4. 最初の妻 崔先吉女史 が告白! 「文鮮明教祖の性の祕密」

週刊ポスト  Shūkan Post   1993.10.8     40-43頁

▲(写真右から)文鮮明教祖夫妻と最初の妻・崔先吉女史

〈発堀スクープ〉2

●レポート/大林高士(ジャーナリスト)

最初の妻 崔先吉女史 が告白!
「文鮮明教祖の性の祕密」

「血分け」論争でさらなる重要証言者に遭遇


統一教会草創期の頃をよく知る金徳振牧師(80)が蹟罪の意味を込めて書いた手記は、「血分け儀式」の体験者として、その行為を赤裸々に語ったものだった。統一教会のルーツを求めてーーそれは、文鮮明教祖自身のルーツに迫る旅でもあった。文教祖の最初の妻、崔先吉女史は、昨年合同結婚式の行なわれたソウルのオリンピック・スタジアムに近い家にひとりで住んでいたーー。

❖ 写真の追加


▲ 崔先吉は文鮮明の最初の妻でした。彼女は、文鮮明が2人の信者と血分けの儀式を行っているのを目撃しました。彼女は自宅に帰り、文鮮明がそこに保管していた野球のバットを持って教会に戻りました。そして、それを使い教会の建物を傷つけ、世界基督教統一神霊協会(統一教会)と書かれた看板を破壊しました。


▲ 文鮮明は彼らの家に野球のバットを置いていた。この写真は1960年代半ばに撮影されました。


「新参信者に何がわかるか」

〈文鮮明と肉体的に関係した女性は必ず第二の男性と、その男性は第三の女性と、またその女性は第四の男性と、肉体関係を、すなわち「リレー」式にするのである〉

統一教会(世界基督教統一神霊協会)・文鮮明教祖の元側近だった金徳振牧師が私に手渡した手記には、統一教会草創期の“血分け儀式”の実態が、こう記されていた(本誌前号参照)。

そして、自らの「儀式体験」についても、金牧師は赤裸々にこう告白している。

〈女好き不良青年・金徳振はこんな好機を活用し、美貌の女信徒たちを厳選して「ソウル6名」「晋州4名」、肉体関係をした色魔であった〉

さらに金牧師は、私に、この10名のほかにも「6名の女性信者と関係を持った」と語り、文鮮明教祖自身も「百数十人」の女性信者と関係したはずだというのだ。


▲ 金徳振


▲ 文鮮明金徳振

この驚くべき元側近の証言に対して、本誌前号で統一教会は、次のように反論を寄せている。

「統一教会には『血分けの儀式』など教義的にも実際も一切存在せず、文師が不特定の数多くの女性と関係をもったことも一切なく、金氏の証言、手記で言っていることは何の根拠もない事実無根の虚偽の内容です」(広報部)

金牧師は、この日本の統一教会の反論に、語気荒く、「日本の新参信者に何かわかるのか! 1970年に統一教会の元重鎮の劉孝元がソウルの病院で亡くなった。彼が死ぬ1週間前に、私はその病院の廊下で偶然、彼に会い、彼の病室で統一教会のことを話した。

暑い日だった。私と彼は2人で涙を流して、文鮮明のことを語り合った。彼の死後、彼の弟や妹たちが統一教会を脱退したのも、兄から文鮮明の話を聞かされていたからだ。私の手記に嘘や偽りはない!」

血分け儀式をめぐる両者のいい分は、このように真っ向から対立しているのである。はたして真相は、どうだったのだろうか。

金牧師の手記には、さらに次のような一節があった。〈私が統一教会を脱退して韓国改革神学校に入学した時、私は親友・金景来と共に「統一教会の正体」という記事を書き、それが新聞に載った。

その数日後、私のもとに、おとなしい婦人が“この機会に、ぜひ文鮮明が決してメシアでないことを世界の信者に伝えて下さい”と涙を流して頼んできた〉

この婦人が、実は文鮮明の最初の妻・崔先吉だったのである。この日、崔女史は、激情していたのか、こんなことまで話したという。

〈文鮮明と結婚して息子を生むまで、お恥ずかしいことですが、毎晩10回以上、その勤めをさせられたのです。あの人の精力は蛇、いえ、それ以上に強いのです〉(金牧師の「手記」より)

崔をよく知る人々を取材してみると、文の妻であった当時の崔は烈女だったらしい。元統一教会幹部のA氏は、文鮮明教祖と崔先吉を離婚させたのは自分だ、とこう語る。「私が崔に離婚を承諾させたのです。女性関係が絶えない文に崔女史は食ってかかり、物は投げるわ、教会の看板は叩き割るわ……。当時、私は文の秘書のような存在でしたから、なんという女だと思っていたのです。

