▲ 1990年11月、マンハッタンにあるニューヨーカー・ホテルの私たちの専用スイート・ルームにて。夫・孝進と私、子供たち。私たちは統一教会の正式な礼服を着ていろ。一般会員は白い服を着る。文鮮明の家族の服は金モールで飾られている
第6章 苦しい陣痛の末に
私が文鮮明の孫を身籠もっていたとき、彼と韓鶴子は十三番目の子供の出産を待っていた。
文夫人の産科医は、十人目の子供の出産のあと、さらに妊娠すれば夫人の健康はもちろん命にもかかわりかねないと警告した。文師は単純に医者を替えさせた。彼はメシアの罪なき「真の子女」をできるかぎり大勢この世にもたらそうと決意していた。
しかしながら、文夫妻は子供たちの養育にはあまり手をかけなかった。「真のお母様」と「真のお父様」に赤ちゃんが生まれるとすぐ、その子は教会の「兄弟姉妹」に預けられ、彼らが乳母や子守をした。「ィーストガーデン」(東の園)にいた十四年間のあいだ、文師か夫人が子供たちのだれかの鼻をふいてやったり、一緒にゲー厶をするのを見たことは一度もない。
文師夫妻は自分の子供たちを放っておいたし、私自身も、彼の創成期の弟子二名の娘として、子供時代に両親の放置を耐え忍んだ。文師はこの点に関して、ひとつの神学的説明を用意していた。メシア第一、である。彼は信者たちが彼の代理として、大衆に対する改宗運動に身を捧げることを期待していた。個人的な家族の幸せを追求するのはわがままというものだった。
文師は最古参の弟子のあいだから特定の夫婦を指名して、文の子供たちひとりひとりの道徳的霊的発達の責任を負わせることまでさせた。彼は主張した。こういった親としての義務を自分自身で果たそうとすると、より大きな使命、世界を統一教会に改宗させることから自分を逸らせてしまろ。
文鮮明はこの姿勢から生み出された子供たちの恨みに気づいていなかったわけではない。「私の息子や娘は、両親が統一教会員、とくに三十六家庭のことばかり考えている、と言う」と文師は私の結婚式のほんの数力月前に、ソゥルの演説で言った。
「私は自分自身の息子や娘を追い払うことまでして、三十六家庭と朝食を食べる。子供たちはもちろん疑問に思う。『私たちの両親はどうしてこんなことをするのだろう?私たちの両親がどこかで私たちと会うときでさえ、彼らは本当に私たちのことを考えているようには見えない』
私が私たちの教会員をだれよりも愛し、自分の妻や子供たちさえ放っていることは否定できない。これは天の知るところである。もし私たちがこのような生き方をし、子供たちの反対にもかかわらずこの道を進み続け、私たちの家族を放っておけば、最終的には国と世界は理解するようになるだろう。私たちの妻や子供たちも同様に理解するようになるだろう。これはあなたがたが進むべき道である」
明らかに、文師夫妻は、この道に用意されている本当の問題について、あまり考えてはいなかったようだ。私がアービントン高校に入学したすぐあと、仁進と興進がハックリー校から転校してきた。「お父様」が言うには、自分のほうがこの私立学校を放棄したのであり、その理由は子供たちが教師から「厶ーニー」とばかにされて、いじめられたからだった。
しかし、事実は文の子供たちの何人かはひどい生徒だったということである。一度、公立学校に入ると、彼らはもっとも生意気な同級生たちの服装とスラングと態度を身につけた。新しい友人たちのあいだで使うのに西洋風の名前さえ考え出した。たとえば仁進はしばらくのあいだ自分をクリステイーナと呼び、それから夕チアナにした。孝進が彼らのパーテイに加わるとき、彼は自分をステイーブ・ハンと呼んだ。
文家の年長の子供たちは、仮名によってのみ「真の家庭」とのあいだに距離をおこうとしたのではない。ほとんどの子供が、彼らの宗教の教義すべてを無視することに、ひねくれた喜びを得ていた。文師夫妻は大して注意を払わなかった。その春、彼らには闘うべきより公然たる問題があった。「お父様」が脱税で裁判にかけられようとしていた。
その前の秋、孝進と私がマッチングさせられるほんの数週間前、ニューョークの連邦裁判所で、一通の起訴状が文鮮明に手渡された。彼は、三年間にわたり、偽りの所得申告を提出し、百六十万ドルの銀行預金に対する十一万二千ドルの利子の申告と七万ドル相当の株の取得を明らかにすることを怠った疑いで告発された。補佐のひとりが、虚偽の申し立てと、文師の犯罪隠匿のための書類作成によって、偽証罪、共謀罪、司法妨害で告発された。
文師は韓国旅行から合衆国に帰り、これらの告発に無罪を申し立てた。「お父様」はニューョークの連邦裁判所前の階段で、喝采する二千五百人の支援者に対し、自分は宗教迫害と人種偏見の犠牲者であると主張した。「私の肌が白く、私が長老派教会員であったなら、私は今日、ここには立っていなかっただろう。私が今日ここにいるのは、ただ私の肌が黄色で、私の宗教が統一教会だからである」
その年の初め、六力月間にわたる名誉毀損裁判の結果、イギリスの陪審が、統一教会は若者を洗脳し家庭を破壊するカルトであるという全国紙「デイリー・メイル」の記事は信頼できると結論したとき、「お父様」は同じような声明を出している。
英国高等法院陪審は教会を「政治的組織」と表現し、慈善団体としてのその免税特権廃止を検討するょぅ政府に促した。陪審はまた裁判終了時、統一教会に百六十万ドルの裁判費用支払いを命じた。これは英国史上もっとも長く、また費用のかかった裁判である。
ニューョークの脱税事件では、「お父様」は統一教会とその傘下企業のひとつワンナップ・エン夕ーブライズが連署した誓一約補償金二十五万ドルで保釈された。裁判は四月一日に始まった。
文夫人は臨月間近だったにもかかわらず、毎日、連邦裁判所まで「お父様」に同行した。三女の恩進と私は一度だけしかいかなかった。私は言葉の壁のために、訴訟手続きのひとことも理解できなかった。けれども私には、この裁判所のなかでなにが起きているのかを知るために、なにが話されているのかを理解する必要はなかった。文鮮明は告訴されているのではない。迫害されているのだ。
「お父様」は私たちに説明していた。自分の身に起きていることは、アメリカ合衆国における宗教偏見の長い歴史の一部なのだ。最初の移民たちは宗教の自由を求めて北米にやってきたにもかかわらず、自由のかわりに不寛容を見いだした。ベルべディアの日曜朝の説教で、彼は私たちにマサチューセッツで魔女として絞首刑になった無実の女性たちや南部で石を投げつけられたクエー力ー教徒、西部で殺されたモルモン教徒の話をした。「お父様」の裁判のきっかけとなった国税庁の調査もこの恥ずべき伝統の一部である。
家族と職員は、毎朝、「イーストガーデン」十八エー力ーの敷地内の森に切り開かれた「聖なる岩」へ詣でた。「お父様」はハドソン川を見下ろすこの丘の場所を「聖地」として祝福していた。それは美しく、損なわれていない場所だった。そこで祈ると、私が知るどこょりも神に近く、二十世紀から遠く離れて感じられた。それは静かな瞑想のための場所であり、一九八二年にも、ヘンリー・ハドソンがニユーョークのこの地域を探検した一六〇九年と、たいして違っているようには見えなかった。
「お父様」は毎朝、夜明け前に、ひとりで「聖なる岩」で祈った。私の母も含めた年配の女性たち、「祈り星」たちは、六週間の裁判のあいだ、毎日、そこで徹夜の祈りを捧げた。ときには「真の子女様」と近所に住む「祝福子女」たちがそこに集まり、「お父様」の無実の罪が晴らされるように祈った。丘の上がいかに寒かったか覚えている。私は妊娠中で、寒さのために関節が痛んだ。けれども私の不快感など、「お父様」が耐えている苦痛に比べれば、ものの数ではなかった。
五月に「お父様」が有罪判決を受けたとき、涙が流されたが、私は文師とその側近の顧問たちのほかには、彼のおかれた深刻な状況を理解していた人がいたかどうか疑わしく思う。私たちのだれも、合衆国地方裁判所判事ジェラルド・ゴーテルがその権限を行使し、「お父様」に懲役十四年の刑を宣告するとは思っていなかった。「ィーストガーデン」では、「お父様」が脱税で有罪判決を受けたことについての沈んだ気持ちも、統一教会は正真正銘の宗教組織であり、免税特権をもつというニューョークの別の法廷の裁定によって相殺されていた。
二力月後、ゴーテル判事は文師に懲役十八力月、罰金二万五千ドルの判決を下した。「お父様」は判決をストィックに受け入れた。文師の目論見では、彼の収監——彼の夠教——は神の摂理だった。アメリカ統一教会会長モゥゼ・ダーストは「お父様」の有罪判決をィエス・キリストが「国家に対する裏切り」で有罪とされたことと比較さえした。文師の弁護士たちはただちに上告を申請した。「私たちはアメリカの裁判体系に最高の信念をもっている。正義はなされるだろう。そしてわれわれの霊的指導者は完全に汚名を晴らされるだろう」とモゥゼ・ダーストはマスコミに語った。「世界の偉大な宗教指導者のすべてと同様に、彼は憎しみと偏見と誤解に遭っているのだ」
文師を国外退去にするという検事たちの脅しに対抗して、教会は上告を進めるため、ハーバード・ロー・スクール教授で、憲法専門家のローレンス・トラィブを雇った。卜ラィブ教授は、「お父様」を国外退去にすれば、下は二力月から上は十歳までのアメリカ生まれの子供たち六人との接触を彼から奪うことになると主張し、成功した。ゴーテル判事は、国外退去は「重すぎる刑罰」だと同意しながらも、文師に対する一般の反感は、判決を「難しいもの、多くの人びとから支持されないよう定められたもの」にしていることを認めた。上告の結果は未決定のまま、「お父様」は家に留まることを許された。
「お父様」は有罪判決にあわててはいないようだった。その夏、孝進がふたたび韓国にいっていたとき、私は文師夫妻と一緒にマサチューセッツ州グロス夕ーにいった。教会はそこに漁船団と魚の加工場を所有していた。文師は世界の飢餓を救うために、いわゆる「海の教会」を設立したのだと言っていた。私たちはみんな、彼が船団を買ったのは釣りが好きだからではないかと疑っていた。「お父様」はグロス夕ーにカトリック教会から購入した邸宅「朝の園」を所有していた(文一家の住まいはすべて、エデンの園を連想させる名前がついていた。「東の園」「朝の園」、アラスカには「北の園」。アラスカに、「お父様」は漁船団ひとつ、コディアクの二力所に巨大な魚の加工場、ブリストル湾に第三の加工場をもっていた。ロサンゼルスの「西の園」、南米の「南の園」、さらにハワイにもうひとつ広大な所有地がある)。
その夏、「お父様」はケープコッド先端のプロビンス夕ゥンにも家を一軒借り、もっと釣りができるようにした。同行した厨房係の「兄弟姉妹」たちが食事の支度をしているあいだ、海岸で「お母様」と子供たちの世話をするのが私の役目だった。私は海岸での家族の昼食の給仕をし、泳いできた子供たちの身体をふいてやるなど、たいていは文夫人の侍女として行動した。これは報われず、満たされない仕事だった。彼女が泳ぐまで、私は泳ぐことができなかった。彼女が散歩をするまで、私は散歩できなかった。彼女についていくのでなければ、お手洗いにもいかれなかった。私はそこに彼女の侍女としていたのであり、それ以上でもそれ以下でもなかった。夜、私は彼女の子供たち、彼女の料理人たち、彼女のメイドたちに囲まれて、床の上の寝袋で眠った。彼女は私たちに、休息になるバカンスを提供していると自慢したが、私には休息しているのは彼女と子供たちだけのように見えた。
私自身は妊娠していたにもかかわらず、私は自分が文家の幼い召使いであるかのように感じた。「イーストガーデン」では、文夫妻が家にいるときには、彼らよりも早く起きて、彼らが起きてくるのを寝室の外で待っているよう求められた。嫁として、文夫妻の食事の給仕をし、一日中、文夫人の要求に応じるのが私の義務だった。学校にいっていないとき、あるいは週末には、朝から晚まで文夫人のそばにいた。そのほとんどの時間、私はなにかをとってくるため、なにかを給仕するため、どこかについていくために彼女に呼ばれるのを待って時間を過ごした。内容のない韓国製のメロドラマのビデオを一緒に見て、何時間も過ごした。彼女はそれを楽しみ、私はそれが大嫌いだったけれども、彼女がプロットを批評する場合に備えて、注意して見ていなければならなかった。
私は他の子供たちと一緒にキッチンで食事をし、一方「真の御父母様」は教会幹部や来訪中の重要人物たちと食事をした。私たちは、脱税裁判の展開をひそひそ話を通じて知った。「お父様」は自分の状況について、私たちに決して直接は話さなかった。彼の目から見れば、私たちはただの子供にすぎなかった。
自分が子供だったという点について、私が違う意見をもっていたと言うことはできない。キッチンは、小さな子供たちがミルクをこぼしたり、大きな子供たちが学校のことをおしゃべりしたり、屋敷内で本当に家庭らしく感じられる唯一の場所だった。私はよくべビーチェアの妍進に食事をあたえた。亨進はまだよちよち歩きだった。私は彼をキッチンの大きな丸テーブルから「ィーストガーデン」の丘へと連れだし、そこで野生の花を摘んだ。私は義理の姉というよりは本当の姉として、文の子供たちと一緒に育っていった。
三女の恩進と連れだって、文師がニューョーク州ポート・ジャービスに購入した馬の牧場ニュー・ホープ・ファー厶にいくこともあった。恩進は馬術が得意で、馬が大好きだった。文師が資金を提供していた韓国のオリンピック馬術団もそこで練習していた。文鮮明のお金が大きくものをいい、恩進は一九八八年の(ソゥル・)オリンピック馬術代表団のメンバーになる。
文家の年長の子供のなかで、私が「ィーストガーデン」にきたはかりのころ、とても親切にしてくれたもうひとりは二男の興進だった。彼は私と年が数力月しか離れていなかった。優しい少年だった。自分の部屋で猫を一匹飼っていた。この猫が子猫を生んだとき、興進はそのどれとも別れられず、だから猫たちが彼の部屋を占領した。私たちはときどき、興進が自分の寝室の隣の小さな電話コーナーで眠っているのを見つけたものだ。猫たちのせいで、自分のベッドでは寝られなかったからだ。「ィーストガーデン」で過ごした最初の冬、彼は私の誕生日にバラの花束をくれた。これはとくに思い出に残っている。孝進は私に力ードの一枚も贈ってくれなかったからだ。
その夏と秋、私は英語を身につけるため、そしてほとんどがスペィン語を話す年上の同級生たちから臨月間近の妊娠を隠すために、英語学校に通った。文夫人はその夏、私の妹や弟の世話のために、母を韓国に送り返していたので、私は「ィーストガーデン」でさらに孤独だった。妊娠は喜ばしいというょり、恐ろしい冒険だった。私は朝の気分の悪さに気力を奪われ、幼すぎてそれが一過性のものだとは知らなかった。私は、自分か赤ちゃんになにかひどく悪いところがあるのではと心配した。
孝進はめったに家にいなかった。ょくあることだが、退屈すると「七日間修練会」か「二十一日間修練会」を受けるため韓国にいくと言った。これは神に近づくことを目的とした教会の研修プログラムである。言い残していった目的とは裏腹に、ソゥルから聞こえてくるのは、孝進が自由時間をバーのホステスや昔のガールフレンドと過ごしているという噂だった。「ィーストガーデン」にいるときは、ひどく痛いという私の抗議にもかかわらず、毎晚セックスを要求した。痛みよりももっと衝撃的だったのは、お腹の子が育っていくにつれて膨張する私のウェス卜とヒップに対して彼が見せた嫌悪だった。私にとって、それは奇蹟だった。彼にとって、それは恥辱だった。彼は私を「でぶ」とか「醜い」とか言った。セックスをするとき見なくていいように、私のおなかを覆わせた。
文師はよく私に言った。孝進が神のもとに帰ってくるように、私はもっと祈らねばならない。父親になることがまもなく彼を変えるだろう。文師が、私たちはみんな、私の赤ん坊の健康を祈らなければならないと言ったのは、言葉のついでではない。はっきりと口にする人はいなかったが、私にはわかっていた。「ィーストガーデン」のだれもが、ドラッグとアルコールと無防備なセックスへの孝進の飽くことを知らない欲望のせいで、赤ちゃんに悪影響が出るのを恐れていた。
私はひとりでラマーズ法のクラスにいった。運転手が、フェルブス病院で、枕をふたつ抱えた私をおろした。ほかの妊婦は思いやりのあるパートナーと一緒だった。教師は私を、ラマーズ法の呼吸と訓練テクニックを勉強中の看護婦と組ませた。私は神が私を助けるために、彼女を遣わされたのだと感じた。たとえどんなに感謝はしていても、愛し合うカップルが自分たちふたりの赤ちゃん誕生の準備をしているのを見ると、心が痛んだ。女たちは、べビーベッドの形やチャィルドシートのことについておしゃべりをしていた。布おむつと紙おむつの利点について論じ合った。男たちは、赤ちゃんが内側で動くのを感じるために、妻のおなかに手をやりながら、ぎこちなく、けれども得意そうに見えた。孝進に私がやってみるかと尋ねたとき、彼はただせせら笑っただけだった。
六週間のクラスのあいだ、私はだれともしゃベらなかった。私は彼らが私のことをどう思っているだろうかと考えた。私はひとりで、だれよりもずっと若かった。きっと哀れに見えたにちがいない。私はこのクラスのあいだに、自分が毎晚頭から追い払っている真実を受け入れなければならなかった。孝進には私や赤ちゃんのことなどどうでもいい。
二月初旬に予定されていた出産に備えて、母が一月に「ィーストガーデン」に帰ってきた。母はコテージハゥスの一階で眠った。彼女がそこにいてくれてよかった。なぜならば二月二十七日、陣痛が始まったとき、夫はいなかったからだ。出産は三週間遅れていた。孝進は韓国から帰っていたが、出産が差し迫っていたにもかかわらず、毎晚ニューョークのバーに出かけた。私が産気づいたとき、夫がいたのはバーだった。母は苦しさを和らげるために、私に家のなかを歩き回らせたが、午後十時、私たちはついに医者に電話をかけた。医者はその時がきたと告げた。孝進はわざわざ連絡先の電話番号をおいていったりはしなかったので、「ィーストガーデン」の警備員のひとりが車を運転して母と私を病院まで連れていった。
