。幼い少年、祝福されていない子供が自分のバスの切符を献金皿に入れたのに、無情な大人はそれを拒否し、少年の愚かさを叱りつけた。兄はぞっとするほどの反感を覚えた。このバスの切符が少年のもつもっとも価値あるものであるのは明らかだった。

子供のころ、私たちが文師自身と交わることはめったになかった。私たちは彼の姿を日曜と教会の祝日に見た。祝日はたくさんあった。「真の父母の日」、「真の子女の日」、「真の万物の日」、「真の神の日」、「真の父母様御聖誕日」。「真の父母の日」は文鮮明と韓鶴子の結婚を記念する。彼らは完璧な夫婦であり、私たちは彼らがエデンの園を取り戻し、地上天国を確立するための基礎を創造したと信じていた。十月一日の「真の子女の日」は、神の子としての「真の御父母様」と私たちとの絆を記念する。五月一日の「真の万物の日」は、被造物に対する人間の支配を象徴する。「真の神の日」の一月一日、新年の最初の日に、私たちはあらためて文師の使命に自らを捧げる。

教会のお祭りでは、音楽と食事がいつも中心的な役割を果たした。子供たちが大人たちを楽しませることになっていた。大人たちは文師夫妻の前の手の込んだ供物台の上に果物や料理を並べた。私は選ばれて文師のために歌わなければならなくなることを恐れた。私は相変わらずとても内気で、ひどい声をしているという事実は隠しようがなかった。四年生のとき、私は二人の祝福子女―私の友だちの女の子―とともに選ばれて、文師夫妻のために、全会衆の前で歌うことになった。私たちは脅えており、それは私たちの演奏の助けにはならなかった。子供にとって、神自身から地上に遣わされたと信じる男の面前で、落ち着いていることは難しい。

同じ年、両親は私を私立学校に通わせ始めた。そのころまでに、私たち家族は質素な家を借りられるようになっていたが、金銭的には少しも安定していなかった。韓国では、教育は両親の第一の関心事である。母と父は、七人の子供たちに可能なかぎり最高の教育を受けさせるためには、基本的な衣食住の楽しみなどなくてもなんとも思わなかった。私たちは家族で休暇を過ごしたことはめったになかったが、私は毎日ピアノのレッスンに通った。

しかしながら、彼らが教育に関心をもっていたことは、彼らが月謝をいつも期限までに払ったことを意味はしない。ある午後、先生は私たち数名の生徒に、授業のあと残るように言った。支払いの期限が過ぎていた。先生は、集金のため、私たちの家を一軒一軒訪ねるつもりだった。私は先生と同級生に、私たちの住んでいた粗末な家を見せるのが恥ずかしかったので、かわりに父の事務所に連れていった。

文師は、産業は基礎であり、神の王国はその上に建てられると教えている。現在彼は、食品加エ、水産業、製造業、コンピュー夕ー、製薬業、造船、電子工学を含むビジネス帝国を支配している。一和はその帝国の最初の敷石だった。

一和は韓国四力所の近代的な工場で四十種類以上の薬品類を生産している薬品会社である。炭酸入りミネラル・ゥォー夕ーと大衆的なソフトドリンクのポトリングをし、十種類の朝鮮人参製品を市場に出している。私の父は一和を無から作り出した。私が教師と同級生を父のオフィスに連れていったころには、父は大成功した会社の社長になっていた。私は彼らが強い印象を受けたのがわかり、父の成功の恩恵に浴した。

父は、文師の初期の信徒の多くょりも賢かった。彼は自分を教会に縛りつけたが、教育を終えもした。十年間におょぶ街角での証言と教会の説教のあいだ、薬学の学位を使ぅことはなかった。しかし一九七一年、文師は父に五百ドルを手渡し、教会は朝鮮人參製品を開発し、生産しなければならないと言った。文師は教会が影響を広げつつあった日本での朝鮮人参人気を聞かされた。ひとりの日本人会員が、韓国にも需要があるはずだと助言し、結果的にそれは正しかった。

父はこの多年草の薬草を実際に見たことはなかったが、何世紀にもわたって、東洋の人びとから、並外れた治癒力と回復力をもつと言われてきたのを知ってはいた。朝鮮人参は老化を遅らせ、精力を亢進し、活力をみなぎらせると信じられていた。