しかし、今考えると、彼女は文の異常な女性関係によって精神状態がおかしくなっていたのでは……。いまでは彼女に同情しているんです」

また、ソウルで会った統一教会の内部事情に詳しいB氏も、いう。

「彼女は思いやりのある優しい女性ですよ。烈女だなどといわれるが、そんなことはない。韓国では伴侶の浮気は厳しく罰せられるのに、彼女は文鮮明を刑務所へは送らなかった。やはり最後は文を守ったのです。私の妻なら、そうはいきません」


❖ 写真の追加


▲ 文鮮明と崔先吉の喧嘩。文鮮明は、1948年に長老教会から破門されました。当時、彼は3人の子供を持つ既婚女性であった金鍾和との重婚のために投獄されていました。彼はまだ最初の妻、崔先吉と婚姻関係にあったからです。崔先吉は、最終的に1957年1月8日に彼と離婚しました。


25才文鮮明教祖との見合い

文鮮明の糟糠の妻・崔先吉に私が会ったのは、ソウル市内の落ち着いた喫茶店だった。

私の前に現われた崔は、年老いた白髪の老女だった。

最初は硬い表情を崩さなかったが、時間が経過するに従って、徐々に重い口を開いた。日本語がわかるのだろう、私の冗談にも笑いはじめた。「文鮮明氏の最初の奥さんは死んだと聞いていたのですよ」

私の問いかけに、崔は寂しそうな表情を浮かべた。「アメリカでも日本でも、私は死んだことになっていると友だちから聞かされたことがあります」

崔はいま、昨年合同結婚式の行なわれたソウルのオリンピック・スタジアムに近い家にひとりで住んでいる。家族はいない。文鮮明との間に生まれた息子・聖進(47)は、離婚後、文と共にあり、聖進は一度も母の家を訪ねたことはないという。

「彼女は毎月40万ウォン(約5万円)、今年になってからは毎月100万ウォンが統一教会の某関係者から振り込まれ、それで生計を立てているようです。

そのささやかな金で彼女は生活を維持し、本当はその金さえいらないという気持ちなのでしょう。少しずつしか引き出していない通帳を見せてもらって、私は胸が詰まりました」(前出・A氏)

私は、崔に、いま文鮮明のことをどう思っているかと聞いてみた。

「当時のことを思い出すと、いまでも頭がガンガンして気が変になりますよ」

嫌な思い出だろうに、崔は私の質問にひとつひとつていねいに答えてくれた。文鮮明との出会いや、文の多くの女性関係。さらには、文の周辺が「早稲田大学卒業」と学歴を偽って彼女との結婚をはたしたと興味深い話を明かしてくれた。

崔は、現在は北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)にある定州の豪農の家に1924年に生まれた。終戦の時は、21才だった。そんな時、同じ定州の出身で「日本の早稲田大字を卒業した」という25才の文鮮明との見合い話が持ち上がったという。

「仲介する人がいて、文と会うと、早稲出大学を出ているという。それに、いまと違って容姿にも好感が持てたんです。」

▲ ソワル市内にある文鮮明教祖の邸宅

当時の韓国では、日本の早大卒の韓国人といえば超エリートと思われていたという。かつて74年頃、日本の統一教会の文鮮明略伝には「早稲田大学理工学部電気科入学」と書かれていて、学歴詐欺だと騒がれたことがあった。

その時、統一教会は、

「ソウルに問い合わせたところ、早稲田高等工業学校電気科の卒業であることがわかった。日本側の単純ミスで文鮮明師自身に罪はない」

と弁明して、ことなきを得た。だが今回、崔は見合いの時、「早稲田大学卒業だといって私を偽った」とはっきり証言したのである。

崔は離婚後、相当の年数を経て、文の“学歴”を知ったという。つまり、崔の証言によれば日本の統一教会が「単純ミス」と弁明した文の学歴は、実は、文の周辺が若い頃から吹聴していたという話になる。

見合いの日の夜から3日間、文は崔の実家に寝泊まりしたという。

「もちろん、その夜から?」

私のいささか不躾な質問に崔は頷く。同席していたA氏は、「韓国ではそんな無礼なことはないのです。なんと無礼なヤツなんだ!」と吐き捨てるように呟いた。

45年に結婚して、翌46年3月1日、崔は文の長男・聖進を産む。彼女にとって「幸せ」を実感できたのは、きわめて短い年月だったろう。

 

「離婚を決意した真相」とは

「結局、離婚を決意された理由は何だったのですか?」

私の問いに、崔は、はっきりとこう答えた。

「夫が次から次へと女性をだまして関係を持つ。そんな生活はもう耐えられないと思いつづけていた。それが離婚の原因です」

崔と別れた文鮮明は、60年3月16日に、当時18才だった韓鶴子(現夫人)と結婚するのだが、崔と離婚してから韓と結婚するまでの間に、文鮮明には子供までもうけたもうひとりの女性がいたという証言がある。