私は脅えていた。「ィーストガーデン」からフェルブス病院までの十五分のドラィブのあいだにも、痛みは増していった。私は自分の身体に起こっていることが信じられなかった。私は母親学級を一回も休まなかった。陣痛と出産について本を読んだ。けれども陣痛のたびにおなかを引き裂く焼けるような痛みについては、そのどれも私に心構えをさせてはくれなかった。車のなかで落ち着いてすわっていられなかった。道を曲がるたびに、子宮のなかにナィフがあるように感じた。
長く眠れぬ夜のあいだ、母は私のそばに留まっていた。彼女の手は私の手を握り、痛みがきたときには私の涙をふいた。毎時間ごとに、私は看護婦に、赤ちゃんを出産するのに充分なほど子宮ロが開いたかチェックをするように頼んだ。一センチ、ニセンチ、私の子宮頸部は時計の針が回るのと同じくらいゆっくりと開いていった。私は夜が決して終わらないだろうと思った。自分の皮がふたつに裂けると思った。私は自分が死ぬと思った。
孝進は一晩中病院にはこなかった。朝きたときには二日酔いのように見え、すぐに帰った。彼は、陣痛が頂点に達するたびに痛みが私の上を通り過ぎていくのを見ていた。彼は私が泣くのを見ていた。彼は私がうめくのを聞いた。それから彼は気絶した。自分は夕フだと思っている男が陣痛室の床に伸びていた。それは見ものだった。孝進を助け起こしながら、看護婦たちは笑った。これほど苦しくなければ、私もそのおかしさを理解しただろう。そのかわりに、私は、私が彼を必要しているとき、またしても彼が私をひとり残していくことを理解しただけだった。
文夫人は「祈り星」と占い師の群を引き連れて、待合室にいた。彼女たちは陣痛室まで、最高の運勢を手に入れるためには、赤ちゃんは昼前に生まれてくる必要があると連絡してきた。医者はそれに手を貸すのにやぶさかではなかった。「それがあなたたちの文化なら、私にできることはしましょう」と彼女は言った。母は分娩室の外で待っていなければならなかったので、私は難局を切り抜けるために、看護婦たちの同情を頼りにした。私の力無いいきみを笑われたときには、首を絞めてやりたいと思ったことを告白しなければならないものの、看護婦たちはすばらしかった。赤ちゃんの頭は出てきては、また引っ込んだ。私には力がなかった。医師は会陰切開をおこない、鉗子を使って産道から赤ちゃんをひきだした。
それは女の子だった。濃い黒髪をしていた。顔には鉗子の赤い痕がついていた。目は閉じていた。私は彼女をかわいそうに思った。あまりにも小さく——七ポンドに足りないくらい——弱々しく見えたので、私は抱くのが恐かった。私は看護婦たちがおやおやという顔をするのを感じた。赤ちゃんをすぐに抱かなかったとき、看護婦たちは目配せをかわした。私は彼女たちが、私が自分の娘を愛していないと思ったのではないかと心配した。それほど真実から遠いものはない。私はただあまりにも若く、あまりにも脅えていた。
女の子だったという知らせは、予測していたとおり、待合室で落胆とともに迎えられた。男の孫を産むのが私の義務であり、私はまたしても文師夫妻を失望させた。たとえ私が統一教会の会員でなくても、韓国では反応は同じだっただろう。私の国の文化では、男の子はいまだに女の子より高く評価される。だが息子を産むという私の責任は統一教会の未来と結びついていた。「真のお父様」と「真のお母様」の長男として、文孝進は教会の使命を受け継ぐだろう。教会の長として、孝進のあとに続く息子を産むことは私の義務だった。
長女の誕生後、私は自分にはなにもできないという思いに圧倒された。彼女は私の乳首をくわえることができず、看護婦と私はどうやって手伝ってやればいいのかわからなかった。産科病棟の看護婦は、私の若さと下手な英語にいらいらしていた。だが、このとき私は、女性が母性本能と呼ぶものがなにを意味するかを知った。自分の赤ちゃんのか細い指ほど奇蹟的なものを見たことはなかった。彼女の透けるような肌ほど柔らかいものに触れたことはなかった。彼女の優しい呼吸ほど安心させてくれるものを聞いたことはなかった。私がなにをすべきか知らなかったとしても、私は自分の赤ちゃんを見て、それまでに自分が一度も知ったことのない愛を感じた。私たち、神と私の赤ちゃんと私とは、それをともに理解していくだろう。
赤ちゃんと私は、三月三日午後一時三十分に退院を許可された。孝進は「お父様」の車で私たちを「ィーストガーデン」まで連れ帰った。文師は新生児を祝福するために家で待っていた。私は、彼が赤ちゃんの誕生によって、神が孝進を本来の自分に復帰させるよう祈ったと確信した。しかし孝進の態度にはなんの奇蹟的な変化もなかった。私たちが退院した最初の晚、彼は私たちと一緒にいた。だがその後はバー巡りにもどった。
母は「ィーストガーデン」に数力月留まって、赤ちゃんの世話を手伝った。こんなにも母を必要としていることを、私は申し訳なく思った。母が娘を扱うときのなにげなさは、私自身のぎこちなさをさらに強調するだけだった。母がいなければ私は途方に暮れただろう。しかし私が眠っているあいだ、母が一晩中赤ちゃんのそばで起きていることを私はつらく思った。赤ちゃんをどんなに愛していても、おそらくは赤ちゃんをあれほど愛していたからこそ、これは私の人生で一番孤独な時だった。
娘の誕生以来、私は日記をつけるようになった。それをいま読み返せば、かつての私だった少女のためにすすり泣かずにはいられない。日記帳そのものも私の幼さを証明している——表紙は犬のキャラク夕ー、スヌーピーの絵だ。
一九八三年三月六日。「孝進はきのうの夜、午前二時に帰ってきて、午後の二時まで眠っていた。それから金ジングンと外出した」
統一教会では、新生児の誕生後八日目に「奉献式」が執り行われる。「8」という数字は統一教会でいう原理数で新たな始まりを意味する。儀式は洗礼ではない。なぜならば、私たち「祝福子女」は霊的には、生まれながらにして原罪はないと信じているからだ。「奉献」はむしろ新生児の誕生を神に感謝するお祈りのようなものである。
三月七日、私たちはこの儀式を長女のために執り行った。日記にはその記録が残されている。「孝進は赤ちゃんを抱いていた。お父様が祈った。私たちは赤ちゃんを手から手へとまわした。みんなが彼女の頰にキスした。朝食のあいだ、お母様は赤ちゃんをずっと抱いていた。彼女はご機嫌がよかった。赤ちゃんは生まれたばかりの孝進とそっくりだと言った。お父様は、赤ちゃんの目は神秘の小鳥の目に似ている。それは彼女が機智のある子になるという意味だとおっしゃった。西洋人は丸い目をしていて、それは彼らが考えていることを表してしまう。東洋人の目は入り込むことのできない暗い水たまりだ。お父様は、このことはわれわれがより大きく、より深い心をもつという意味だとおっしゃった」
翌日の夜、娘と私が退院した五日後、孝進は韓国にいった。いかねばならないというわけではなかった。彼は私たちから、赤ちゃんと私とが表している責任から逃れたかったのだと思う。「いつもよりは悲しくないと考えようとしている。なぜならば赤ちゃんが私といるのだから。でも赤ちゃんを寝かせたあと、自分の部屋にもどると、寂しさで打ちのめされる。心のなかに大きな穴があるような感じで、とても悲しく空っぽだ」と私は日記に書いた。「私は孝進が無事韓国に着くよう神に祈った。私はこの孤独で空っぽで悲しい心を満たすために、赤ちゃんを私にくださったことを神に感謝する。涙が流れ続ける」
私は孝進が、私たちの大切な娘の誕生をともに喜んでくれることを願った。だが、彼が一度韓国に到着したあとは、私たちは彼の思考のなかにはいないことを知っていた。「孝進は無事韓国に着いただろうか。着いたら電話をするよう頼んだけれど、それを期待はしていない。何日か待って、それから電話しよう。赤ちゃんの美しい写真をたくさん撮って、孝進に何枚か送ることにした」
生後まもなくのころ、こういった写真を撮るのは楽ではなかった。ほとんどの新生児と同様に、長女は規則的な間隔で眠ることができなかった。一晩中泣いていて、昼間はずっと眠っていた。母は疲れ果て、私は罪悪感でずたずただった。「お母さんは、自分の子供たちを育て、いま自分の孫を育てている。私はこんなふうにお母さんを苦しませていることに罪悪感を感じている。私は本当に多くを知らない。私は赤ちゃんに悪いと感じ、お母さんに感謝する」
「私は赤ちゃんをお風呂に入れた。赤ちゃんの頭を洗い、風呂桶のなかに入れた。私は赤ちゃんを石鹼で洗うこともできず、お母さんが入浴を終えた。私はお母さんにお礼を言い、恥ずかしく思った。私は赤ちゃんに悪いと思う。自分が母親に向いていないと感じる。私はいい母親になりたい。でも知らないことがありすぎる。私は赤ちゃんに悪いと思い続けずにはいられない」
日々は過ぎ、孝進は相変わらず電話をしてこず、私は相変わらず待っていた。「孝進はいまなにをしているのだろう。自分の娘のことを少しは考えているのだろうか」と私は書いている。「お父様は『孝進は電話をしてきたか?』とお尋ねになった。『いいえ』と答えねばならなかったので、気分が悪かった。孝進が幹部たちに、妻の役割について話したと聞いた。彼はいまなにをしているのだろう」
出産後、私の健康状態はょくなかった。韓国の女性は出産後とくに身体を大切にする。私たちは寒さから身を守るために、何枚も重ね着をする。何枚着ても、私の感じている寒さを遠ざけておくことはできなかった。私は病弱だったことはない。しかし小さかった。私の身体にはまだ出産の準備ができていなかった。関節に痛みがあり、それは妊娠のたびにひどくなっていった。その三月、私の感情的、肉体的、霊的惨めさは、たがいに競い合っていた。
「目が一日中痛い。歯がしみるので、なにも食べられない。どうして具合が悪いのか、わからない。頭痛がし、心は重い。赤ちゃんにお乳をやるのは少しあとにしなくてはならない。私は彼女に悪いと感じる。孝進はなにをしているのだろう。彼は電話をしてこない。そのことを考えもしないが、いまだに彼の電話を待っている。
最後に心の底から祈って以来、長い時間が経った。赤ちゃんが生まれたあと、私は怠惰になった。妊娠中は赤ちゃんのために祈るとき、もっと誠実でまじめだった。でも誕生後は、注意散漫になったと思う。落ち込み、気力がくじけているとき、孝進のことを考えるとき、私は赤ちゃんを見る。そうすると私の心は希望で満たされる。この子は私の希望のすべて。私のただひとつの希望はこの子にあり、私は孝進が帰ってくるょう祈る。もう一度、私は神が娘を私にくださったことを心から感謝する。アーメン」
一九八三年三月十八日。「朝からひどい雨。風も強い。私は机の前にすわり、孤独が私の心を満たす。自分がこの世界でただひとりだと感じる。私はよく、だれも私のそばにはいないと感じ、すべての人から遠いと感じる。赤ちゃんが隣の部屋にいるのに、自分がまったくひとりぼっちのように感じる……」
一九八三年三月十九日。「きのうとおととい、悪い夢を見た。夢のなかで、孝進は私と結婚しているのに、ほかのふたりの女と一緒だった。そのことについては考えたくもない。けれども夢はとても現実的だった。それはあまりにも鮮やかだったので、夢ではなく、現実のようだった。私は女たちの顔をあまりにもはっきりと思い出す。これまでに見たことは一度もない。去年、孝進はガールフレンドをニューョーク市に連れていって、一週間帰ってこなかった。私は彼が彼女といる夢を二回見た。私は彼女を知っていた。けれども、今度夢に見た女たちは知らない。きのうとおとといどちらも、違う女がふたりいた。いずれにしても、それはいい夢ではなかった。なぜ自分がこの種の夢を見るのかわからない。きっと彼のことを考えすぎているのだろう!あるいはこれはサタンの試練か!食欲がなく、霊的に弱くなっていると思う。
私は赤ちゃんをお風呂に入れる前に、孝進に電話をした。なぜ彼にとって、私に電話をするのがそんなに難しいのか、私には理解できない。ひとりでいるとき、あるいは眠ろうとしているとき、私は彼について考えずにはいられない。考えないようにしようとはしているが、思考の糸は続く。私は自分がなぜこんなふうなのかわからない。私はひとりになるのが恐い」
一九八三年三月二十二日。「お母さんは私を叱った。私が朝食を食べなかったからだ。食欲がなかった。あの悪い夢を見て以来、食欲がない。お母さんは、もし私が肉体的に弱くなったら、サタンが侵入してくる、だから私はサタンを嚙んでいるのだと思いながら食べなければならない、と言った!孝進が修練会でちゃんとやっていると聞いたが、それでも悪い夢を見る。おそらくサタンが私を試しているのだろう。私は自分が心理的、肉体的に弱くなったと思う。私はサタンに負けてはいけない。私は早く肉体的に強くなり、神と孝進、そして私たちの娘への責任を果たさねばならない」
一九八三年三月二十七日。「風と雨がとても強い。悪天候と疲労にもかかわらず、お母さんは三時に一時間『聖なる岩』にいった。かわいそうなお母さんとお父さん。私は彼らの具合がょくなく、いつも彼らの娘、私のせいで苦しんでいると感じている。孝進は修練会でちゃんとやっているだろうか。彼はなにをしているのだろうか。お母さんから、六日目に、彼がふたりのガールフレンドにそれぞれ一時間電話をかけたと聞いた。サタンは六日目に侵入してきた。われらが天のお父様は孝進をどうご覧になり、心配されているのだろう。私たちのかわいそうな神様」
一九八三年三月三十一日。「きのう、なんの理由もなく腹が立った。おそらくサタンの試練なのだろう。私は自分を抑えることができなかった。赤ちゃんの誕生以来、古い服が合わなくなった。そのことについて、この二、三日ちょっと心配していた。私は自分に言った。こんなことをしていてはいけない。私はもう十七歳。おこなうべきことをおこない、いくべき場所にいくべきだが、私には赤ちゃんがいて、私は中年の女になった。私はなんと哀れな娘なのだろう!ここにいることを後悔さえしている。私はなぜこんなふうなのだろう?天のお父様は幸せには感じず、私は申し訳なく感じる。それでも私はふつうの男性と出会って、彼の愛のすべてを受けたほうがいいと感じる。こんなふうに考えてはいけないと知っている。天のお父様、私は悔い改めま
一九八三年四月四日。「月曜午前二時。日記をつけているとき、今日なにをしたか考える。さて、私は一日をどう過ごしただろう!昼間、私は自分の状況を忘れようとする。けれども日記をつけるとき、自分の考えをまとめる。私はいつも内側が空っぽだと感じる。これは彼のせいなのか?お乳をあげるため、赤ちゃんが目を覚ますのを待ちながら、私は見つけた手紙を読んだ。それはロスにいる女からの手紙だった。前に、昔のガールフレンドからきた手紙を見つけて、引き裂いたことがあった。新しい手紙をなぜ破かなかったのかわからない。手紙についてはなにも感じない。私は怒ってさえいない。これを哀れな状況と思う。自分がどうしてこんなふうになったのかと思っている。彼がつきあっている女たちについては心乱されることはない。彼女たちを哀れに感じる。私が心乱す相手は孝進だ」
孝進は夏まで「ィーストガーデン」に帰ってこなかった。出ていったときに、小さな新生児だった娘は、バブパブと言う輝く目をした赤ちゃんになっていた。彼は韓国にいったときと同じように、彼女に関心がないように見えた。私は私たちの未来を恐れ、途方に暮れていた。その夏、文師夫妻は、私がアービントン高校にもどるのは不可能だと考えた。彼らは公立校当局が私の長期欠席の理由に過大な関心をもち、赤ちゃんのことが噂になるのを心配した。私は妊娠したとき、まだニューョーク州の承諾年齢に達していなかった。児童虐待、あるいは強姦罪で告発されるような立場に、息子をわざわざ追い込む必要はない。
私はニューョークのドブス・フェリーにある私立の女子校、マス夕ーズ・スクールに入学を許可された。私はとても興奮した。春以来、学校にもどりたくてしようがなかった。四月の日記に書いている。「すぐに勉強をしなければならない。それからピアノの練習も。私はなにもせずに、ただ自分の時間を無駄にしていた。勉強の計画を立てなければならない」学校は私の愛のない結婚と、私の鬱状態から気を逸らしてくれるだろう。それは私をよりよい母親にしてくれるだろう。「ィーストガーデン」にきて以来初めて、私は希望で満たされた。
ある朝、文師夫妻は私を彼らの部屋に呼んだ。私は不安になった。彼らが私を呼び出すとき、それはふつう、私が彼らの目には悪いと映ることをしたという意味だった。ふたりのどちらが私に怒っているのかを事前に知ることは決してなかった。ふたりともかっとなりやすい、いやな性格だったが、同時に腹を立てていることはめったになかった。このとき、私がお辞儀をするやいなや怒鳴り始めたのは文夫人だった。
おまえはマス夕ーズ・スクールの学費がいくらかかるのか知らないのか?おまえを教育するのにどれほどのお金がかかるのかわかっているのか?なぜ自分たちはこんな金を出さなきゃいけないのか?おまえは私たちの娘ではない。すでにおまえを食べさせ、衣服をあたえ、住まわせるのに金を払わねばならないのだ。あとどれくらいほしいのか?彼女はこれだけ話すのがやっとだった。それほど怒り狂っていた。彼女がわめき立てているあいだ、文師はなにも言わなかった。私は頭を垂れたまま、唇を嚙み、泣き始めた。私は考えた。自分は文夫妻が望むことはすベてやってきた。彼らのわがままな息子と結婚した。彼が妊娠中の私をおいて、ガールフレンドたちのところにいったときでさえ、彼の側に立った。私は彼らに美しい孫娘をあたえた。なぜ「お母様」は私を怒鳴りつけているのか?