父は、地元の市場にいって、この噂の薬草を一瞥することから始めて、韓国でもっとも利益をあげる製薬会社を作り上げた。続く十年間、父が一和をお茶、カプセル、エキス、飲料を含む韓国朝鮮人参製品専門の巨大会社に作りあげるために働いているとき、私はほとんど父の顔を見なかった。朝、私が目を覚ますと父はすでに出かけており、夜、私が眠るときにはまだ仕事をしてぃた。

父はひとつのアイディアを、文鮮明のための重要な利益のあがる企業に変えた。一和製品のひとつ、メッコールは韓国では、コカ・コーラと同じくらい人気のあるソフトドリンクである。一和のメッコールとジンセン・アップ、瓶詰めのミネラル・ゥォー夕ーは、この会社を韓国一のソフトドリンク・メー力ーにし、その市場占有率はは六二パーセント、輸出先は三十力国以上にのぼる。

父がメッコール開発に邁進したのには、一和のために利潤をあげることと同時に、貧しい人びとの役に立とぅとしてのことでもあった。メッコールの主原料は大麦だ。その人気―文鮮明はアメリカにいてもメッコールを飲む―は、韓国で生きていくのにぎりぎりの収入しかなかった大麦農家に市場を作り出した。父は農民の息子であり、この世の富のためではなく、天国の報いのためにこつこつと働いていた。富の行き先は文鮮明だった。


▲ アラスカ州コディアク沖の「真のお父様」の魚船の上で夕コを釣り上げる文孝進。文鮮明は多くの家を所有しているが、コディアクにも一軒ある。左から文鮮明、文夫人の韓鶴子、息子・信吉を抱く私、孝進



わが父文鮮明の正体 – 洪蘭淑 2

わが父文鮮明の正体 – 洪蘭淑 3

わが父文鮮明の正体 – 洪蘭淑 4

TV番組「60分」で洪蘭淑インタビュー

文鮮明「聖家族」の仮面を剥ぐ – 洪蘭淑

ビデオ『 わが父 文鮮明の正体 』 日本語版


英語で   English


▲ Nansook Hong: In The Shadow Of The Moons: My Life in the Reverend Sun Myung Moon’s Family (1998)
▲ 洪蘭淑:『月たちの影で– 私が過ごした牧師文鮮明一家との日々』 (1998)

In the Shadow of the Moons book, part 1


In the Shadow of the Moons book, part 2

In the Shadow of the Moons book, part 3


In the Shadow of the Moons book, part 4


Nansook Hong ‘60 minutes’ and radio interview with Rachael Kohn

Nansook Hong interviewed by Herbert Rosedale

Nansook Hong “I snatched my children from Sun Myung Moon”

Nansook Hong – The Dark Side of the Moons


Korean

홍난숙

박사무엘 비디오의 대본

野錄 統一敎會史 (세계기독교 통일신령협회사) – 1
.    박 정 화 외2인 지옴 (前 통일교창립위원)

野錄 統一敎會史 (세계기독교 통일신령협회사) – 2

1955년 통일교 – 사교여부 는 『노 | 탓취』

김백문의 ‘섹스 타락론’, 무엇을 말하나


スペイン語で   Español

Nansook Hong entrevistada

‘A la Sombra de los Moon’ por Nansook Hong – parte 1

‘A la Sombra de los Moon’ por Nansook Hong – parte 2


フランス語で   Français

J’ai arraché mes enfants à Moon – Nansook Hong

L’ombre de Moon par Nansook Hong (Auteur)
(1998)
Editions N° 1
ISBN-10: 2-86391-883-4

« L’ombre de Moon » par Nansook Hong – Part 1

« L’ombre de Moon » par Nansook Hong – Part 2

« L’ombre de Moon » par Nansook Hong – Part 3

« L’ombre de Moon » par Nansook Hong – Part 4


ドイツ語で   Deutsch

Ich schaue nicht zurück    Hong Nansook (Autor)
(2000 und 2002)

Nansook Hong – Ich schaue nicht zurück – Teil 1

Nansook Hong – Ich schaue nicht zurück – Teil 2

Nansook Hong – Ich schaue nicht zurück – Teil 3

Nansook Hong – Ich schaue nicht zurück – Teil 4

Niederschrift von Sam Parks Video


ドナ·オルメ·コリンズ氏の証言

統一教会女性信者が自殺した 「四千人」南米大移働の謎