「その女性の名前は、金明煕(戸籍名)。生まれた子は喜進といい、のちに喜聖と名を改めている。とある事故に遭って死亡したといいます」(ソウルで会った統一教会事情通)

一方、崔は、文と離婚した後、40年を越える日々、ソウルで細々と暮らしてきた。その間に貧しかった統一教会は急速に発展し、文鮮明と韓鶴子一家はニューヨークやソウルに大邸宅を構え、栄華の日々を過ごした。時には新聞やテレビで文の得意満面の姿を目にしていただろう崔の生涯は、決して恵まれたものではない。最近、崔はちょっとしたトラブルに巻き込まれ、近所の青年の嫌がらせを受け、頬をぶたれ、家の窓ガラスを割られたとのことだ。

私はこの話を聞いて、改めて崔の現在置かれている決して豊かとは思えない環境に、思いをはせずにはいられなかった。

*

統一教命の合同結婚式は60年から始まっている。その第1回(60年)と第2回(61年)の結婚式は“聖婚式”と呼ばれて、それ以後の合同結婚式とは区別されている。

第2回聖婚式の36組のひとりである劉孝敏(現在、脱会)に改めて、金牧師の手記全文を読んでもらった。劉は読み終えると黙って私に手記を戻してよこした。抗議は何もなかった。

前号で書いたように、劉孝敏は統一教会の『原理講論』の著者とされる劉孝元(前出)の弟で、金牧師が血分けを受けた女性・劉信姫は、この劉兄弟の妹である。統一教会草創期の頃をよく知る人間のひとりといっていい。

私は、これまで取材した結果をもってもう一度、統一教会に尋ねてみた。42ページに統一教会の「反論」を掲載してあるので、参照していただきたい。

いまだに多くの謎に包まれている統一教会。そのルーツに、はたして何があったのか。この謎を解くひとつのヒントが、梨花女子大事件にあるという話を聞いた。

1950年 朝鮮戦争のさなか、文鮮明は金元弼らと共に南下して釜山に逃げ、この釜山で統一教会を旗揚げしている。54年にソウルへ移り、55年7月、文鮮明は梨花女子大事件で逮捕される。

当時の『東亜日報』によれば、文の容疑は、「女性信者の不法監禁と兵役忌避」(後に無罪)となっているー。


● 統一教会の「反論」3つの論点

1、崔女史に統一教会関係者から毎月100万ウォン振り込まれていたという指摘について

「日本の当法人としては、お答えする立場にありません」

2、文鮮明教祖の「学歴問題」について

「仲介者がどのように説明したか分かりませんが、文鮮明師は『早稲田大学付属高等工学校電気工学科』の卒業です」

3、崔女史の「文鮮明教祖の女性関係」についての証言

「崔女史に確認したところ、同女史は、自分を利用しようとする者が多くいることを知っているので、人にも会わないようにし、会っても文鮮明師のことを話さない、最近、劉孝敏氏が、日本人を連れて、同女史の故郷を確認し、どこに行けば幼いころのことが分かるかと尋ねてきたが、文鮮明師のことを話題にしたことはない、とのことでした。もし、劉孝敏氏、一緒にいた日本人が、崔女史から文鮮明師のことを聞いたということであれば、事実無根のことであり、デッチ上げ記事以外の何物でもありません。劉孝敏氏は、かつて文鮮明師に愛された人物ですが、現在は教会を脱会し、教会に反対する立場に立ち、文鮮明師を緋膀中傷するでたらめの発言を繰り返している人物です。

事実に反する当法人の創始者のスキャンダルを捏造して『淫祠邪宗』のレッテルをはり、予断と偏見により世論を誤導するやり方は、言諭の自由の名をかりた宗教弾圧の常套手段であり、今回2度にわたる貴誌による文鮮明師に対する名誉毀損は、その最たるものと思われます」

統一教会広報部の話


私が目撃した統一教会·文鮮明教祖の「SEXリレー」のすべて

中村敦夫 vs 統一教会「混淫派·血分け」論争の核心

「私の一族は統一教会の餌食にされた」

「血分け問題」に重大証言

文鮮明教祖の「血分け」ルーツで 浮上した「女子大事件」

これが『統一教会』の秘部だ 


English translations:

Pak Chung-hwa interviewed about Moon’s “SEX relays”

Moon’s first wife, Choi Seon-gil, and Kim Deok-jin interviewed

Sun Myung Moon used a ‘Honey Trap’ – Choi Soon-yeong explains

Pikareum sex emerged at Ewha Womans University in 1955

Sun Myung Moon’s “Gigantic lie” by Eu Hyo-min (36 couple)

The Fall of the House of Moon – New Republic

Sun Myung Moon’s secret love child – Mother Jones