文夫人は朴普熙の娘は高校の卒業証書を通信教育で取得したと言った。おまえも同じにすればいい。立派な教育を受けてどうしようというのだ?おまえも朴薫淑のしたようにできる。薫淑はいまやバレリーナだ。すべてうまくいった。おまえは家で勉強し、同時に赤ん坊の世話ができる。
私は啞然とした。私の両親はつねに教育を重視していた。彼らは自分たちの楽しみを犠牲にして、七人の子供たちができるかぎりで最高の学校に通えるようにしてきた。文夫妻は、私に卒業証書を郵便で取得させようとしているのか?私には、学校にもどり、同世代の人びとと会い、一日の一部を文家の屋敷の外で過ごす必要があることはわかっていた。文師がようやくロを開いたとき、私はありがたく思った。通信教育はよくない、と彼は「お母様」に静かに言った。われわれは蘭淑を学校にやらねばならない。
目の前でひざまずき、すすり泣いている私がそこにいないかのように、ふたりはいろいろな選択肢を議論し始めた。彼らは私の人生について、すべて重要な決定をし、そのあと、その結果のことで私を非難するのだ。私はなんとか涙を止めようとした。私はなにも悪いことはしていない。泣くべきではない。けれども泣かずにはいられなかった。文夫人は怒りをすべて吐き出してしまうと、突然、私がまだそこにいることを思い出した。「出ておいき」と彼女は叫んだ。私は急いで立ち上がり、階下へと駆け下り、職員の視線を避けようとしながら、コテージハウスへと急いだ。
夏のあいだ、私の教育の話はまったく出なかった。九月のある日、私はただ単に、翌日から、マス夕ーズ・スクールの第十一年生に通うよう告げられた。私はその年、学校まで運転手の車で通った。最上級生のとき、私は運転を習った。孝進は教えようと言ってくれたが、一回目の講習で侮辱の言葉を怒鳴り散らされたので、私は彼に「ィーストガーデン」の警備員のひとりから習うほうがいいと告げた。私が孝進に立ち向かったのはこれが初めてだった。彼が怒鳴っていたら、私には覚えられないのがわかっていた。そして彼には怒鳴らずにいる忍耐力はなかった。私は並列駐車さえ、文邸の敷地を離れずに習った。
私はマス夕ーズ・スクールが好きだった。勉強はおもしろく、学生には韓国人の娘も何人かいた。そのほとんどは音楽家で、週末はニューョーク市のリンカーン・センターにあるジュリアード音楽院で勉強していた。彼女たちにとって、私は合衆国で教育を受けるために国を出た、もうひとりの韓国人ティーンエィジャーにすぎなかった。彼女たちの両親と同じように、私の両親も韓国にいた。だれも文鮮明と私の関係は知らなかった。だれも私が結婚していて、子供がいることを知らなかった。彼女たちは私がアービントンで後見人と暮らしていると思っていた。だれもそれ以上のことは尋ねず、私は韓国の文化が慎み深い文化であることをありがたく思った。
マス夕ーズ・スクールにいたひとりの娘はとくに親切だった。彼女は私より若く、私を姉のように扱った。彼女が打ち明け話の相手を必要としているとき、私はその役を果たすのがうれしかった。彼女はソウルから家族が電話をしてくるとき、お母さんと話すことができなかった。お母さんの声を聞くだけで、ホー厶シックで泣き出すのだった。
私は彼女をかわいそうに思ったが、またうらやましくもあった。彼女を慰めながら初めて、私は自分の年ごろの女の子がふつうにもつ感情を経験しなかったと思った。もし母や家族を懐かしく思ったら、私は自分が神を失望させていると感じる。もし家に帰りたいと望めば、私は自分が自分の運命に抵抗していると感じる。もし自分の夫を憎めば、私は自分が文鮮明の敷智を疑っていると感じる。
私には自分の失敗や孤独を感じる自由はあったが、それを表す自由はなかった。結果として、同級生たちとの友情はあくまでも表面的であり、一方通行だった。その学年のあいだ、流産したと気づいたときも、だれかに打ち明けるわけにはいかなかった。
私は何週間も前から妊娠したと知っていたが、最初の診察にいきそびれていた。少量の血液が下着を汚すのに気づき始めたときも、あまり気に止めなかった。赤ちゃんをなくしたことを超音波検査が確認したとき、私は打ちのめされた。処置のためー晚入院したが、孝進はすべてが終わるまで会いにこなかった。彼は私が病室で泣いているところにきた。私を慰めるかわりに、彼はおまえの涙にはうんざりだと言った。彼は私たちが赤ちゃんを失ったことょりも、私が醜態を演じるほうを気にしていた。「おまえ、泣いてるときはとても醜い」と彼は言い、私をひとり、喪失感とともに残して立ち去った。
そのとき私は、本当の友達をもっていればと望んだ。だが、私は自分の生活と、教室で一緒にすわっている女の子たちの生活が似ているのは表面だけだと知っていた。流産のあとの孝進の心ない反応を見て、私は「真の家庭」のなかで生きていくためには、これまで以上に自分の感情を区分けしなければならないと気づいた。
同世代の若い女性の多くにもまして、私は子供と大人両方の世界に片足ずつを入れながら、そのあいだで宙づりになっていた。私はその春、高校の卒業式に着る白いロング・ドレスを母に選んでもらうほどに幼く、自立していなかった。しかし家では、私が式に出る準備をするのを見ている、よちよち歩きの娘をもつほどに年をとっていた。式には当時の副大統領ジョージ・ブッシュが名付け子だという同級生のひとりに頼まれて、祝辞を述べることになっていた。
「ママ、あたしもいっていい?」と娘は尋ねた。私は自分の大切な日、小さな娘を連れていきたいと願った。けれども私は娘を「ィーストガーデン」においていった。私には、自分が生きているふたつのまったく違う世界を、どのようにして一体化させればいいのかわからなかった。
▲「イーストガーデン」の家族室で、孫たちに囲まれた韓鶴子。私は息子の信吉に、祖母ヘのおじぎの仕方を教えている
第7章 投獄された教祖
一九八三年十二月二十二日、寒さと湿気のなか、ハドソン川渓谷は夜明けを迎えた。灰色の天気は「ィーストガーデン」(東の園)の気分を反映していた。「お父様」と「お母様」は何日も前に韓国への犬々的な講演旅行に出発。文師は反政府運動の拠点清州の集会で話す。全斗焕の抑圧的な軍事政権との密接な関係ゆえに、文師の安全には危惧が抱かれた。
「お父様」は私たちに、自分は敵の宿営地にいくのだ、なぜならば直接対決だけが、地上に遣わされたサタンの使者、共産主義者を敗北させることができるからだと言った。私たちは文鮮明が世界でもっとも勇敢な男だと信じた。「祈り屋」たちは「聖なる岩」で昼間を過ごし、旅の成功と安全を祈った。
文鮮明にとって、宗教と政治のつながりは、日本占領下における子供時代以来、明白なものだった。私たちの国が共産圏と民主圏に分断されたことは、彼の聖職者としての務めにさらなる政治的境界線を明確にした。共産主義者は、伝道説教師としての彼を投獄した。彼らは宗教の多様性を不法とした。彼らは敵だった。文鮮明師はその公的生活を統一原理の普及と共産主義の撲滅に捧げた。文鮮明にとって、一方の目的は他方の目的と分離不可能だった。
もし孝進が自分の両親のことを心配していたとしても、彼の行動には、それを示すょぅな変化はなにもなかった。その夜早く、彼はニューョークのパー巡りに出かけていた。真夜中に電話のベルが鳴ったとき、私は赤ちゃんとふたりだけで家にいた。電話は警備員のひとりだった。「事故がありました」と彼は言った。私はすぐに「真の御父母様」のことを思い浮かべた。「いいえ、お父様ではありません。興進様です」
興進ですって?
文師夫妻の次男はふたりの「祝福子女」と夜の外出からもどる途中だった。ニューョーク州バリー夕ゥンの統一神学校から遠くない凍結した道の上で、興進の自動車が故障中のトラックと激突した。興進と友人たちは、ハンティングに熱中していた文師の息子たちが校内に作らせた射撃場を使ぅために、ょく神学校にいった。三人全員が病院に収容された。
兄とヒー夕ー・キム、そして私はニユーョーク州ポーキプシーにある聖フランシス病院の緊急治療室に直行した。私たちのだれにも、なんの心の準備もできていなかった。二人の友人は負傷したものの、重傷ではなかった。しかし興進は衝突の際、脳に激しい衝撃を受けていた。私たちが到着したとき、彼は手術室で脳外科の手術を受けている最中だった。
私はピー夕ー・キムが廊下の公衆電話へと歩いていき、韓国の「お父様」と「お母様」に電話をするのを見ていた。彼はすすり泣いた。「お許しください。私はあまりにも役立たずです」と彼は始めた。「あなたは私にあなたの家族を任せられた。それなのにひどく恐ろしいことが起こってしまいました」電話は長くはなかった。文師夫妻は次の便で帰ってくると言った。
それまで私は重病人や瀕死の重傷者に出くわしたことはなかった。私と同年齢の少年、それも興進のょぅな優しい青年が、あらゆる種類の管や機械につながれて集中治療室(ICU)に横たわっているのは身震いのする光景だった。彼は意識がなかった。完全に不動のまま横たわり、自力では動けない彼の身体に、人工呼吸器が酸素を送り込む音だけが響いていた。彼の危機的状態を、医師から告げられるまでもなかった。
翌日、私たちは全員「真の御父母様」を迎えるために、ニューョークの空港にいった。私は文夫人の蒼白の顔の打ちひしがれた表情を決して忘れられないだろう。ピー夕ー・キムの電話を受けてから、彼女が一睡もしていないのは明らかだった。私たちは病院まで文師夫妻に同行した。そこでは教会の会員たちが、集中治療室待合室に送り込まれ、興進のために徹夜の祈りを捧げてぃた。
文師は興進の病室に入る前に、まずみんなを慰めた。文夫人は息子とふたりきりになりたがった。奇蹟は起こらないだろう。興進は脳死状態だった。一九八四年一月二日、文夫妻はその人生でもっともつらかったにちがいない決定をしなければならなかった。私たち全員が病院のベッドのまわりに集まるなか、十七歳の興進を生かしていた人工呼吸器のスイッチが切られた。彼は意識を取り戻すことなく世を去った。文夫人は命のなくなった彼の身体にすがりつき、その涙がベッドの真っ白なシーツに染みを作った。文師は乾いた目をして彼女の横に立ち、慰めえぬひとりの母親を慰めようとしていた。
残りの私たちは兄弟の死にたっぷりと涙を流したが、文師は私たちに興進のために泣かないよう命じた。彼は霊界にいき、神と一緒になった。私たちもいつの日か、ふたたび彼と結ばれるだろう。私たち全員は、「お父様」の強さ、息子の喪失よりも神への愛を前面に押し出すことのできる彼の力を称賛の念で認めた。母になったばかりの私は、文鮮明の反応に感銘よりも不可解な気持ちになった。
興進のためにべルべディアで大規模な葬儀がおこなわれた。文夫人の指示で、家族内の女性や娘は白いドレスを着た。男性は黒いスーツに白ネクタイを締めた。教会員は白い教会服を着た。階上で式の準備をしているとき、私はいつものぎこちなさを感じた。私は「真の子女様」ではなく、ただの嫁だ。だから自分がどこに属するのかよくわからなかった。私は自分の場所を、家族の端に見いだした。厨房の「兄弟姉妹」たちが、私たちが失った少年の思い出に興進のお気に入りの料理をすべて準備した。ハンバーガー、ヒザ、コカ・コーラ。テーブルはまるでテイーンエイジャーの誕生パーテイの用意がされたように見えた。
私はそれまで葬儀に出席したことがなかった。興進のひつぎは蓋を開いて、居間に置かれていた。それは広い部屋だったが、二百名の人で超満員ですぐに暑くなった。三時間のあいだ、友人や家族が興進の善良さ、優しさについて弔辞を述べた。「お父様」に泣かないと約束したにもかかわらず、私はあからさまにすすり泣いた。泣いたのは私ひとりではなかった。文師は「真の家庭」全員に興進にお別れのキスをするよう指示した。幼い子供たちは当然ながら脅えていた。私は一番小さい子供たちの何人かを抱き上げて興進の頰にキスさせ、自分も同じようにした。彼は恐ろしいほど冷たかった。
「お父様」が部屋の前に進み出ると、一瞬のうちに、すすり泣きの声がやんだ。彼は列席者たちに、興進はいまや霊界の指導者であると告げた。彼の死は犠牲の死である。サタンは、反共十字軍を率いる文師に、次男の生命を要求することで攻撃をしかけている。興進に先立つアベル(旧約聖書のアダムとイブの子。兄カインのねたみをかつて殺される)のように、興進はよき息子だった。孝進は「お父様」の比較に傷ついたように見えたが、彼自身、自分が聖書の力インのほうに似ていることを知っていた。
「お父様」は言った。興進はもうすでに霊界にいる者たちに『原理講論』を教えている。イエスご自身も興進に深い感銘を受けられたので、自分の地位からおりて、文鮮明の息子を天の王と宣言された。「お父様」は興進の立場は摂政であると説明した。彼はメシア、文鮮明の到着まで、天の王座にすわっているだろう。
十代の少年が瞬間的に神格化されたことに、私は啞然とした。私は興進が「真の子女」、「再臨の主」の息子だと知っていた。だから彼が天国に特別な地位を占めると信じるにやぶさかではなかった。けれどもイエスに取って代わるとは?「イーストガーデン」の邸宅の屋根裏部屋で、迷った子猫を探すのを手伝ってやったあの少年が天の王とは?私のょうな生え抜きの信者にとってさえ、それはあんまりというものだった。それでも、私は自分のまわりを見回した。集まった親類や客たちは、この啓示に重々しくうなずいていた。私は自分の懐疑心を恥ずかしく思ったが、それを否定する力はなかった。
興進のひつぎは運び出されて霊柩車に載せられ、韓国への長い旅のために了卩尺空港に運ばれた。文師夫妻は息子の遺骸に付き添ってはいかなかった。文師の長女と孝進が弟のために祖国に帰った。興進はソゥル郊外にある文家専用墓地に葬られた。
すぐに世界中から「イーストガーデン」にビテオテープが届くょうになった。さまざまな恍惚状態にある教会員たちが、自分は霊能者で、興進が彼らを通して霊界から語りかけてくると言っていた。これらのテープを見るのはあまりにも奇妙な体験だった。私たちは「お父様」と「お母様」と一緒にビデオのまわりに集まり、見知らぬ人が次から次へと、興進の霊が語るのだと言って話すのを見ていた。彼らのひとりとして深い宗教的洞察を見せた者はいなかった。だれひとり「ィーストガーデン」での興進の生活をよく知っていると確認できるような知識を示した者はいなかった。けれども全員が「真の御父母様」をほめたたえ、天でィエスが興進に頭をさげたという「お父様」の啓示をさらに確固たるものにしていた。
私はこれらのテープを信じなかっただけではなく、これほど多くの人が「真の家庭」の悲しみを利用して、これほどあからさまに「お父様」の寵愛を得ようと試みていることに腹を立てた。私は無邪気だった。これこそが文鮮明の愛情を勝ち取る可能性のもっとも高いやり方だった。明らかに「お父様」は世界中で自然に起きたこれらの「憑依」現象に興奮していた。息子がこれらの人びとを通して語っていると、本当に信じていたのか、それとも彼らのぺテンを自分の目的のために使ったのか、それは私にはわからない。
文興進の神格化における神学的問題のひとつは、文鮮明が天の王国は独身の個人ではなく、結婚した夫婦によってのみ到達可能だと教えていることだった。「お父様」はこの問題に迅速に対応した。興進の死後二力月もしないうちに、結婚式がおこなわれ、文鮮明は死んだ息子と、創設当時からの弟子のひとり朴普熙の娘、朴薫淑に祝福をあたえた。薰淑の兄弟、朴珍成も祝福をうけ同日、文仁進と結婚した。一九八四年二月二十日の合同結婚式は奇妙としか形容のしようがないものだった。
仁進は「お父様」が自分を珍成とマッチングしたことにかんかんになっていた。彼女にとって、珍成は我慢のならない青年だった。仁進には大勢のボーィフレンドがいた。祝福は彼女の眼中にはなかった。彼女は、朴家の人間に一番目立つ肉体的特徴から珍成を「魚の眼」と呼んだ。
実は、仁進は年下の青年にのぼせ上がっていた。その前年、ワシントンDCで統一教会の会議に出席したとき、仁進と私は会場のホテルで同室になった。ある晚遅く、私が眠っていると思った彼女は、バージニアのこの青年に電話をかけた。彼女はそっとささやき、私の知る彼女には似つかわしくない少女のょうな笑い声を立てた。私は彼女が青年とべたべたとふざけ合い、「祝福子女」はキスはしていけないと考えられているけれど、私たちは例外ょと言っているのを聞いた。
それは危険な恋だった。そのとき、ふたりのどちらも、自分たちの父親が同一人物だとは知らなかった。少年は文鮮明の非嫡出子だった。私は一年前に母からそう告げられていたが、その夜の話から、だれもまだ、彼らに事実を教えてはいないことは明らかだった。少年が文師と教会員の情事から生まれたことは「三十六家庭」のあいだでは公然の秘密だった。母は私に、それはロマンチックな関係ではなかったと説明した。それは神に定められた「摂理」の結合だが、俗世間には理解できない結合だ。あらゆる誤解を避けるために、少年は生まれたときに、文鮮明のもっとも信頼する顧問のひとりの家庭に預けられ、その息子として育てられた。本当の母親はバージニアの彼の近くに住み、子供のころは、家族の友人役を演じた。文師は父親であることを公に認めてはいないが、少年本人と文家の第二世代には、一九八〇年代末に真実が告げられた。
これまでも血縁関係のない教会員の家庭に乳児を預けることは、つねにおこなわれていた。教会で子供のできない夫婦には、何人も子供のいる会員からいとも簡単に赤ん坊が譲られた。われわれ全員は人類という家庭に属し、唯一の「真の父母」は文師夫妻なのだから、だれが実際に子供を育てようと、そこになんの違いがあるだろうか?統一教会は養子縁組のような法的な細かいことは省いて、お隣さんに余分の庭用ホースを貸すように、気楽に子供たちを分かち合った。
八四年二月、私たちは二組の結婚式のため、二年前の私苜身の結婚式のときのように、ベルべディアの邸宅に集まった。白い儀式服を着て、文師夫妻はまず娘仁進と祀珍成の結婚式を執り行なった。式の直後、朴薫淑が飾り立てた図書室に、白い正式のゥェディング・ドレスとべールを着て現れたとき、人びとはしんと静まり返った。若く美しい女性、彼女は二十一歳で、バレリーナとしての野心に燃えていた。文師は、ジュリア・厶ーンの舞台名で踊る薫淑の才能に光をあてるため、韓国にユニバーサル・バレエ団を創設する。
彼女は通路を通り、額に入った興進の写真を「お母様」と「お父様」のところまで運んでいった。私の夫、孝進が死んだ弟の代わりに、花嫁の横に立った。彼は興進が言うことのできない誓いを繰り返した。薰淑はとても美しい花嫁で、私は彼女が生きた花婿とは決して結婚できないことを気の毒に思った。けれども、眼を彼女から孝進に移したとき、私はなにか別のものが自分のなかにわき上がるのを感じた。それはねたみだった。私は考えた。自分が愛していない男、自分を愛してもいない男と惨めな生活をするよりは、死んだ男に愛されるほうがどれほどましなことか。
実際に、この式は統一教会外部の人間には奇妙に見えただろう。しかし、文師は、よく生者を死者と結婚させた。年長の独身会員はしばしば霊界にいった会員とマッチングされた。文鮮明はイエスを韓国人の老女とマッチングしたが、これは彼の傲慢な行為のなかでも最高のものだろう。統一教会は結婚した夫婦だけが天の王国に入れると教えているので、この門をくぐるためには、ィエス自身にも文師の介添えが必要だったのである。
「聖婚式」の数年後、ジュリア・厶ーンとはるか以前に死んだ興進とは親になった。もちろん彼女が実際に子供を産んだわけではない。興進の弟、顕進とその妻が、ジュリアに生まれたばかりの子信哲を自分の子として育てるよう、ただ譲ったのである。
しかしながら、民生当局はこういったいわゆる奇蹟の出来事に気づかなかった。興進の死後四力月目に合衆国最高裁は、文師の連邦税脱税の有罪判決再審を、見解表明なしで却下した。全米キリスト教会協議会、アメリカ市民自由連合、南部キリスト教徒指導者会議のような組織によって提出された十六通の法廷助言者の書翰は、この裁判を宗教実践の自由に対し、重大な意味をもつ宗教迫害の一例としていた。もし文鮮明が目標にされるのなら、次にくる不人気な伝道者はだれか、と考えるのは当然の成り行きである。
「判決例は、政府にいかなる宗教組織の内部財政をも検査させることになる」とユニテリアン普遍救済教会のジョージ・マーシャル師は警告した。
マーシャル師は、国中で開催された集会で、文支持のために声を犬にした四百名の宗教指導者のひとりだった。ネブラスカ州ルィビルのバプテスト派牧師エドヮード・シルべン師は、文の状況を自分自身の状況と比較した。シルべン師は、裁判所から出された原理主義的キリスト教の不認可校閉鎖命令に従わなかったために、八力月間投獄された。シルべン師は言った。「人びとは私に尋ねる。『文師のための集会に出るのは奇妙な気分ではありませんか?』けれども私は、あなたがたと一緒に強制収容所にいくよりは、ときたまあなたがたの自由のために闘うほうを選びます」
ニューョーク市民自由連合代表ジXレミア・S・ガットマンは、彼が「私的な宗教問題への弁護の余地なき干渉」と呼ぶものに抗議するため、宗教指導者や市民運動指導者による特別委員会を組織した。
ォリン・G・ハッチ上院議員を委員長とする合衆国上院司法委員会は文の裁判を蕃議し、次のような同意に達した。
われわれが新入国者を意図的な犯罪行為として非難していること、とくに教会の資金を自分名義で銀行口座に所有することは、われわれ自身の宗教指導者たちの大多数がふつうにおこなっていることである。カトリック司祭はこれをおこなっている。バプティスト派牧師もおこなっている。そして文鮮明もおこなっている。
われわれがそれをどう見ようと、英語を解さない外国人がこの国で提出した最初の申告書について、彼を犯罪的脱税で有罪としたのは事実である。われわれは彼に、われわれの法律を理解する公平な機会をあたえなかったように思える。われわれは矯正の最初の手段として、民事の刑罰を求めなかった。われわれは疑わしい点を被告有利に解釈してやらなかった。むしろわれわれは一万ドル以下の納税義務について新しい理論を採用し、それを有罪判決と十八力月の連邦刑務所収監とした。
私の小委員会がこの裁判を注意深く客観的に両側から見直したあとで、私は強く感じる。正義よりはむしろ不正義が行使された、と。文裁判は、もしひとりの視点が充分に不人気であれば、この国はそれを寛容する道ではなく、それを有罪とする道を見つけるだろうという強い信号を送っている。
アメリカ・ル夕ー派協議会のチャールズ・V・バーグストローム師はハッチ上院議員の委員会で証言したが、文師の税問題を判断するについてはもっと控えめだった。「私は彼が公平な裁判を受けたかどうか疑問を抱いている。法廷は、ひとりの判事がこの裁判を裁定するという文師の要求を拒否し、判事は陪審に対し、裁判の目的のために、彼を宗教人とは考えないように告げた。けれども私はまたこうも尋ねなければならない。なぜ彼はそんな大金を手にしなければならないのか、と」
教会内部のだれにとっても、答えは明らかだった。統一教会はキャッシュ・ビジネスである。私は日本人の教会幹部が、定期的に現金の詰まった紙袋をもって「イーストガーデン」に到着するのを見た。その金を文師は懐に入れるか、あるいは朝食の食卓で、教会所有のさまざまな企業の重役たちに配った。日本人はアメリカにキャッシュを持ち込むのになんの問題もなかった。彼らは税関の係官に、アメリカにきたのはアトランティック・シティで賭事をするためだと言った。
それに加えて、ニューョーク市のいくつかの日本料理店も含め、教会が経営するさまざまな事業はキャッシュ・ビジネスだった。私は教会の各本部から「イーストガーデン」に現金が運び込まれるのを見た。それは直接、文夫人のクローゼッ卜の壁掛け金庫にしまわれた。彼女はここからとくに決まった日ということもなく、五千ドルを厨房職員に渡したり、五百ドルを石蹴り遊びに勝った子供にやったりした。
教会内部では、文師が宗教人としての免税特権を、実業界における金銭獲得の手段として使うことはなんの問題にもならなかった。利益の追求は彼の宗教哲学の中心である。文師は心は資本主義者であり、信者を支援するためのビジネス・ネットヮークを建設せずしては、世界の宗教を統一はできないと教えている。この目的のために、彼は食品加工工場、漁船団、自動車の組立ラィン、新聞、工作機械からコンピユー夕ーソフトにいたるまで、あらゆるものを作る会社を創設するか、買収するかしてきた。
法廷で法律家がなんと言おうとも、内部ではだれも文師が教会と事業の資金をごっちゃにしていることに異議を唱えなかった。それはだれの問題でもなかった。教会顧問たちが、事業や政治活動への教会資金の流用を話し合っているのを、いったい何度耳にしたことだろう。彼の宗教、実業、政治目標は同じもの、統一教会のための世界支配だったからである。間違っているのは合衆国の税法であり、文鮮明ではない、メシアの使命は人間の法を超えるのだ。
文師の哲学は充分に寛大に聞こえた。「世界は急激にひとつの村になりつつある。すべての人間の生存と繁栄は共同の精神に依存する。人類は自分自身を、人間のひとつの家族と認識しなければならない」統一教会以外の市民的自由主義者の味方が気づかずにいたのは、文鮮明が、そして文鮮明だけがこの家族の長であるということだった。
教会資金を彼の反共政策資金に使うことは、統一教会の哲学の規定の一部だった。一九八〇年、文師は CAUSA(ァメリカ統一教会連合)を設立する。教会によれば、これは「非営利、非党派の教育的社会的組織で、自由社会の基礎として、神が肯定する倫理と道徳の全体像を提示する」反共戦線だった。これをふつうの言葉で言えば、CAUSA はエルサルバドルとニカラグアの共産主義運動に対抗するために、莫大な資金を提供するということだ。
文師は自分の反共信念のルーツに注意を喚起することをためらわなかった。「神が肯定する世界の人びとのあいだでの統一が必要なことは、文師がキリスト教信仰のために一九四〇年代末に北朝鮮の共産主義者により投獄され、拷問されたときに、彼の目に明らかになった。CAUSA はアメリカと世界の自由のための彼のコミットメン卜の当然の帰結である」
一九八〇年代には、ラテンアメリカが文師の反共熱の焦点だった。反共シンパを支援するためにその地方に派遣した伝道師たちは、教会服はまとっていなかった。彼らは「お父様」が、文鮮明あるいは統一教会とのつながりをあからさまにせず、目立たぬように設立した多くの「学術」団体の後援のもと、ビジネス・スーツを着てやってきた。「ラテンアメリカ統一連合」「科学の統一に関する国際会議」「世界平和教授アカデミー」「ワシントン政策研究所」「アメリカの指導性に関する会議」「国際安全保障協議会」などの肩書きで、文師の伝道の手先は表向き学術的な顔をしていた。これらの団体がスポンサーになった会議の講演者たちの多くはメディアや政界、学界の有名人だったが、たいていの場合、自分たちの経費、ホテル代、食事代が文鮮明によって支払われていることを知らなかった。
個人的には文師夫妻は税金の支払いにほとんど肉体的な嫌悪感を抱いていた。教会の弁護士は時間のほとんどを、どうやって課税を避けるかを考えて過ごした。これが「真の家庭信託基金」
がアメリカの銀行ではなく、リヒテンシュタィンの口座に設定されている理由である。
あとから振り返ってみて初めて、私は、自分自身の利益のために法を操ろうとして宗教迫害を主張した文鮮明の偽善を見る。当時、私は感じやすい十代、新米の母親、信心深い信者だった。その年、私はょり永続的なビザを確保するために、初めて韓国に帰った。文師夫妻が移民としての私の身分を合法化するときがきたと決めるまでの三年間、私はアメリカに不法に滞在していた。それは私ひとりではない。「ィーストガーデン」は、メィドや厨房の「兄弟姉妹」やべビーシッ夕ーや庭師など、観光ビザできて、ただ統一教会のサブカルチャーに溶け込んでしまった人びとでいっぱいだった。
そのころ、私は、私たちが法を破っていることを本当には理解していなかった。それは私の問題ではなかった。神の法は市民の法を凌駕し、「お父様」は地上における神の代理人だった。前年の文師の裁判の重要性さえ、私にはわかっていなかった。だが、刑務所?それは理解できた。「お父様」が実際に一年半閉じこめられることになって、私たちは全員悲嘆に暮れた。
一九八四年七月二十日午前十一時、文鮮明はコネチカット州ダンべリーの連邦刑務所に収監された。刑務所当局に身柄を預ける前日、「お父様」は「ィーストガーデン」の邱宅で、百二十力国からきた教会幹部と会った。彼は幹部たちを安心させた。自分はただ作戦本部を家から刑務所に移すだけだ。ダンベリーでの生活環境は「ィーストガーデン」とはだいぶ違っていただろう。彼は四十名から五十名の在監者とともに寄宿舎のょうな建物に住み、刑務所のカフェテリアで床をふき、テーブルを片づける仕寧をあたえられた。
彼には一日おきに面会が許された。私は従順に文夫人に同行し、彼らふたりの給仕をした。私は自動販売機から食べ物を取り出し、「お母様」の指示で、試練のあいだ「お父様」に追加の力をあたえるため、ィンスタント・スープに黒い朝鮮人参のエキスを入れた。さまざまな企業の重役や教会幹部が、指示を仰ぐためにしょっちゅう訪れた。統一教会の事業はとぎれることなく継続した。
私たちが「お父様」と面会するときはいつも、彼は子供たちに宿題をあたえ、詩とか作文を書かせた。私たちは次の面会時、それを彼に読んで聞かせる。私は彼が私にくれたひとつを覚えている。「淑女の生活」というものだ。
仁進は対外的に父親の擁護者役を果たした。ポストンで開かれた信教の自由のための集会で、彼女は三百五十名の支持者に、文鮮明の状況はソビエトの反体制物理学者ノーベル平和賞受賞者のアンドレィ・サハロフの状況に等しいと言った。「私にとって、いまは耐え、理解するのがとても難しい時です」と彼女は人びとに語った。「一九七一年、父は、神の声に従ってこの国にきました。この十二年間、父はアメリカのために涙と汗を流してきました。父は私に、神は世界を救うためにアメリカを必要としていると言いました。いま、父は六十四歳で、罪なくして有罪です。刑務所に父を訪ね、父が囚人服を着ているのを見たとき、私は泣きに泣きました。父は私に泣いたり、怒ったりしてはいけないと言いました。父は私や彼のあとに続く何百万もの人びとに、怒りと悲しみを強力な行動に変え、この国をふたたび真に自由な国にするよぅにと命じました」仁進はその夜、舞台上で元上院議員ユージン・マッカーシーと並び、マッカーシーは「お父様」の収監を自由への脅威だと告発した。文師の禁固は統一教会には大宣伝になった。一夜にして、彼は軽蔑されるカルト・リーダーから宗教迫害の象徴になった。善意の市民的自由主義者が文鮮明を自分たちの大義の殉教者とした。彼らもまた欺かれていた。
ノースカロライナ州ライリーのショゥ神学校は投獄中の「お父様」に名誉神学博士号を授与した。学校は文鮮明を「社会正義、人間の苦しみからの解放、信教の自由、世界の共産主義に対する闘いなど、さまざまな分野における人道的貢献」で表彰した。副校長のジョゼフ・ぺージは、文師の栄を讃えるについて、ショゥ神学校に対する統一教会からの三万ドルの寄付は理事会の決定に「絶対に」なんの影響もあたえていないと強調した。
入獄中に、文師は孝進を韓国に派遣し、創設当時からの会員の息子や娘である「祝福子女」のために、特別の修練会を指揮させた。「これまでは、それぞれが自分自身の方向に進み、彼らのなかにはなんの規律もなかった」とのちに文師は演説のなかで言っている。「しかし、いまや彼らはある秩序のなかでひとつにまとめられた。このことが私の入獄中に起こったのは重要である。なぜならばイエスが十字架にかけられたあと、弟子たちはすべてばらばらになり、逃亡したからだ。今度、私の入獄中には、世界中からきた祝福子女は逃げるかわりに、中心点においてひとつにまとまつた」
「お父様」が入獄中に、正統キリスト教徒たちのあいだで尊敬を勝ち取り、統一教会の第二世代への支配力を強めているあいだにも、その息子は死後の威信をますます高めていた。興進からのメッセージの報告は急増していた。もっとも、そのなかのいくつかは深遠と言うにはほど遠かった。ひとつは統一教会の公式便箋に書かれていた。「ベイエリアの兄弟姉妹、やあ!こちらは興進様とイエスのチー厶だ。僕らは君たちのあいだに足場を作り、ここカリフォルニアに本当のサンシャインをもたらす必要がある」これはある教会会員が恍惚に似た状態で書き取ったのだとぃう。
「われわれの兄弟は興進様からメッセージを受け取った。聖フランシスコ、聖パウロ、イエス、マリア、その他の精霊も彼のところにきた」と教会の神学者金栄輝はこのような霊媒のひとりについて書いた。「彼らはすべて興進様を新しいキリストと言っている。彼らはまた興進様のことを天の若王と呼んでいる。彼は霊界では天の王である。イエスは彼とともに働き、つねに彼に同行している。イエス自身も興進様が新しいキリストであると言っている。彼はいまや霊界の中心である。このことは彼がイエスよりも高い地位にいることを意味する」
話を地上にもどせば、文師は十三力月の入獄のあと、一九八五年八月二十日に釈放された。彼の釈放は、宗教界の新しい友人たちから歓声で迎えられた。道徳的多数派協会のジェリー・ファウエル師と南部キリスト教徒指導者会議のジョセフ・ロウリー師の両方がロナルド・レーガン大統領に電話をして、「お父様」に完全な恩赦をあたえるよう言った。ファウエル、ロウりー、その他有名な宗教指導者を含む二千名の聖職者が、ワシントンDCで彼の栄誉を讃えて、「神と自由の晩餐会」を開いた。 「イーストガーデン」では、「お父様」はまるで懲役からではなく世界講演旅行から帰ったかのように迎えられた。昔のリズムがもどった。朝食の食卓での会合が再開された。しかしなにかが違っていた。刑務所から釈放されたあと、ベルべディアにおける日曜朝の文師の説教には、はっきりとした変化が感じられた。彼はしだいに神のことを話さなくなり、ますます自分のことを語るようになった。ただ神の使者というだけでなく、一種の歴史的人物としての自分自身の姿にとりつかれたように見えた。かつては霊的直感を求めて彼の説教を熱心に聞いたのに、いま私はしだいに不安になり、関心が薄れていくのを感じた。
八五年の終わり、彼が自らと韓鶴子を秘密儀式で、世界皇帝と皇后に即位させたとき、文師の傲慢は絶頂に達した。ベルべディアにおける豪華な秘密儀式には何力月もの歳月と、何十万ドルもの金がかかった。
教会の婦人たちには、二十世紀初めまで約五百年続いた李氏朝鮮の帝王の衣服について調査が命じられた。部族の王がかぶった王冠をまねた純金と翡翠の王冠のデザインを命じられた者もいた。私の母は、何ヤードもの絹やサテンやブロケードを買い、これらの高価な素材を王宮の衣装に仕立てるため、韓国で裁縫師を見つける役を割り振られた。文鮮明の十二人の子供、嫁と婿、孫の全員が、王子や王女のような衣装を着せられた。
最後には文鮮明の戴冠式は歴史の再現というよりは、李氏朝鮮を舞台にした韓国テレビの大衆的なメロドラマのように見えた。私は神聖な宗教礼拝よりも時代物のドラマのために衣装を着たかのように、ばからしく感じた。文師は、このような巨大な自己中心主義的行為が世界からどのように見られるかを充分に承知していたので、実際の儀式での写真撮影を禁止した。来賓はすべて高い地位にある教会幹部で、カメラを持参した人は、闖入者を入口で追い返していた警備員に、それを取りあげられた。
金の冠と手の込んだ衣装とで、私には文鮮明がまるで現代のカール大帝のように見えた。違いはこの皇帝はどんな教皇にもお辞儀はしないことだ。文師よりも高い権威はないのだから、メシアは自分で自分を世界皇帝に戴冠しなければならなかった。
私と両親にとって、戴冠式は転換点となった。私たちはこのとき初めて、文鮮明に対する疑いをおたがいに声に出して言うようになった。それは簡単なことではなかった。統一教会で起きている強制と洗脳については多くが書かれてきた。
私が経験したのは条件反射だった。人は画一的な精神をもつ人びとのあいだに隔離させられ、批判的思考よりも従順を高く評価するメッセージを雨あられと浴びせられると、信仰体系は常に強められる。教会に長く関係していればいるほど、これらの信心に身を捧げるようになる。十年後、二十年後、自分の信念が砂の上に立てられていたことを、たとえ自分自身に対してであっても、だれが認めたがるだろうか?
確かに私は認めたくなかった。私は内部の人間だった。私は文師の甚だしい過失——息子の行動を許容していること、子供たちを殴ること、私に対する言葉による虐待——を許すほど充分に、文師から親切にされた。彼を許さないことは、私の全人生に疑問を抱くことだった。私ひとりの人生ではない。私の両親は三十年間、自分たち自身の疑いをわきに押しのけて過ごしてきた。私の父は文鮮明が事業を運営する恣意的なやり方を見逃してきた。資格のない友人や親戚を権威ある地位につけ、ご機嫌取りを出世させ、なんらかの独立心を見せた者を首にする。父は、文鮮明から人前でたびたび侮辱されるのを甘受することで、一和製薬のトップの地位を生き延びてきた。文師が父をその地位に残しておいたのは、一和が彼のために金を稼ぎ続けていたからである。
▲ この1988年に撮影された写真では、文鮮明と韓鶴子の間にクレオパス・クンディオナという青年が立っている。彼らはクレオパス・クンディオナを車の事故で1984年1月に死去した息子・文興進の生まれ変わりだと信じていた。
興進の神格化と戴冠式が私の信仰心を試すものであったとすれば、「ブラック興進」の登場はそれをほとんど破壊した。死んだ息子の憑依の多くはアフリカで報告されていた。一九八七年、郭錠煥師は興進の霊がジンバブエ人の身体にとりつき、彼を通して語っているという報告を調査にいった。「ィーストガーデン」に帰った郭師は、憑依は本物だと宣言した。私たちは全員朝食の食卓のまわりに集まり、彼の印象を聞いた。
ジンバブエ人は興進よりも年上だった。だから彼は文鮮明の息子の生まれ変わりのはずはなかった。それに加えて、統一教会は輪廻の理論を否定していた。そのかわりに、ジンバブエ人は郭師に自分の肉体に興進の魂が降りてきたと紹介した。郭師は彼に霊界に入るのはどんなふうかを尋ねた。「ブラック興進」は天の王国に入ったとたんに、自分は全知になったといった。「真の家庭」は地上で学ぶ必要はない、なぜならば彼らはすでに完璧だからだ。彼らが霊界に入ったとき、知崴は彼らのものとなる。
この原理的説明は私を怒らせたのと同様に、孝進を魅了した。彼はぺース大学とニューョーク州バリー夕ウンでのセミナーでいくつかの講義にいささか関心を示していた。しかし、私の夫は学ぶことよりも飲酒のほうに興味をもっていた。私は、われわれは神の恩寵を得るために地上で学ぶ必要はないという示唆にぞっとした。統一教会内では、われわれは神に選ばれた人間かもしれない。しかし、私は、地上におけるわれわれの努力が死後の私たちの地位を決定すると信じていた。私たちは天におけるわれわれの場所を勝ち取らねばならない。
文師はアフリカからの知らせに興奮した。統一教会はラテンアメリカとアフリカで集中的に勧誘活動をおこなっていた。「ブラック興進」が大義を害さないのは明らかだった。死んだ自分の子の霊にとりつかれていると主張する男と会いもしないうちから、文鮮明は「ブラック興進」に世界を旅して説教し、道に迷った統一教会員のコンフェッション(告白式)をすることを許した。
告白式がすぐに「ブラック興進」の使命の中心になった。彼はョーロッパ、韓国、日本にいき、アルコールやドラッグを使ったり、結婚前、あるいは婚外のセックスをおこなうことによって、教会の教えを破った者たちを殴った。「ブラック興進」は文鮮明から「ィーストガーデン」に呼ばれるまで、一年を旅の空で過ごし、罪の告白をした者に罪滅ぼしとして、体罰をあたえた。
われわれは全員「お父様」の朝食の食卓に集まり、「ブラック興進」に挨拶した。彼は中背のやせた黒人で、文鮮明よりも上手に英語を話した。私には、蛇が獲物に巻き付き、それから呑み込むようなやり方で、彼が「真の家庭」を魅了しようと躍起になっているように見えた。私は、この男がかつて私が知っていた少年の魂を所有しているという具体的な証拠をぜひ聞きたいと思ったが、それを聞くことはなかった。文師は、神学について『原理講論』を読んだ会員ならだれでも答えられるような標準的な質問をした。彼は驚くべき啓示も宗教的直観も見せなかった。おそらく「お父様」にもっとも強い印象を与えたのは、彼が文鮮明のスピーチから自由自在に引用する能力だったかもしれない。
文師夫妻は、われわれ子供だけで「ブラック興進」と会い、私たちの印象を報告するよう言った。それは愉快な出会いだった。顕進、国進、孝進は赤の他人に自分たちの子供時代について質問をした。彼はそのどれにも答えられなかった。彼は私たちに、自分は地上での生活を何も覚えていないと言った。「ブラック興進」の記憶のこの都合のいい欠落は、懐疑を呼ぶかわりに、彼が天の王国に入ったとき、地上の関心はうしろにおいてきたしるしと解釈された。家のだれもが彼を抱擁し、死んだ兄弟の名前で呼んだ。私は彼を避け、自分はこの世でもっとも愚かか、あるいはお人好しの人びとと暮らしているのだと思った。そのとき私が考えなかった第三の可能性もあった。文師は以前、アメリカの市民的自由団体を使ったのと同じように、「ブラック興進」を自分自身の目的のために使ったということだ。
文鮮明は「ブラック興進」の殴打について、「ィーストガーデン」まで聞こえてくる報告を楽しんでいたように見える。だれか嫌いな人間がとくにひどく殴られると、げらげらと笑った。「真の家庭」以外のだれも、殴打を免れることはできなかった。世界中の幹部たちはその影響力を駆使して、「ブラック興進」の告白式を免除してもらおうとした。私の父は、このような会合への出席義務を回避するために郭師に訴えたが、無駄だった。
「ブラック興進」は、統一教会では一時的な現象だった。すぐに彼が手に入れた愛人はあまりにも多く、彼があたえる殴打はあまりにも激しくなったので、会員たちは文句を言い始めた。アメリカ人会員と結婚した韓国女性で、文師のメィドのウォン・J・マクデヴィットはある朝、目のまわりを黒くし、紫のあざだらけで現れた。「ブラック興進」は彼女を椅子で殴った。彼は朴普熙——六十代——をあまりにもひどく殴ったので、朴は一週間ジョージタウン病院に入院しなければならなかった。朴は医者たちに自分は階段から落ちたのだと言った。のちに頭の血管を修復するため、外科手術が必要になった。
文鮮明はダメージの少ないうちに手を引くことを知っていた。メシアであるならば、流れを訂正するのは簡単である。暴力から手を切らねば会員を失うことが明らかになると、文鮮明はただ興進の魂はジンバブエ人の身体を離れ、天に昇ったと告げた。ジンバブエ人はうまい汁にありつける地位から簡単に離れるつもりはなかった。最後に目撃されたときには、彼は自分自身をメシア役にして、アフリカに分派のカルトを設立していた。
▲「ブラック興進」1988年2月27日 天地正教 Cleopas Kundiona クレオパス・クンディオナ
▲「ブラック興進」1988年2月27日 天地正教クレオパス・クンディオナと統一教会員の弓
第8章 日本への随行ッァー
一九八六年五月、孝進が韓国から私に電話をかけてきたとき、私はちょうどニューョーク大学で春の期末試験を終えたところだった。彼は何週間も前からソゥルにいっていた。彼は私と娘がいなくて寂しいと言った。私たちはできるだけ早くいかなければならない。
私は大学一年生だった。文師夫妻は、私の学問での成功がいつの日か彼らの有利に跳ね返ってくるだろうという理屈で、私を大学に通わせてくれた。私は何日間も夜遅くまで起きて、期末試験の勉強をしたり、学期末のレポートを書いたりした。私にかかる教育費を文師夫妻に対して正当化するためばかりでなく、一年生としての自分が挙げた成果にプラィドを感じるためにも、私はよい成績を修めたかった。
私の世界のなかで、教室は自分が完全に自分であると感じられる唯一の場所だった。私はいかに学ぶか、いかに勉強するか、いかに試験を受けるかは知っていた。批判的な思考法は知らなかった。けれども、よい成績を修めるのに、批判的に思考する必要はめったになかった。韓国の子供時代に学んだ記憶術は、アメリカの高等教育でも同様に役に立った。
ニューョーク大学は私の第一志望校ではなかった。私はコロンビア大学の女子部バーナード・カレッジにいきたかった。それが有名七女子大のひとつだと知っていたし、同級生が女性であることに安心感があった。私は結婚して、子供もいたが、それでも若い男性に対しては、うぶな年ごろの娘のように気詰まりに感じた。
バーナードは私を入れてくれなかった。私は愚かにも第一次募集に出願した。これは本当に優秀な学生にとってのみ実現可能な選択肢だった。私の成績はよかったが、私の論文は、当時の私の生活を特徴づける内的思考の欠如を表していた。不合格になったあと、私はいつかバーナード・カレッジが転校生として私の受け入れを再考してくれるように、ニューョーク大学でよい成績を修めようと決心した。
孝進が私をソゥルに呼びつけたとき、私は妊娠初期で、よちよち歩きの子供を連れての長い飛行機旅行にはあまり乗り気ではなかった。前の妊娠がだめになったあと、また流産する不安もあった。けれども孝進がよそにいるとき、私に一緒にいてくれと頼むのはもちろん、電話をかけてくることさえめったになかったので、私はこれを私たちの結婚にとっての希望的兆候と解釈したいと思った。
恐れていたとおり、フラィトは最初から最後までくたくたに疲れるものだった。娘は興奮しすぎていて眠らなかった。彼女は私が目をつぶるたびに、私を揺さぶった。私は、神がこの時を使って孝進の心を和らげたにちがいないと楽天的に考えることで、自分自身の目を覚ましておいた。
娘とふたりでソゥルの文邸に着いたとたんに、私は幻想から目覚めた。孝進は私たちにくるよう頼んできたが、いまや私たちなどどうでもよかった。年を経るにつれて、私は孝進が私を支配したがるのに慣れてきてはいたが、韓国にいるあいだ、彼が私の一挙手一投足をほとんど偏執狂的に監視したことには不安を覚えた。たとえば私がリトルエンジェルス芸術学院時代の旧友に会いたいと言えば、おまえはそんなことをしてはいけないと怒鳴る。彼は私に言った。「おまえに友だちはいない。おれがおまえの完璧な友だちだ。ほかにはだれも必要ない」
帰宅して、私が娘を連れて両親のところにいっているのを見つけたときには、激怒した。おれが家に帰るのを待っているのがおまえの義務だ。彼のせいで私はとても神経質になり、母を訪問するときはいつも、彼が私を探していないかと、文邸に一時間ごとに電話した。
私がソゥルに到着した直後、文師夫妻は度重なる韓国訪問からニューョークに帰っていたが、
文家の年長の子供たちの多くは韓国にいた。次女の仁進もそのひとりだった。彼女はいつも孝進ととても仲がょく、私たちが最初に会った瞬間から、私のことを無視した。私のソゥル到着後数日して、彼女は私を自室に呼びつけた。私に対してかんかんに腹を立てているのは明らかだったが、その理由はわからなかった。私たちは、玄関で礼儀正しく挨拶をかわしただけだった。
私は「真の子女様」の前にいるにふさわしく、慎み深く床にすわった。「兄さんはあんなに一生懸命働いてるのに、あんたときたらなにしてるの?なにもしてないじゃないの!」と彼女は怒鳴った。「あんたは怠け者で、甘やかされてる。韓国の伝統に従えば、あんたなんか台所で雑巾がけをして、皿を洗わなきゃいけないのょ。このぅちじゃ、あんたが最低の地位にいる。そのことをちやんとわきまえてもらわなけりやね」
私はびっくりしたが、仁進が私の答えなど期待していないのはわかっていた。答えることは差し出がましいことだった。孝進は、私が教会の行事に同行するのを許さないなどと、彼女に告げたところでなにになる?彼女に反論することで、私はなにを得る?私は彼女の怒りが私を押し流すままにしておいた。私は何度この格好でひざまずき、文一族のだれかから脅しつけられたことだろぅ?彼らが私の上に積み重ねる噓を聞いているのだけでも充分に難しいことだったが、答える力のないことが、私を幼い子供の地位にまで矮小化した。仁進は本当に考えていたのだろうか、彼女の兄が私に押しつけてくる人生が私の望みの人生なのだ、と?私は、ほかの人びとと会う楽しみをもってはいけない、と?孝進がソウルで自由時間をどう使っているか、彼女の目には入っていなかったのか?
バー通いはニューョークよりもいっそうひどかった。韓国ではいつも、孝進に喜んでお金を渡す人、彼の多くの悪癖のあれやこれやに加わる旧友がいた。母は私の叔父、柳淳に彼を見張るよう頼んだ。叔父は口がうまいトランペット奏者で、孝進以上にナィトクラブのことをよく知っていた。母は叔父に弱みがあった。祖母が父との結婚を阻止しようと母を部屋に閉じこめたとき、靴をもっていった弟だからだ。しかしながら、私の夫と私の叔父が一緒にいるとき、どちらがどちらを見張っているのかは明確ではなかった。酒を飲んだあと、ふたりはよくソウルのスチー厶バスにいった。孝進がそこの夕オルガールのなかに愛人を作ったことを、私はあとで知った。
ある晚、孝進がバーから家に帰ってきたとき、私は毎晩しているようにベッドの横にひざまずいて祈っていた。私は彼が部屋に入ってくるのを見たが、彼に挨拶するより先にお祈りを終えるべきだと考えた。それは間違いだった。彼は私の頭に平手打ちを喰わせた。妊娠中だったため、私はバランスを崩した。彼は私を殴り倒した。「よくも立ち上がって、夫に挨拶しなかったな」と彼は言った。ろれつの回らない話し方はとても酔っている証拠だった。私は無謀にも説明を試みた。「私はただお祈りを終えようとしただけよ」孝進は、私と私の両親に対して次々と文句を並べ立てた。おまえは醜く、デブで、ばかな女だ。おまえの親たちは傲慢で「お父様」に忠実じゃない。やつらはおまえに悪影響をあたえている。彼がバスルー厶に入ったとき、私はチャンスと見て、別の部屋に走っていった。彼は私のほんの数歩あとを追ってきた。
彼はドアをどんどんとたたき出した。私は脅え、彼の叫び声で娘が目を覚ますのではと心配した。怒った孝進がドアをたたき破ろうとしているあいだ、私はベッドで丸くなった。ありがたいことに、ドアには頑丈な真鍮の鍵があった。何分か経ったあと、彼はいってしまい、私は眠り込んだ。翌朝、私は廊下で悪態をついている彼の声で目を覚ました。今回、彼はギ夕ーをハンマーのように振り回していた。けれども重い木のドアはもちこたえた。彼が立ち去ったとき、私はまた別の部屋に走っていった。
廊下からひと部屋に滑り込んだとたんに、私は彼の姿を外のバルコニーに見た。彼はギ夕ーで窓を打ち破り、私がちょっと前まですわっていた椅子の上に硝子の雨を降らせた。私は階段を駆け下りた。彼の怒った呪いの言葉が耳のなかで響いていた。私は階下に住む教会幹部の部屋に避難した。孝進は私に出てこいと叫び続けていた。私は脅えていたが、愚かではなかった。もし外に出れば、意識がなくなるまで殴られるのはわかっていた。彼が家の人びとを集めて、私を探しているあいだ、私は隠れていた。ようやく彼があきらめ、バーへと出かけたとき、私はヒステリックに泣きながら、父に電話をした。父は私と娘のために、すぐ車を寄こした。
このとき私は、結婚生活で初めて、自分の生命に不安を覚えた。それまで苦しめられてきた虐待は、肉体的なものというよりは心理的なものだった。私は、彼の残酷さと脅迫に無感覚になることで、何年も過ごしてきた。私は「醜く」、「デブ」で「ばか」だった。彼がいなければ、私は「だれでもなく」、「なんでもなかった」。私は自分が「とても賢い」と思っている。だが、彼はメシアの息子だ。私には「代わりがいる」。私は、彼の言葉による虐待には反応しないように自分を訓練してきた。ある段階で、私は彼が引け目を感じていることを知った。孝進は、その青春を酒とドラッグと娼婦に浪費しているあいだに、私が教育を受けていることを不快に感じていた。私は彼が私を攻撃しているとき、こちらからはやり返さないことを覚えた。やり返してもさらに同じことを招くだけだっただろう。私は、このような憎しみと辛辣な言葉の雰囲気のなかで育っている長女とおなかの赤ちゃんのことを心配した。子供たちのために、私はロをつぐみ、彼を怒らせないようにした。それは卵の殼の上を歩いているようなものだった。なにを言っても、彼を爆発させかねなかった。
孝進の侮辱的な態度は、多くの点で、文家と統一教会における抑圧と支配の環境に対する自然な反応だった。私もまた文師夫妻に縛りつけられ、苦しんでいた。呼ばれればいつでも文夫人のお相手をするように期待されていることは、私がアービントンの屋敷外では、実質的な生活をもてないことを意味した。ニユーヨーク大学、そしてのちにバーナード・カレッジに通っていたとき、私は幽霊のような存在だった。
文鮮明が自分の子供たちや婿、嫁を大学にやったのは、私たちにより広い個人的体験をさせるためではなく、彼の身により大きな大衆的栄光をもたらすような学位を取得させるためだった。友人と接触することで、私の生活について質問されたり、屋敷外で過ごす時間がこれ以上必要になることを恐れて、私は友だちを作らなかった。文夫人はすでに、彼女が好きに使う正当な権利をもつ時間を私が勉学に費すのを横領行為と見なしていた。
私はニューョーク大学にほかの「祝福子女」と通った。私は妊娠のために、勉強をたびたび中断したので、ニューョーク大学の学生に許される休学期間を使い果たしてしまった。一九八八年、ニューョーク大学で好成績を残していたので、私はバーナードに転校した。「ィーストガーデン」の警備員が、教室まで私を車で送り迎えした。私の指導教授でさえ、私の正体は知らなかった。
ずっとあと、私が四番目の子信玉を妊娠したとき、私はやはりバーナード校にも休学届けを出した。指導教授だった年配の女性教授は、私が妊娠を告げたとき、とても心配した。「それが本当にあなたの望みなの?」と彼女は慎重に尋ねた。私は笑った。「ええ、大丈夫、私は結婚しています!」私が言わなかったのは、それが私の四人目の子供だったということだ!バーナード校に私のような学生がほかにいたとは思えない。
私が読む本、私が聞く講義は私に世界をより広い視野のもとで見せてくれた。けれども私にとって、それはただの知的なエクササィズだった。バーナード校のウルマン図書館、そしてコロンビアのバトラー図書館の書庫で、私は洞察力ではなく、情報を得た。私は生まれてからずっと質問をしないように、疑わないように訓練されてきた。宗教史についての大学のどんな授業も、メシア運動のルーッについてのどんな講義も、文鮮明に対する私の信仰を揺るがしえなかっただろう。
やみくもな信仰の実際的な効果は孤立である。私は、私と同じように信じる人びとに囲まれていた。私の生活のすべて——毎朝、「お母様」と「お父様」の前に平伏して挨拶をする義務から、明らかに欠点をもつ夫の神性を受け入れる義務にいたるまで——は、この孤立をいっそう深めた。もし私が腹を立てたり、悲しがったり、動揺したりしても、これらの感情を分かち合える人はだれもいなかった。文一家は気にもかけなかった。私の両親は遠くにいた。「ィーストガーデン」の職員、教会の一般信徒は、「真の家庭」の一員という私の高い地位のために、めったに私に話しかけなかった。
私はひとりだった。もし祈りがなかったら、正気を失っていただろう。神は私が地上ではもたなかった友、心の打ち明け相手となった。神は私の心の痛みを聞いてくれた。私の苦痛を聞いてくれた。神は私に、私が結婚した怪物とともに未来に立ち向かう強さをあたえてくれた。
ソゥルでの孝進の激しい怒りは私の両親を脅えさせた。彼らは私が「ィーストガーデン」で厳しい生活を送っていることは知っていたが、私の受難を間近に見たのは初めてだった。私が長女を連れて彼らの家に着いたとき、私はまだ脅え、涙を流していた。私たちは孝進が私を連れ戻しにくること、そして私の両親にはメシアの息子に逆らう力のないことを知っていた。私は逃げたことで殴られるのではないかと、とても恐れていた。父は私を車でソゥルの病院に連れていった。私たちがなにが起きたかを説明すると、医師たちは私の入院を許可してくれた。孝進は私を探して、両親の家に電話をかけ、私を帰らせるょう要求した。父は彼に告げた。お医者さんが言っています。妊娠中の赤ちゃんのために、どうしても病院に留まっていなければいけない、と。
孝進が私のベッドの横に姿を現すまでに、長い時間はかからなかった。彼のメッセージは明白だった。私は永遠に隠れていることはできない。私は娘を長いこと彼から引き離しておくことはできない。私はいつか帰らなくてはならない。彼は謝りもしなければ、私が恐怖のなかで文邸を逃げ出した理由を認めもしなかった。彼はただ、遅かれ早かれ、私はもどって彼と相対さなければならないということを知らせたいだけだった。
私は両親と娘と一緒にソウルに二力月間留まっていた。孝進は「イーストガーデン」に帰った。彼は自分の両親に、私の留守を私のわがままと説明した。あいつは頑固で、反抗的だ、あいつを殴らねばならなかったのは、口答えをしたからだ。彼らの見方では、このような妻への体罰は正当化できるものだった。私は朝五時の家族の敬礼式で「お父様」が、妻たちを慎ましくさせておくために、ときどき殴らなければならないと説教したことを覚えている。「夫から平手打ちを喰わされたり、殴られたりした妻は手を挙げなさい」彼は一度べルべディアの日曜説教で指示した。「おまえたちは、ときにはそのロのために殴られる。肉体の最初の犯罪者は唇だ——その二枚の薄い唇だ!」
統一原理は妻は夫に従属し、同様に子供たちも両親に従属すると教える。彼らは従わねばならない。「もし子供たちを、自分の機嫌のせいで殴ったら、それは罪だ」と文師は言った。「だが、彼らがおまえに従わないのなら、おまえは彼らを力ずくで引っ張っていくことができる。結局、それは彼らにとってよいことだ。もし彼らがおまえに従わないのなら、彼らを殴ることさえできる」自分の子供たちが反抗したとき、文鮮明が子供たちをぴしゃりと打ったように、メシアの息子も、彼が自分には受ける資格があると感じている尊敬を妻が払わなかったとき、彼女を自由に殴ってよいと感じていた。
すぐに一通の手紙が文夫人から、両親の家にいた私のところに届いた。彼女は、私がもどらなければならないという手紙を書いてきた。両親の家にいるのは、おまえによくない。おまえは彼らの子供ではない。孝進の妻だ。文夫人は、両親が私に屋根を貸しあたえたことで、両親に腹を立てていた。その怒りは彼女自身の長女と私の兄が自分の子供たちを文一家の影響から守るために、韓国の私の両親のところに送ったとき、より激しくなった。兄夫婦はすでに、文師夫妻と教会に疑いを抱いていた。
両親も私も、私が彼らといられる時間は一時的な猶予にすぎないと知っていた。私はもどらねばならなかった。それは私の使命だった。それは私の運命だった。統一教会の外にいる人びとにとって、自分の娘を虐待する夫と無関心な義理の家族のところに送ることが、父親と母親にどうしてできるのか、それを疑問に思うのは簡単である。けれども両親と私は、自分たちが神の計画を実行しつつあると信じていた。その流れを変えるのは私たちではなかった。文孝進のもとを去ると考えることさえ、私の人生、私の教会、私の神を拒否することだった。両親にとっては、成人したあとの自分たちの全人生におけるすべての決定に疑問を呈することだった。
帰れと言う宗教上の強制の先に、私には恐怖があった。ひとりの女が、自分を殴る男の前で無力に感じるためには、なにもカルトの罠にからめ取られている必要はない。殴られた妻で、善意の友人や親戚から「なぜ家を出ていかないの?」と尋ねられたことのない人などいるだろうか?それはとても簡単に聞こえる。しかし、殺してやるという夫の脅しを本気にし、収入はなく、幼い子供を抱えた母親にとって、それほど簡単なことだろうか?パートナーに殴られた女たちは、逃げた場合、殺される危険が非常に大きい。犯罪統計はこの現実を確認している。だが女はそれを本能的に知っている。たとえ私を「ィーストガーデン」へと帰らせる信仰上の圧力はなくても、私には恐怖からくる圧力があった。
その九月に両親の家を離れることは、私たちの全員にとって、意に添わないつらいことだった。私はいきたくなかった。彼らは私をいかせたくなかった。だが、私たちのだれも文鮮明と彼の教会の力を超えた先を見ることはできなかった。母や弟妹たちとの涙の別れがあった。父は私と目を合わせることさえできなかった。私は彼の悲嘆が私のものと同じほど大きいことを知っていた。
孝進は長女と私を空港に迎えにはこなかった。私たちがコテージハウスで彼と会ったとき、まるで私たちのあいだにはなにごともなかったかのようだった。「ィーストガーデン」では、文夫人が私を部屋に呼びつけた。彼女はよく帰ってきたと言い、私に保証した。孝進は、私をこれほど長いあいだ遠ざける原因となったソウルでの出来事を、二度と繰り返さないと約束している。彼女は遠回しに、彼の暴力と、彼のアルコールやドラッグ濫用について語り、息子を変えるための道具として働くのがおまえの義務だと、念を押した。そのためにこそ私は選ばれたのだ。一方では、私の全体験が私に、彼女の息子は病的な噓つきだと語っていた。他方では、私は相変わらず自分にあたえられた神の使命を信じ、もし私が充分に働き、強く祈りさえすれば、神は最終的には彼に本当の変化をもたらすだろうと信じていた。殴られた妻ならだれでも、自分は変わるという夫の約束を信じたいと思うように、私は「お母様」の保証を信じたかった。
私の両親に対しては、文夫人の怒りはもっとあからさまだった。彼らが私をソウルに留めておいたのは間違いだ。彼女は「お父様」に対する彼らの忠誠心に疑問を呈した。「真の御父母様」はソゥルから洪家のことで報告を受けていたが、その内容は彼らの気に入らなかった。文夫人がなんのことを話しているのか、私にはぼんやりとした知識しかなかった。しばらく前から、母は自分たちと文夫妻のあいだではすべてがうまくいっているわけではないことをほのめかしていた。「真のお母様」と「真のお父様」の最近の韓国訪問のとき、文師は私の父を選んで、人前で批判した。彼は、私の父が一和製薬を洪の親族でいっぱいにして、会社に迷惑をかけていると非難した。一和の成功は文鮮明のものなのに、父はそれを自分の手柄にしていると責めた。
母は私にこういったことを話したが、心配はしていなかった。「お父様」には、実際には自分の気に入っている者を叱りつけるというひねくれた傾向があることは知られていた。統一教会においてのみ、公然と批判されることはひとつの讃辞と考えることができた。けれどものちに私が知ったように、文師は私の父に人前で恥をかかせることにサディスティックな喜びを覚え始めていた。私の父が設計、資金調達、建設の監督をした新しい瓶詰工場の竣工式で、文師は父のことを、メシアの気分しだいで解雇できる役立たずの重役だと言って笑い者にした。ソゥルの朝食の食卓で、妻に鼻先を引きずりまわされている男と言って、一ダースほどの教会幹部の前でばかにした。
なにが原因で両親に対する文夫妻の態度が変化したのか知るのは難しかった。文鮮明は知性と能力に惹かれると同時にそれを忌避した。だれもメシア以上に賢く見えてはならなかった。私の父は、文師のために、景気のいい会社を無から作り上げた。それはいいことだった。彼は自分の主人によく仕えた。父はそれを自分自身の能力とハードヮークによって達成した。しかしそれは文師にとっておもしろくないことだった。父は一和の成功を自分の手柄にするかもしれない。
私の母も同様に不安定な立場にいた。統一教会に加わったときは内気な娘だった母も、文鮮明のために何年間も説教をしてきたあとでは、そのもっとも雄弁な代弁者のひとりとなった。博学で、宗教に関しては尊重される代弁者となった。文鮮明との結婚前に高校を終えていなかった文夫人は、私の母のょうな教育のある美人と一緒にいるのが不愉快だった。彼女は公には「韓鶴子博士」と紹介されることにこだわったが、それは名誉称号にすぎなかった。
文夫人の不安感は、「ィーストガーデン」で彼女が自分のまわりにどんな女性たちをおいているかに示されていた。私がしばしば夫人の宮廷道化師と考えた韓国人女性たちである。彼女たちがそこにいたのは、女主人に意味のある会話をさせるためではなく、彼女を冗談とお笑いで楽しませるためだった。私の母は種類が違った。賢くてまじめで、おふざけが我慢できなかった。母は「真のお母様」に身を捧げていたが、文夫人がもっとも喜ぶ役を演じたのではなかった。
文夫人の周囲の女性たちは、私の母に対する彼女の不快感を捕らえて、「真のお母様」の目に母がさらに悪く映るょうにし向けた。女性たちの多くは、洪家の人間が「真の家庭」と結婚したことで、嫉妬にさいなまれていた。彼女たちから見れば、兄と私は、彼女たちの息子や娘が権利をもつ場所を奪ったのだ。これは復謦の好機だった。母の全行動は噂の臼にかけられゆがめられた。困っている教会員へお金を贈れば、愛情を買おうとしたのだと誤解された。父を擁護すれば、文師夫妻を攻撃したと解釈された。
中世の王宮では、王や王妃の耳に最後にささやく者がもっとも大きな影響力をもつ。文の屋敷でも違いはなかった。おべっか使いたちが支配していた。すぐに、私の両親が韓国で分派の教会を設立しようと計画している、私の父は自分が本当のメシアだと宣言しようとしているという噂が立った。それはすべてナンセンスだったが、文夫妻はいつも最悪のことを喜んで信じるのだった。統一教会内での父の役割は、文夫人の口出しで、確実に凋落していった。韓国における父の力を弱めるために、文夫人は結局文師に、父を欧州統一教会会長に任命させた。ョーロッバは世界で統一運動がもっとも影塑日力をもたない大陸である。
両親に対する文師夫妻の不信は、私の生活にも降りかかってきた。両親との接触は最小限にするよう命じられた。「ィーストガーデン」の交換機を通して韓国にかける電話は、文師夫妻の命令が守られているかどうかを確かめるために、監視されていた。自分の家族から切り離されることは、私には耐え難い孤立だった。私は、母と父との絆を保つために、自室に個人用の電話を設置した。
私が「ィーストガーデン」にもどった二力月後、次女信英が生まれた。男の跡継ぎを産まなかったことで、いつものようにがっかりはされたが、またほっと一安心でもあった。孝進のドラッグとアルコールの濫用は、このかわいい女の赤ちゃんに悪影響をあたえてはいなかった。
その数力月後、韓国に長期滞在をする準備を進めていた文夫人は、私を部屋に呼びつけ、四歳になる私の娘を、自分の五歳の娘、情進の相手に連れていくつもりだと告げた。私には反対の言葉や、自分が抱いた疑問のすべてを声にする勇気はなかった。彼女はどのくらいの期間になるかを言わなかった。私がこの申し出をどうにか納得する時間があるかないかのうちに、彼女はグッチのハンドバッグをもって、クローゼッ卜の金庫からもどってきた。それには現金で十万ドルが入っていた。彼女は私に告げた。これはおまえたち家族の未来のための「元金」だ。おまえはそれを賢く、たぶん金に投資しなければいけない。彼女は私たちに、あとでもう三十万ドルあげますと言った。彼女は私を買収しようとしているのだろうか?現金と交換で、私の娘を連れていく?
私は孝進に母親との仲立ちを頼んだ。私には娘がいきたがらないことはわかっていた。情進は甘やかされた子で、そのべビーシッ夕ーは下品だった。私と娘はとても仲がよかった。娘は私をひどく恋しがるだろう。このような旅をするにはあまりにも幼すぎる。孝進は母親と話すのを拒否した。娘が韓国にいれば、彼には自分もそこにいき、ガールフレンドを訪ねるためのよい口実ができる。それに、母親からの金のことも考えるべきだ。私はそれを夕リー夕ゥンの銀行の貸金庫にしまっておくよう忠告された。預金口座に入れれば、私たちは「問題外のこと」をしなければならない。それにかかる税金を支払うのだ。もちろん金庫にしまったのは間違いだった。孝進はいつでも現金を手に入れられることになった。彼は子供たちの将来のためのお金を使って、「お父様」に三万ドルの金メッキの拳銃、自分と弟たちにオートバィを買った。
私の幼い娘は三力月間も韓国にいっていた。文夫人が「ィーストガーデン」に送ってきた写真では、彼女は決して笑っていない。出発したときは、鉛筆をもって自分の名前が書けた。韓国では、ベビーシッ夕ーが彼女の手をたたいて、そうしてはいけないと言った。彼女の叔母(である情進)には自分の名前が書けない。そして文の子供たちのほうが優れていなければならなかった。このとき受けたダメージを矯正するのには何年もかかった。べビーシッ夕ーは長女に幽霊の話をし、そのため彼女は悪夢を見た。私の母を訪ねたいと言ったとき、文夫人は彼女をおもちゃ屋やアィスクリー厶・パーラーに連れていって、気を逸らせた。
私は心に誓った。文師夫妻に言われても、二度と子供たちを手元から放しはしない。ふたりが子供たちを講演旅行に連れていくのは、子供たちと一緒にいるのが好きだからではない。世界の目に彼らを愛情深い祖父母と見せる、生きたお飾り、かわいい服を着たデコレーションが必要だったからだ。将来、文鮮明と韓鶴子が私の子供たちを利用するのを阻止するためなら、お世辞でも工作でも偽りでも、必要なことはなんでもするつもりたった。
私の子供たちは、私の人生でただひとつの本当の祝福だった。妊娠していないとき、私は自分が妊娠と妊娠のあいだにいると考えた。自分の状態によって、授業に参加するか、授業から抜けるかのどちらかだった。一九八七年、私は自分が二度目の流産に直面していると確信した。妊娠四力月目で激しく出血していた。医師は横になって休むよぅいったが、それでも出血は止まらなかった。私はとても脅えていた。孝進が、両親と一緒に釣りにいっていたアラスカから電話してきたとき、彼は私の声にそれを聞き取ったにちがいない。
私は彼が電話で心配してくれたことに感激したが、その心配は「ィーストガーデン」にもどるころには消えていた。彼がコテージハゥスに到着したとき、私はベッドで聖書を読んでいた。彼は私の手から聖書をたたき落とした。私は手で身を守った。「おまえ、聖書のほぅが真の御父母様より大切だと思ってんのか」と彼は怒鳴った。「なんで外に出て、挨拶しなかったんだ」私は出血と医師の指示のことを説明しようとしたが、彼は聞く耳をもたなかった。もし出血しているのなら、おそらく赤ん坊は障害児だろう、と彼は叫んだ。「真の家庭」に障害児をもたらすよりは、流産したほうがいい。私は彼の冷酷さに衝撃を受けた。「立て、この怠け者の売女」と彼は怒鳴った。
私は彼の要求どおりにしようとしたが、あまりにも弱っていた。私はベッドに留まり、彼はすごい勢いで家から飛び出していった。私は韓国の母に電話をした。母は私と赤ちゃんのために、自分の「祈り屋」グループにお祈りをさせると約束した。数日後、出血は相変わらず止まらず、私は赤ちゃんが死んだものと結論した。搔爬手術のあとー晚入院が必要だろうと考えて、私は緊急治療室にいくために荷物をまとめた。病院で医者は超音波検査をした。私は不幸な結末をすっかり受け入れていたために、女医さんが赤ちゃんの心臓は丈夫だと言ったとき、思わず聞き返したほどだった。胎盤から出血していたが、それは収まりつつある。
これは医学的な説明だった。だが私にはもっとよくわかっていた。私が失ったほどの量の出血を生き延びられる赤ちゃんはいないだろう。これは奇蹟だった。医師が超音波検査が見せるもうひとつの事実を指摘したとき、私はこの赤ちゃんが神からの贈り物であると知った。私は息子を妊娠していた。私はだれにも、母にさえも言わなかった。あとで仁進と文夫人から、超音波検査で性別がわかったかと尋ねられたとき、私は「いいえ」と言った。これは私と神のあいだの秘密だった。私は自分が秘密を守れば、サタンは二度と私の赤ちゃんを傷つけようとはしないだろうと感じていた。
一九八八年二月十三日、私が信吉を産んだとき、文家は有頂天になった。文師夫妻は私の両親に対して、一時的に態度を軟化させさえした。孝進はこれ以上幸せになれようがなかった。男の跡継ぎは、父親の正当な後継者としての彼の立場を強める。文師は、息子の誕生が、孝進に家族と統一教会に対する責任を受け入れさせることを期待した。
それは空しい期待だった。四月、孝進はニューヨーク市オールド・ニューヨーカー・ホテル大宴会場における教会の集会で、「劇的なコンフェッション(告白式)」なるものをおこなった。それは教会の祝日、「真の父母の日」だった。
「多くの祝福会員は、私の不品行についてお父様を非難する。それは彼の過ちではない。それは私の過ちだ」と孝進は話し始めた。「私にとってアメリカにくることは簡単なことではなかった。それは私の憎しみと誤解の産卵場所だった。人びとは説明しようとしたが、私は一度も耳を傾けなかった。私は心のなかに多くの怒りをもっていた。私はほとんどすべての人を憎んだ」
彼は、自分の青春時代の性関係、十代のころの酒を飲んでのどんちゃん騒ぎ、コカィン使用について細かく話し続けた。だが彼は聴衆が、こういった逸脱はすべて過去のことだと信じるようにし向けた。「私は、こういったことが、私の弟や姉妹、祝福子女、あなたがたの子供たちに絶対に起こらないようにしたい」と彼は言った。彼がもちろん言わなかったのは、彼の飲酒、ドラッグの濫用、性的な乱行は衰えずに続いていたということだ。「私はこれから先、すべて正しいことをおこないたい。過ちは過去のことで、何度も私に繰り返しとりついてくる。私はあなたがたにすべてを語った。私がだれとでも寝たこと、多くの女性と関係したこと、私にはこれ以上語ることはない。どうか私を許してほしい」
会員を前にした、なかなかの演技だった。孝進は泣き、彼の弟や妹たちは彼を抱擁した。私はこの余興ではただの見物人だった。告白式のなかで、彼は私の名前を出しさえしなかった。彼は神に、「真の御父母様」に、教会員に謝罪した。しかし、妻に対して言うべきことはなにもなかった。
このスピーチのあとで、彼の放蕩生活が再開されても、私は驚かなかった。彼は私にどうしてもカラオケ・パーやナイトクラブに同行するよう言い始めた。私はただ喧嘩を避けるためだけにときどき一緒に出かけたが、その雰囲気が大嫌いだった。孝進は一日中眠っていられる。けれども私は朝早く子供たちと起きねばならなかった。出席すべき授業もあった。彼の酩酊は私を不快にした。彼はテキーラのボトルを半分あけ、それからウェイトレスのために百五十ドルのチップをおく。私はコーラをちびちびなめながら、時計を見ていたものだ。
私はいい連れではなかったが、家に車を運転して帰ることができた。孝進は、自分で運転しようとして、避けがたくトラブルを起こしていた。一九八九年、文夫妻は、私の通学用にアウデイを一台買ってくれた。ある晚、孝進はこの車で市内にいった。夜中近く、私は彼から事故を起こしたので、アムステルダム・アベニューと一四六番街の角で拾ってくれと電話を受けた。彼がなぜハーレムにいたのか察しはついた。彼はそこでコカインを手に入れていた。私が着いたとき、彼はその角にはいなかったので、付近を車で回らなければならなかった。ようやく数ブロック先で、彼がふらふらと歩いているのを見つけた。彼は酔っばらい、取り乱していた。アウデイを見つけたとき、私は彼が無傷ですんだのにびっくりした。車は大破していた。
私は、保険でフォード・アエロス夕ーを借りた。孝進がこの車を持ち出すまで長くはかからなかった。ある朝四時に、私はニューョーク市警からの電話で起こされた。孝進は飲酒運転で逮捕されたのだ。その朝、私たちは、文師夫妻の子供のひとりの誕生祝いに出席することになっていた。私は自分の子供たちをべビーシッ夕ーと先にいかせ、それから一二五番街の警察署まで車を運転していった。続く二時間で、私は自分の車の返還を請求し、罪状認否手続きで孝進の代理をさせるための弁護士を手配した。私は「ィーストガーデン」にもどって、「お母様」に対面した。彼女は、朝食の宴に出席しなかったことで私を叱った。「あんた、どこにいたの?孝進はどこにいるの?」と彼女は尋ねた。これは彼の問題であり、私の問題ではなかった。私は彼のために取り繕うのにうんざりしていた。「孝進はここにはいません。彼が帰宅したとき、直接お聞きになるべきだと思います」と私は言った。
孝進は私が彼を留置所からもっと早く出そうとしなかったので、かんかんになって「ィーストガーデン」にもどってきた。「お母様」が待っていると告げられると、彼は激高した。怒る必要はなかった。文夫妻はわがままな息子に対してなんの行動もとらなかった。犯罪司法体系は彼に罰金を科し、その運転免許を停止し、公共奉仕をするょう命じた。しかし、彼の両親は、彼の飲酒と運転をやめさせるために、なにもしなかった。
その次、彼がバーに同行するょう言ったとき、私は拒否した。「私はいけません。約束しました」「だれに約束したんだ?」と彼は聞いた。「私自身にです」と私は言った。彼は、私なしで、そして運転免許なしで、自分で運転していった。
ゆっくりと、私は「いやだ」と言うことを学んでいった。母親になったことが、私の態度の変化の最大の原因だと思う。「真の家庭」が私自身を虐待するのに耐えることと、私の子供たちをその虐待の対象とすることとは別問題だ。私は一九八九年十月、三女信玉を産んだ。私は二十三歳で、四人の子供をもち、流産を一度経験していた。この先にあと何人の赤ちゃんが生まれるのか、私にはわからなかった。
バーについてこいという孝進の命令は拒否できたが、文夫人に拒否はできなかった。一九九二年、彼女は私に、日本の十都市を回るッアーに同行するよう言った。私はまた妊娠していたが、自分の状態を義母には隠していた。妊娠だけが、私のもっているもののなかで、本当に私ひとりのものだった。私は選択の余地がなくなるまで、それを文鮮明の家族とは分かち合わなかった。
日本で「真のお母様」に捧げられている崇拝に満ちた献身は、私が韓国で経験したなにものをも超えていた。私は、文夫人が最高のホテルのスィートルー厶と最高の食事で迎えられることは予測していた。しかし、私が日本で見たものは歓待を超えていた。彼女の食器でさえ、二度とほかの人が使用しないように別にされた。なぜならばそれは「真のお母様」の唇に触れたからだった。日本人が文夫人に奴隸のように仕えることは、彼らが「真のお父様」を待ち望む気持ちを反映しているのだろう。文鮮明は、アメリカにおいて脱税で有罪になったため、日本への入国を禁じられている。
日本は帝国的カルト発祥の地と言ってよい。十九世紀、日本の天皇は神性を宣言され、日本の民衆は古代の神々の子孫であると宣言された。第二次世界大戦後の一九四五年、連合国により廃止された国家神道は、日本人にその指導者たちを崇拝することを要求した。権威に対する従順と自己犠牲は、最高の美徳と考えられた。
したがって、文鮮明のようなメシア的指導者にとって、日本が肥沃な資金調達地であることにはなんの不思議もない。年配の人びとには、自分たちの愛する者たちが霊界で平安な休息に達することを切実に望む気持ちがあるが、熱心な統一教会員たちはそれに目をつけた。彼らは何千人もの人びとに、これを買えば亡き家族は必ず天の王国に入れますよと言って、宗教的な壺や数珠、絵画を売りつけ、何百万ドルも巻き上げた。小さな翡翠の仏塔がなんと五万ドルで売れた。裕福な未亡人たちは、愛する人びとが地獄でサタンと苦しむことのないようにとだまされて、統一教会にその全財産を寄付させられた。
それは驚くべき光景だった。教会の会員たちが文夫人の世話をした。教会幹部たちは彼女にお金の袋をもってきた。あるとき、ひとりの会員が私の髪を整えているとき、私は時計をどこかにおいてきたのに気づいた。一時間もしないうちに、日本人たちからの贈り物として、高級時計を載せたトレィを手に、宝石屋がホテルの部屋にやってきた。「たくさんお取りください。ご家族の分もどうぞ」と宝石屋はしつこく勧めた。自分の時計を見つけ、彼らの気前のよさをていねいに断ることができたとき、私はほっとした。
日本経済は花開いていた。この国は急速に、文鮮明の金の大部分の出所となりつつあった。一九八〇年代半ば、教会幹部は、統一教会が日本一国だけで年に四億ドルの資金を調達した、と言っていた。文師はこの金を、彼の個人的快適さとアメリカや世界のあちこちで展開する事業への投資に使った。それに加えて、教会は、貿易会社、コンピュー夕ー会社、宝石会社を含む利益のあがる企業を、日本に多数所有していた。
文師は日本との重要な金銭関係を神学用語で説明した。韓国は「アダム国」、日本は「エバ国」である。妻として、母として、日本は「お父様」の国である文鮮明の韓国を支えなければならない。この見方にはちょっとした復謦以上のものがある。文鮮明や統一教会におけるその信者も含めて、日本の三十五年間にわたる過酷な植民地統治を許している韓国人はほとんどいない。
文鮮明の家族は韓国を出るとき、あるいは合衆国入国の際はいつも、税関で隅から隅まで調べられる。今回の旅も例外ではなかった。文夫人が取り巻きを引き連れている利点のひとつは、大勢の連れと一緒に入国することである。私には手の切れるような新札二束で二万ドルが渡された。私はそれを化粧ケースのトレィの下に隠した。シアトルで税関の係官が私の荷物を調べ始めたとき、私は息を止めた。私はグループの最後に税関を通った。私のバッグを探っている女性は、なにかを見つけだそうと心に決めているように見えた。私は、英語が話せないので彼女の質問がわからないというふりをした。アジア系の上司がきて、彼女を叱った。「この人は韓国語しかしゃベれないのがわからないのか」と上司は私に微笑みかけながら言った。「通してやりなさい」
私は密輸が不法であることを知っていた。けれども当時の私は、文鮮明の信者は「より高い法」に応えるのだと信じていた。質問せずに仕えるのが私の義務だった。私は逮捕されることよりもお金を失うことを心配して、言われたとおりにした。彼らがお金を見つけなかったことを、私は神に感謝した。私は世界を歪んだレンズを通して見ていた。そのなかでは、神は実際に私が税関の係官をだますのを助けたのだ。神は彼らがその金を見つけることを望まなかった。なぜならば、その金は神のためのものだから。
もし私がそのことをちょっとでも批判精神をもって考えたなら、私は街頭の物売りや仏塔の売り手たちが集めた金は、神とはほとんど関係のないことに気づいただろう。金の使い道のひとつは、ロックス夕ーになりたいという夫の青春の幻想に資金を提供するのに使われた。彼は教会員のグループと、マンハッタンのオールド・ニューョー力ー・ホテルに隣接する教会所有のマンハッタン・セン夕ー・スタジオでレコーディングを始めた。文師はこの施設を、神を中心にした文化を広めるために買った。メトロポリタン・オペラ、ニユーヨーク・フィルハーモニック、ルチアーノ・パバロッティがそこでレコーディングをしている。一九八七年、文孝進もそこでレコーディングを始めた。「リバース」(再生)というのが、彼が「祝福子女」第二世代の四人のメンバーと吹き込んだ最初のアルバムの夕イトルである。
孝進は自分のCDとテープを、自分の唯ーの聴衆である統ー教会に売った。そのなかには彼が名目上の会長をしているCARP(大学連合原理研究会)もある。世界平和に捧げられた学生組織を自称する CARP は、統一教会のもうひとつの勧誘機関、資金調達の道具にすぎない。そのもっとも目立つ企画は、CARP が世界のいろいろな都市で毎年後援しているイン夕ーナショナル・ミス夕ー・アンド・ミス・ユニバーシティ大会である。
神の御業のために集められた金の多くは、文鮮明の「白い象」(無用の長物)に浪費された。「ィーストガーデン」に建造させた二千四百万ドルの個人邸宅と教会の会議場のことである。おそらくゥェストチェスター郡随一の醜い建物を建てるには六年間と、この年数とほとんど同じ数の建築家を要した。私たちは、建物が一ダースかそれ以上の設計変更を受け、経費が何百万ドルもオーバIするのを目にした。出現したのは石とコンクリートの怪物で、屋根からは雨漏りがした。
玄関の間とバスルー厶はィタリア直輸入の大理石が自慢だった。厚い樫の扉には朝鮮の花が刻まれていた。一階には宴会場、大勢いる文夫妻の幼い子供たちの寝室は二階、両親の贅沢な私室の先にあった。ふたつある食堂の片方には専用の池と滝。厨房にはピッツァ用のオーブンが六台。三階は遊戯室と文夫人の衣類用にふつうの寝室ほどの大きさのクローゼット。歯科医の診察室。それに文鮮明の秘書ピー夕ー・キムのオフィスが入った小塔があった。この建物は厚化粧したばかげた記念碑だった。ボゥリングのレーンが地下室ではなく、文鮮明の寝室の真上にあった。私たちはその部屋を倉庫に使った。孝進と私、子供たちは、「真の御父母様」が新居に移ったあと、彼らが使っていた邸宅に引っ越した。
一九九二年の終わりに、文夫人は私にもう一度海外、今度はョーロッパに同行するょう言った。私はいまや妊娠後期の疲労と闘っており、旅行をして「真のお母様」の世話をするのには耐えられないことがわかっていた。私が同行を断ったとき、彼女と孝進は激怒した。次に起こった出来事を、彼らが私の反抗に対する神罰と見たのはわかっている。
私は、一九九三年一月に、超音波検査を受けることになっていた。その力強い蹴りから、私には赤ちゃんが丈夫だとわかっていた。超音波のモニターのなかで激しく動く脚と手に、私は微笑んだ。「いいようですね」と医者は、私の膨らんだおなかにプローベを動かしながらいった。しかしながら、医者の微笑はすぐに消えた。「問題があります」と彼は優しくいった。その顔はあまりにも困惑していたので、私は尋ねなければならない問いの答えを知りたくはなかった。「どこが悪いのですか?」彼がロを開くまでの数秒が何時間にも思えた。「この胎児には脳がありません」「なんですって?脳がないのなら、どうして蹴飛ばすのですか?」それはただの反射だった。赤ちゃんには子宮の外で生きるチャンスはまったくなかった。
私はあまりにも激しく泣いたので、医者は私を裏口から出した。待合室にいるほかの妊婦たちを脅えさせるような顔をしていたにちがいない。家に帰るのに充分落ち着けるまで長いあいだ、私は車のなかにすわっていた。家に帰ったとき、孝進は主寝室に閉じこもっていた。私にはそれがなにを意味するのかわかっていた。彼はコカィンを吸っている。私は母に電話をかけた。はっきりしたことは言えなかった。言えたのはただ「赤ちゃんになにかとても悪いことがあるの」だけ。その赤ちゃんが蹴飛ばすのを、私はそのときもまだ子宮のなかに感じていた。
医師と私は、生きていけないとわかっている赤ちゃんを産むのは、私の子供たちに衝撃をあたえるだろうという意見で一致した。私は間違いがないことを確認するためだけに、もうひとりの医師から超音波検査を受けた。中絶手術がおこなわれる病院まで自分で車を運転していった。孝進はきたがらなかった。痛みと恐ろしい喪失感とは、私の予想を超えていた。私は彼に電話をして、迎えにきてもらわねばならなかった。黙って家まで帰るあいだ、彼は私の涙にいらだっているように見えた。私は長女の部屋に移った。私は孤独で、そして怒っていた。なぜこんなことが起こったのか?孝進の麻薬濫用が原因なのか?私が孝進を神の御許に連れ戻すのに失敗したので、神が私を罰しているのか?
私が給仕のため姿を見せなかったので、文夫人は心配した。私は孝進に、私たちが失ったものについて、彼の両親には細かいことを告げないでくれと頼んだ。それは個人的なことだった。「ただ流産したとだけ言ってもらえないかしら」と私は懇願した。仁進が四人目の子を産んだばかりで、私たちが一緒に住んでいる家のなかで、彼女の赤ちゃんの泣く声を聞くのは、心にナィフを突き刺されているようだった。「おまえ、おれに真の御父母様に噓をつけと言うのか」と孝進は憤慨したように尋ねた。私はただ少しのプラィバシーがほしいだけ。けれども私は知っているべきだった。それは文の屋敷内では高望みというものだった。彼は「真のお母様」にすべてを告げた。
私の秘密主義は文夫人を激怒させた。それは私が信用できないことを裏づけていた。私には二心ある。「真の御父母様」の御業をひそかに贬めようと企んでいる私の両親の手先だ。私と私の両親に対する批判の太鼓は、絶え間なく打ちならされるようになった。日曜朝の礼拝では、私はサタンの手先の娘とそしられた。私は自分についてはあまり気にしなかったが、子供たちが祖父母のことで、これほど醜い噓を聞かされるのはいやだった。
私の父と母は慎みのあるきちんとした人間であり、自分たちの人生、そして自分の子供たちの人生を文鮮明に捧げてきた。彼らの誤った自己犠牲の報酬は公衆の面前でのあざけりだった。一九九三年、父は脳溢血の発作を起こし、文師夫妻に欧州統一教会会長を免職された。父は韓国に帰り、父と母とが手助けして築きあげた宗教活動から追放された。
孝進は「お父様」が私の両親を攻撃したことで大胆になった。それにあわせて、彼は私に対する攻撃をさらに激しくさせた。一九九三年には、コカインを常用するようになっていた。彼は何日も続けて私たちの主寝室に閉じこもり、私はやむを得ず、予備の衣類を子供たちのクローゼッ卜にしまい、彼らの寝室を一緒に使わねばならなかった。
一週間中コカインを吸い、ポルノ・ビデオを見て過ごしたあと、ある晚、彼は私を自分の部屋に呼びつけた。私はいくのを拒否した。彼は叫び声をあげ、大声で卑猥なことを言いながら、私たちが教会関係の教室に使っている階下の部屋までおりてきた。彼はコーヒーテーブルを横倒しにし、私を部屋のひと隅に追いつめて、壁に打ち付けた。彼の顔は私の顔からほんの数インチのところにあつた。
私は911をダイヤルしようと電話に飛びついた。「警察を呼んでいるのよ」と私は警告した。しかし彼は受話器を私の手からはたき落とした。「よくも警察なんか呼べるな」と彼は叫んだ。「あいつら、ここじゃなんの権利もないんだ。おまえ、おれが警察を怖がると思ってんのか?このおれが?メシアの息子が?」
彼が次になにをするのかわからなかったので、私はできるかぎりの大声で助けを呼んだ。教室の扉は大きく開いていた。警備員や厨房係の「兄弟姉妹」たち、ベビーシッ夕ーたち全員に私の声が聞こえているのはわかっていた。だれもこなかった。だれが文孝進に立ち向かう度胸をもっているだろうか?だれがメシアの息子から私を守ってくれるだろうか?彼は私の叫びが役に立たないのを笑い、うんざりして教室を出ていった。私は兄に電話をし、警察にいくつもりだと言った。
私は涙を流しながら、玄関の間にょろめき出た。そこで私の四人の子供のうちの三人が、階段に身を寄せ合っていた。彼らはすすり泣いていた。「ママ、いかないで」私が玄関へと歩いていくと、彼らは叫んだ。「すぐ帰ってくるから。心配しないで」と私は彼らの涙をふきながらささやぃた。
私はアービントン警察署へとまっすぐ車を運転していった。けれども一度駐車場に入ると、どうしたらいいのか、あるいはなぜ本当にきたのかわからなくなった。私は相変わらず恐怖と怒りで震えていた。私はそこに長い時間すわって、私を導いてくれるょう神に祈った。私はこの十一年間、自分の感情を隠し、外の世界から私の人生の事実を隠してきた。警察署の外に車を停めて、私はなにをしていたのだろう?警官が受付から見上げたとき、私は泣いていた。「助けが必要なんです」と私は言った。彼は私を裏の個室に案内し、私が何が起きたか話すのを静かに聞いていた。彼は住所を知っていた。彼は名字を知っていた。彼が驚いてはいないのは確かだった。
いくところはありますか?と、彼は知りたがった。家族はいますか?私にはただ兄がいるだけだった。彼はハーバードの学生だった。私は兄と兄嫁をこのことに巻き込みたくはなかった。彼女には両親とのあいだに、彼女自身の問題があった。私は彼女を私の問題には引き込みたくなかった。
警官は忍耐強く親切だった。彼は私の選択肢を説明した。私は孝進を暴行容疑で告訴できる。私は子供たちを家庭内暴力犠牲者のシェル夕ーに連れていける。私は彼にお礼を言ったが、心のなかでは自分がそのどれもしないだろぅとわかっていた。私にできるのは警察に届け出ることだけ。逃げたいといぅ欲求が欠けていたのではない。私には勇気が欠けていた。私は「ィーストガーデン」に帰るのが恐かったが、そこ、アービントン警察署にすわっていたとき、これまで以上に、自分には逃げ場所のないことをひしひしと感じていた。
▲ 1993年2月、信吉5歳の誕生日を祝う。文師と文夫人・韓鶴子は、私が数日前に中絶手術を受けたことを知らなかつた